食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

トルティーヤを作りました

2021-12-30 22:13:40 | 世界の料理を作ってみよう
今夜はトルティーヤを作りました。
トルティーヤはメキシコなどよく食べられているトウモロコシの粉で作ったクレープのようなものです。

材料は石灰水で処理したトウモロコシ粉です。石灰水で処理することで水を混ぜてこねた時に粘り気が出ると同時に、栄養素の吸収も良くなります。
石灰水で処理したトウモロコシ粉は市販されていて、簡単に手に入ります。



これに水と塩とサラダオイルを混ぜてこねます。そして薄く延ばしてフライパンで裏表を1分ずつ焼けば出来上がりです。



これにいろいろな具を乗せてから二つに折ってタコスにして食べました。



トウモロコシの味がしっかりして美味しかったです。

パリ・ブレストを食べました

2021-12-28 22:13:10 | 世界の料理を食べてみよう
本日はフランスのケーキ「パリ・ブレスト」を食べました。



このケーキは1891年から始まった自転車レース「パリ・ブレスト・パリ」の開催記念に考案されたもので、自転車の車輪のような形をしているのが特徴です。間にはさまれているのはプラリネ(ナッツのペースト)が入ったクリームです。

本日食べたパリ・ブレストは名店オーボンヴュータンのものです。美味しさは言わずもがなでした。

江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)

2021-12-28 18:00:55 | 第四章 近世の食の革命
江戸を支えた塩-近世日本の食の革命(3)
敵に塩を送る」ということわざがあります。これは「窮地の敵に助けの手を差し伸べる」ことを意味していて、塩不足で困っていた武田信玄を救うために、長年のライバルだった上杉謙信が塩を送ったという故事から生まれたことわざです(実際にはそのような史実はなく、後世の作り話と考えられています)。

このようなことわざが生まれた背景は次の通りだったと考えられています。
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元は、それぞれの領地を安定化させるために1554年に軍事同盟を結びました。これを甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)と呼んでいます。

ところが、1560年に今川義元が織田信長に討たれ、今川氏真(うじさだ)が当主になると、同盟関係にほころびが見え始めます。最終的に、今川氏真が武田信玄との対立を決意し、1567年に甲斐への塩の輸送を禁止しました。これに呼応して、相模の北条氏康も甲斐への塩止めを行いました。こうして内陸の甲斐は塩不足で苦しむことになるのです。これが「敵に塩を送る」ということわざが生まれた背景になっています。

塩は人が生きるために必須のもので、塩が欠乏すると、体が動かせなくなるほど衰弱してしまいます。特に戦国時代は、戦をするための必需品で、1人当たり10日で1合の塩が必要だったと言われています。

関東では、「行徳(ぎょうとく)」と呼ばれる現在の千葉県の浦安市から市川市にかけての沿岸部で塩づくりが盛んに行われていて、北条氏も塩を年貢として受け取っていました。また、徳川家康が江戸にやってきてからも、行徳の塩は江戸を支える重要な役割を担っていました。

今回は、日本の製塩の歴史を概観したのちに、江戸を支えた行徳の塩作りについて見て行きます。



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日本は海に囲まれた島国で海水がとり放題のため、塩には困らなかったと思うかもしれない。ところが、実際にはその逆で、海水を乾かす広い海岸が少なく、雨がよく降るため、日本人は塩作りにとても苦労をしてきたのだ。

古代日本では「藻塩」と呼ばれる塩が主に使われていた。これは、海藻に海水をかけて乾かし後、焼いて灰にしたたものを水に溶かして煮詰め、結晶化させたものである。

中世になると、「揚浜式塩田(あげはましきえんでん)」で、塩作りが行われるようになった。これは粘土の上に砂を薄く敷いた塩田で、ひしゃくや桶で海水をまいて、太陽の熱と風の力で水分を蒸発させるものだ。その後、砂についた塩を海水で溶かし、煮詰めることで塩を作り出す。

また、近世になると、潮の干満差を利用して海水を自動的に塩田に導入する「入浜式塩田(いりはましきえんでん)」が瀬戸内海を中心に普及した。これらの揚浜式塩田と入浜式塩田を用いた塩作りは1940年ごろまで続けられた。

その後の1971年までは、傾斜地などを利用して海水をゆっくりと流す間に塩分の濃縮を行う「流下式塩田」を用いた製塩が行われた。しかし、いずれも太陽と風の力を利用したものであったため、天候に左右されるし、コストもかかった。

ところが、1971年に海水中の塩化ナトリウムを電気的に濃縮する「イオン交換膜製塩法」が開発されたことにより、塩を大量かつ安価に生産することが可能になった。塩化ナトリウムは工業的にも重要な物質であったため、イオン交換膜法による塩づくりは日本が経済大国として成長する原動力の一つになった。
次は行徳の話だ。

1590年に北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、北条氏の領地は徳川家康に任された。そして行徳も家康の所領に組み込まれる。全国統一の前であり、塩は軍事物資としてきわめて重要であったことから、家康は行徳での塩作りをあつく保護した。また、日本橋と行徳を結ぶ運河「小名木川」を開削して、行徳の塩を船で迅速に運ばせるようにした。

その後も3代将軍家光の代まで、塩田開発に資金の貸付けを行なうなど、塩作りを奨励した。こうして行徳は関東有数の塩の生産地に発展した。最盛期には、370ヘクタール(370万㎡)の塩田が広がっていたと言われている。

ところで、日本で最も塩作りに適した地というと、瀬戸内海地方になる。瀬戸内には、「雨が少ない」「広い砂浜が多い」「塩作りに適した細かい砂が手に入りやすい」といった利点があった。さらに、干満差が激しいため、入浜式塩田にも適していた。

こうして江戸時代に入ると、播磨の赤穂で始まった入浜式塩田が瀬戸内海全域に広がった。そして、播磨(はりま)・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ) )の10州で取れる塩は「十州塩」と呼ばれて全国に流通するようになる。江戸後期には全国消費量の8割以上を瀬戸内の塩が占めるようになったと言われている。

この流れに対抗して、行徳ではにがりを取り除いた塩を作り出すなどの工夫が行われた。

海水には塩化マグネシウムが含まれており、塩田で作った塩には多量の塩化マグネシウム(にがり)が混じるのだ。塩化マグネシウムは湿気を含みやすく、夏場や梅雨時には塩がドロドロになったり、一部が溶け出して目減りしたりする。

そこで、行徳ではできた塩をすぐに出荷せずに、しばらく保管してにがりを除去するようにした。塩を穴蔵に入れてしばらく置いておくと、にがりが溶け出すのだ。こうして作った「古積塩」は長期保存できることから、塩が手に入りにくい内陸部や東北、信濃などで好評を得たという。

なお、塩は焼くことでもにがりを除去することができる。塩を高温で熱すると、塩化マグネシウム(MgCl2)が酸化マグネシウム(MgO)に変化するのだ。こうすると吸湿性が失われ、いつまでもサラサラとした状態を保つことができる。このような塩を「焼塩」と呼んでおり、江戸には多くの焼塩売りがいたという。また、今日でも天然塩の焼塩が製造され、販売されている。

南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)

2021-12-25 19:17:15 | 第四章 近世の食の革命
南蛮菓子の伝来-近世日本の食の革命(2)
前回は南蛮料理のお話でしたが、今回は「南蛮菓子」についてお話します。
1541年のポルトガル人来訪から始まる南蛮貿易によって、さまざまな菓子を作る技術が日本に伝わり、南蛮菓子の歴史が始まりました。

南蛮菓子には、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」「ビスケット」「金平糖」「有平糖」「カルメラ」などがあります。これらの南蛮菓子の特徴は、砂糖と卵を使うことで、特に砂糖の甘さは当時の人々を魅了しました。このため、ポルトガルやスペインの宣教師が布教活動を行う上で、これらの南蛮菓子が大いに役立ったと言われています。また、安土桃山時代以降に茶の湯が流行しますが、砂糖を使った南蛮菓子は茶菓子として珍重されました。

今回は、日本における砂糖と卵の簡単な歴史とともに、「カステラ」「ボーロ(ぼうろ)」「ビスケット」「金平糖」の歴史について見て行きます。



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最初は、砂糖の歴史だ。

日本における砂糖の最初の記録は825年の正倉院の目録に見られることから、平安時代には中国から日本に伝来していたと考えられる。しかし、その頃の砂糖は薬の一種とみなされていた。

鎌倉時代末頃になると、中国との貿易が盛んになり、砂糖の輸入量も増加した。そして、ポルトガル人が来訪する室町時代末期には、砂糖は生糸や絹織物に次ぐ重要な輸入品となっていた。

江戸時代になると、薩摩藩が支配下に置いた琉球や奄美でサトウキビの栽培と砂糖の製造が始まった。これらの島々からの砂糖と、海外から長崎に運ばれてきた砂糖のほとんどは物流の中心であった大阪に輸送され、そこから日本の各地に出荷された。このため、南蛮菓子の多くが大阪やその隣の京都で作られてきたという歴史がある。

18世紀になると砂糖の国産化が推奨され、18世紀の終わりには讃岐での和三盆作りが軌道に乗った。

次はの歴史だ。

卵はニワトリが産む。ニワトリは神聖な生き物とされ、675年の天武天皇の詔で、ウシ・ウマ・イヌ・サルとともに、ニワトリを食すことが禁じられた。卵については食べることは禁じられていなかったが、食べるとたたりがあると信じらたため、日本人は卵を食べることを避けてきた。

しかし、室町時代末期に来訪した南蛮人が卵を食べていても平気なのを知って、卵を食べる習慣が日本国内に広がる。そして、卵の生産量も増加した。
江戸時代になると、卵を使った菓子だけでなく、さまざまな卵料理が考案されて広く食べられるようになった。天明年間(1781~1789年)に出版された料理本『万宝料理秘密箱』には、103種の卵料理が記載されている。

なお、南蛮菓子に使用する小麦粉については、奈良時代から日本で作られてきたと考えられている(詳しくは、本ブログの「うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)」をご覧ください)。

それでは、それぞれの南蛮菓子について見て行こう。

カステラ
カステラは、小麦粉に泡立てた卵と砂糖を加えて作った生地をオーブンで焼いた菓子だ。

カステラの語源は、イベリア半島にあったカスティーリャ王国(Castilla)と言われている。しかし、カステラと全く同じ菓子はポルトガルやスペインには無く、これは日本の調理器具で作られたために別物になったからだと考えられる。

カステラに最も似ているポルトガルの菓子が「パン・デ・ロー」と呼ばれるものだ。これは、キリスト教の祭りや結婚式などの祝い事に食べられるお菓子で、角形のカステラと異なり、円形をしている。また、カステラのように中まで火が通ったタイプと、中身が半熟でとろとろしたタイプがある。

ボーロ(ぼうろ)
ボーロは小麦粉に砂糖、卵、水を混ぜ、小さく丸めたものを焼いて作る。ボーロ (bolo) とは、ポルトガル語で「丸い菓子」を意味し、ボーロという特定の菓子があるわけではない。

日本にボーロの作り方が伝わると、小麦粉の代わりに、ソバ粉や片栗粉を使った菓子も作られるようになった。

ビスケット
ビスケットは、小麦粉に牛乳やバター、砂糖を入れた生地を焼いて作った菓子だ。

ビスケットの語源は、フランス語で「二度焼いた」という意味の「ビスキュイ(biscuit)」だ。二度焼くことで水分が非常に少なくなって、保存性が高まる。大航海時代には、船に乗せる保存食として使用されていた。

日本に来訪した南蛮人が日本人に紹介したところ、好評を得たという話もあるが、長崎などでわずかに作られるだけだった。ビスケットが日本国内で食べられるようになるのは明治になってからのことだ。

金平糖
金平糖はご存知の通り、表面に凸凹がある小型の砂糖菓子だ。語源はポルトガル菓子の「コンフェイト(confeito)」だと言われている。

1569年にルイス・フロイスが京都の二条城で織田信長に謁見した時の贈り物の中に、金平糖が入ったガラス瓶があったとされる。日本で最初に金平糖が作られたのは長崎で、1680年代になってからと言われている。

金平糖を作るのは大変で、斜めに傾いた回転する大きな釜に核となるケシ粒を入れ、少しずつ砂糖蜜を回しかけて作る。この作業には2週間以上かかるため、手作業で行っていた近代までは、きわめて高価なお菓子だった。

茶道で使用する「振り出し」と呼ばれる菓子入れには、保存食として金平糖などの砂糖菓子を入れておくのが習わしとなっている。

南蛮料理のはじまり-近世日本の食の革命(1)

2021-12-21 18:20:09 | 第四章 近世の食の革命
南蛮料理のはじまり-近世日本の食の革命(1)
今回から近世日本のシリーズが始まります。

日本の食文化の歴史を見ると、1543年にポルトガル人が豊後に来訪してから始まる西洋人の到来が、日本の食文化に大きな影響を与えます。そのため、本ブログでは、このポルトガル人来訪から江戸時代が終わるまでを近世として扱います。

第1回目の今回は、西洋人が日本に来訪することで作り始められた南蛮料理について見て行きます。現代でも、南蛮漬けや鴨南蛮のように、「南蛮」が付く料理がいくつかありますが、これらはどのような経緯で作られるようになったのでしょうか。

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南蛮」とは、元は中国の考え方で、南方にいる蛮族(異民族)のことを意味していた。しかし、16世紀に日本に西洋人が来訪するようになると、南の海からやって来るヨーロッパ人などを南蛮人と呼んで、侮蔑的な意味は消えて行った。むしろ、南蛮はきらびやかな異国を示す言葉になったのである。

この南蛮人たちが伝えた料理や菓子から生まれたのが南蛮料理であり、南蛮菓子だ。

日本にやってきたヨーロッパ人が、ポルトガルやスペイン、オランダと同じような材料を日本でも手に入れることができたなら、本国とほぼ同じ料理を作ることができたはずだ。

菓子の主な材料は、砂糖、小麦粉、卵で、これは日本でも手に入るものだったので、ほぼ同じものを作ることができた。一方、料理について言うと、ヨーロッパ人が大好きな獣肉は日本ではまず手に入らないし、野菜と香辛料も同じものはほとんどなかった。そこで、手に入りやすい食材を用いて、日本特有の「南蛮料理」が生み出されたのである。

南蛮料理とは、一般的にネギとトウガラシを多用する料理のことを指すが、これは、西洋人が常食していたタマネギの代わりにネギを、コショウの代わりにトウガラシを使用したからだと考えられる。

タマネギは江戸末期になってようやく日本に伝えられるに対して、ネギは奈良時代に中国から伝わり、それ以降ずっと日本の食卓に上り続けてきた馴染み深い野菜だ。名前が示すように、タマネギとネギは風味がよく似ており、日本にやって来た西洋人も好んで食べたと言われている。

一方のトウガラシは、アメリカ大陸原産の植物であるが、ヨーロッパ人の進出とともにアジア全体に広がった。コショウが熱帯地方でないと育たないのに対して、トウガラシは日本でも栽培することができたため、コショウの代わりの香辛料として使用されたのだ。トウガラシは「red pepper(赤いコショウ)」と呼ばれるように、コショウの代わりになる貴重な香辛料になると考えられ、重宝されたのだろう。

現在でも食べられている「南蛮」が付く料理には、「南蛮漬け」「鴨南蛮」「南蛮煮」などがあるが、「鴨南蛮」と「南蛮煮」は江戸時代に入ってから日本人が独自に考案したもので、ネギやトウガラシを使って南蛮風にした料理だ。一方、「南蛮漬け」は、南蛮人が伝えたものと考えられている。

南蛮漬け」は、小アジなどの小魚を唐揚げにして、焼きネギ、トウガラシと一緒に酢に漬けたものだ。ポルトガルやスペインでよく食べられている料理に、「エスカベーチェ」と呼ばれる唐揚げにした魚をタマネギなどの野菜・香辛料と一緒に酢に漬けたものがある。これが日本に伝えられて南蛮漬けになったと考えられている。


エスカベーチェ(Javier Lastrasによるflickrからの画像)

これ以外に、南蛮から伝えられた料理に「てんぷら」がある。このてんぷらは長崎で作られた南蛮料理の長崎てんぷらに由来する。これはフリッターに似ていて、小麦粉に砂糖と塩、酒などを加えて作った味付きの衣で、魚介類などを揚げた料理だ。これが江戸に伝わると、現在のてんぷらのように、味付けがされていない衣に変化した。(てんぷらの詳しい歴史については、このシリーズで詳しく解説する予定です。)

パン」も、1543年にポルトガル人が種子島に漂着した時に、鉄砲と一緒に日本に伝えられたと言われている。その頃は「ハン」と呼ばれて「波牟」という字があてがわれていた。パンと呼ばれるようになったのは明治になってからである。

1612年に江戸幕府によってキリスト教が禁止されると、市中でのパンの製造も禁止された。それ以降は、出島で暮らす西洋人のために作られるだけだったが、幕末になって西洋人との交流が始まると、兵糧としてパンを用いるようになったとされる。

南蛮人は、これまで見てきたような料理だけでなく、トウガラシのような新しい食材も日本に持ち込んだ。例えば、カボチャスイカジャガイモイチジクトウモロコシなどはすべて南蛮人が日本に伝えた食材だ。カボチャは和食の定番の食材のように思われているが、実はアメリカ大陸原産の作物なのである。