食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

西欧人とソバ-中世盛期のヨーロッパと食(6)

2020-11-30 23:32:29 | 第三章 中世の食の革命
西欧人とソバ-中世盛期のヨーロッパと食(6)
今回は十字軍によって西ヨーロッパに持ち込まれたソバの話です。西洋人はあまりソバを食べないような気がしますが、実はヨーロッパの多くの国々でよく食べられています。

最初はコムギが育たないところで栽培されていたソバでしたが、次第に各地の重要な食になって行ったのです。


ソバの花
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人間が食料にしている穀物のほとんどはイネ科の植物だ。つまり、イネ・ムギ・アワ・ヒエ・キビに加えて、トウモロコシもイネ科だ。さらに、砂糖を取るサトウキビもイネ科である。一方、ソバはタデ科の一年草であり、イネ科が幅を利かす中で珍しい存在と言える。

ソバはやせた土地や乾いた土地でも育つし、病気や害虫にも強いという性質を持っている。また、生育期間がとても短く、種をまいてから2~3カ月で収穫できる(このため「蕎麦75日」という言葉がある)。

ソバの原産地は中国南部とされており、日本では遅くとも弥生時代からソバの栽培が行われていたと考えられている。

前回お話ししたように、ヨーロッパには十字軍によって中東から伝えられた。このため、フランスやイタリアではソバのことを「サラセンの麦」(仏:ble sarrasin、伊:grano saraceno)という(サラセンとは北アフリカのイスラム教徒のこと)。

西ヨーロッパに持ち込まれたソバは、イタリア、ドイツ、フランス、ベルギー、イギリス、そして東ヨーロッパに広がった。特に、コムギが育ちにくいやせた土地にコムギの代わりに栽培されることが多かった。

ここで、各国のソバ料理について見て行こう。

最初はイタリアだ。

北イタリアの山岳地帯ではコムギが育たないので、そば粉で作った粥を主食にしていた。これを「ポレンタ」と呼ぶ。風味付けにオリーブオイルやバターを入れたりする。15世紀になってアメリカ大陸からトウモロコシが持ち込まれると、ポレンタはトウモロコシの粉で作られるようになったが、今でもそば粉のポレンタも少しは残っているという。

また、スイスやオーストリアとの国境近くのロンバルディア州ヴァルテッリーナ地方では、そば粉で作ったパスタ「ピッツオッケリ」が古くから作られている。現代では、ピッツオッケリにキャベツやジャガイモを加えて、バターとチーズのソースを絡めて食べることが多い。


ピッツオッケリ(By Nnaluci-Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3560772)

次はフランスだ。

フランスでソバを使った料理の定番と言えば「ガレット」だ。

ガレットはブルターニュ地方で昔から作られている料理だ。この地方もコムギの栽培には適さず、代わりにソバが育てられてきた。

ガレットは、そば粉を牛乳、水、塩と一緒にこねて1時間ほど寝かしたものをクレープ状にしてバターでこんがりと焼いたものだ。その上にハム、卵、チーズを乗せて食べる。パリッとした表面で中はもちっとしている。食べると口の中にソバの香りが広がる。

ブルターニュでガレットを食べる時には必ず特産のリンゴで作った発泡酒(シードル)を飲む。シードルは甘い風味があるため、塩気のきいたガレットとよく合う。なお、シードルを蒸留して作ったリンゴの蒸留酒は「カルヴァドス」と言い、これもブルターニュの特産品だ。


ガレット(By DC-Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25694464)

最後はスロベニアだ。スロベニアはイタリアの東、オーストリアの南に位置する。

スロベニア人の年間のソバの消費量は日本人よりも多く、ソバをほぼ毎日何らかの形で食べているという。おそらく、ソバを使ったレシピも世界で最も多いと思われる。

スロベニアではパンにもケーキにもそば粉を入れる。「ポタンツァ」というカッテージチーズ入りのそば粉で作ったパンはお祭りに欠かせないもので、肉料理や野菜料理と一緒に食べるという。また、ニジマスの表面にそば粉をまぶして油で焼いた料理も伝統的な料理として知られている。さらに、そば粉の生地で袋をつくり、中にクリを詰めてゆがいた料理もあるらしい。

スロベニア人はソバの実だけでなく、花や茎もアルコール漬けにして食べたり、しぼってジュースにして飲んだりするという。こうして見て来ると、スロベニア人が日本人よりもソバ好きなのは間違いないと思われる。

ソバを今日でもよく食べる国としては、イタリア・フランス・スロベニアのほかに、クロアチア、ポーランド、デンマーク、チェコなどがある。ソバにはほかの穀物にない独特の風味があるが、それが日本人だけでなくヨーロッパの人々にも好まれるのだろう。

十字軍と砂糖の出会い-中世盛期のヨーロッパと食(5)

2020-11-28 17:55:40 | 第三章 中世の食の革命
十字軍と砂糖の出会い-中世盛期のヨーロッパと食(5)
今回は十字軍のお話です。十字軍は一般的に「聖地エルサレムの回復」という崇高な目的によって行われたとされていますが、実際は人間のエゴや欲の結果行われたものでした。そして十字軍兵士はエルサレムなどで大虐殺行為に及びます。これが現代になっても解決の糸口がつかめない西洋と中東の対立の根本的な原因であると言われることも多いのです。

ところで、ヨーロッパの発展にとって十字軍が果たした役割は大きいものでした。進んだイスラムの文化に触れたヨーロッパの人々はそれらを祖国に持ち帰り、その後の発展の礎としたのです。食の世界では、それまでなじみのなかった東方の食品がヨーロッパの人々に広く知られるようになりました。


十字軍(GaertringenによるPixabayからの画像)
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十字軍結成のきっかけを作ったのはビザンツ帝国だ。イスラム教徒国だったセルジューク朝(1038~1308年)の侵攻にさらされていたビザンツ帝国は、1095年にローマ教皇に援軍を要請した。そして第1回の十字軍(1096~1099年)が始まるのである。

ビザンツ帝国は攻め込んできたイスラム兵士を追い払えるだけの軍隊を期待していたのだが、やって来たのは想定外の大軍だった。そして「聖地エルサレムの回復」というやっかいな目的もたずさえてやって来た。

ビザンツ帝国から要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世が自身の権威を高めるとともに、ギリシア正教会に対して優位に立つために西ヨーロッパ中に呼びかけたからである。

また、十字軍兵士にもぜひともエルサレムに行きたい理由があった。

前回お話ししたが、キリスト教徒にとってエルサレムへの「巡礼」はとても人気があった。また、エルサレムにはイエス・キリストの遺物(聖遺物)が遺されており、それを手に入れることは最高の喜びであり名誉なことだった。さらに敵地を征服できれば、財産を略奪することで豊かになれるかもしれなかった。このような理由から大勢の志願兵が十字軍兵士となったのだ。とにかくその頃は、西ヨーロッパは人口増加によって活気があふれており、そのエネルギーがエルサレムに向かったのだ。

ところで、エルサレムは同じ神を崇めるユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であり、イスラムがエルサレムを支配していた時もユダヤ教徒とキリスト教徒は自由に出入りしたり居住したりできていた。このため「聖地回復」とは、エルサレムをキリスト教徒だけのものにするという意味合いになる。

第1回十字軍はイスラム内の内紛の影響もあってエルサレムの征服に成功する。そして十字軍兵士はエルサレムのイスラム教徒とユダヤ教徒の大虐殺を行い、略奪を繰り返した。この時に殺されたイスラム教徒は7万人に上ると言われる。また、イスラムの岩のドーム内の財宝は根こそぎ奪われた。

なお、十字軍はエルサレムへの行軍途中でもイスラム教徒とユダヤ教徒に対して強奪・強姦・虐殺を繰り返していたとされる。また、ヨーロッパでも民衆によるユダヤ教徒の虐殺が起こっており、この頃がユダヤ人迫害の始まりとなった。

その後十字軍は、エルサレムなどの征服地にエルサレム王国などの十字軍国家を建設し、キリスト教徒が多数移住するようになった。エルサレムは1187年にイスラム教徒に奪還されるが、エルサレム王国を始めとする十字軍国家の多くは100年以上存続する。

西ヨーロッパの人々がシリアやパレスチナに住み始めると、自然とイスラム教徒との接触が増え、文化の交流や交易が始まるようになった。また、ジェノヴァやヴェネツィアなどの北イタリアの都市によって盛んとなっていた地中海交易は、十字軍の輸送や補給に交易航路が利用されるとともに、西ヨーロッパ勢力が地中海東岸を征服したことによってさらに発展した。こうしてイスラム圏から西ヨーロッパに新しい文化や書物、そして東方世界の品々が大量に流入するようになる。

ここで、この時に西ヨーロッパに流入した食材について紹介しよう。実は、その多くはイスラム勢力のイベリア半島支配によって既にヨーロッパに持ち込まれていたのだが、西ヨーロッパ人に広く知られるようになったのが十字軍遠征によってである。

まず、ソバやナス・ホウレンソウなどの野菜、そしてレモン・スイカなどの果物が西ヨーロッパにもたらされた。また、シナモン・ナツメグなどの香辛料もこの頃に西ヨーロッパ人の知るところとなる。

そして、何と言っても重要なのが「砂糖」だ。

十字軍は行軍途中に中東の現地人から甘い汁を出すサトウキビのことを聞き、腹が減るとサトウキビの茎を噛んで空腹をまぎらせたという。そして、十字軍国家のエルサレム王国が建設されると、砂糖の製造方法をイスラム教徒から教わり自分たちで砂糖造りを始めた。

この方法が「砂糖プランテーション」と呼ばれるもので、サトウキビだけを大量に栽培し、植え付け・育成・刈り取り・精製までの過程を一貫して行う方法だ。サトウキビから砂糖を精製するためには、刈り取った茎を素早く圧搾し、煮詰め、結晶化させる必要があるのだ。

このような工程を効率よく進めるためには大量の人手がいるが、エルサレム王国は侵略で獲得した奴隷と戦争捕虜を利用したと言われている。

やがて十字軍国家は崩壊するが、砂糖プランテーションは地中海のキプロス島やクレタ島、シチリア島などに持ち込まれる。そして大航海時代になると、アメリカ大陸などで黒人奴隷を使った砂糖の大量生産が行われるようになる(いずれ詳しい話をします)。

さて、十字軍を生み出すきっかけとなったビザンツ帝国であるが、第4回十字軍(1202~1204年)の攻撃により首都のコンスタンティノープルが陥落し、キリストの聖遺物を始めとする財宝が西ヨーロッパに持ち去られてしまう。その後ビザンツ帝国はコンスタンティノープルの奪回には成功するものの、立ち直れず、1453年に滅亡することになった。

中世の都市生活-中世盛期のヨーロッパと食(4)

2020-11-25 22:53:58 | 第三章 中世の食の革命
中世の都市生活-中世盛期のヨーロッパと食(4)
前回は農村の様子をお話ししましたが、今回は中世の都市生活について見て行こうと思います。

西ローマ帝国の滅亡によって、それまでの都市は衰退しますが、中世盛期になると再び活気のある都市が発展するようになります。それを担ったのが「冒険商人」です。治安の悪い時代に一獲千金を狙って命がけの商取引を行ったのが冒険商人たちでした。
 
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10~11世紀頃に西ヨーロッパで農業生産力が大きく増大し始めた結果、荘園では内部で消費する以上の作物を収穫できるようになった。このような余剰生産物は荘園外に持ち出され、他の生産物との交換が行われるようになる。

これを担ったのが冒険商人と呼ばれる農家になれなかった、あるいは農家になるのを嫌った人々だった。人口が増えたため、農家以外の仕事をする者も出現するようになったのだ。彼らは一獲千金を夢見て荘園外に飛び出した。

商売を効率的に行うためには商品と商人が集まる特定の場所があると良い。そのような市場ができたのがキリスト教の大司教や司教が治めた「司教都市(司教座都市)」と呼ばれる街であった。司教都市は西ローマ帝国が滅亡した後も各地域を統治する役割を果たしていたし、その中の教会や修道院は巡礼の旅人に食事と宿を提供していた。

ローマ・カトリックの信者にとってエルサレムやローマなどの聖地への巡礼はとても重要だった。巡礼は尊い行いとして社会的に認知されていて、多くの人が一生に一度は聖地に行ってみたいと思っていたようだ。集団での巡礼がよく行われていて、時には数百人から千人もの信者が集団で聖地を目指したという。そして彼らは司教都市の教会や修道院に立ち寄りながら巡礼の旅を続けたのだ。

このように多くの人がやって来る司教都市に市場が生まれるのは当たり前のことであり、司教都市を核としてさらに商人たちや様々な商品を作る手工業者が集まることで市場が拡大し、商業活動が活発化して行ったのである。

こうして司教都市には次々と商人たちが集まってきたのだが、彼らは次第に自分たちの力で町を統治しようと思うようになった。そして彼らは領主を買収したり、場合によっては戦ったりすることで自治権を獲得して行った。

独立を果たした自治都市は都市全体を城壁で囲み、城門によってのみ外部と行き来を行った。このように都市全体が城塞の役割を果たしたのである。ちなみに、ヨーロッパの都市で地名の語尾にブルク(ドイツ)・ブール(フランス)・バラ、バーグ(イギリス)がつくものが多いが、これらはいずれも「城塞」を意味している。

こうして11~12世紀にかけて独立を果たした中世都市は、自治権を守るために他の都市と同盟を結び、領主や国家などと戦うこともあった。その代表的なものがロンバルディア同盟ハンザ同盟である。

一方この頃には、サラセン人(北アフリカのイスラム教徒)によって支配されていた地中海貿易が、イタリアのアマルフィやピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどの奮闘によって彼らの手に奪還されていた。彼らの地中海貿易と中世都市の商売が結びつくことで、中世の商業はますます盛んになって行ったのである。

さて、ここで中世都市における食について見て行こう。

人は食べないと生きていけない。商人たちも食べないと商売を続けられない。そこで、市場や集落のように人が集まる場所には食事や飲料を提供する飲食店が次々に出店して行った。店ではパンやチーズをばら売りし、店で調理した料理も出したという。また、ビールやワインも小売りしていた。都市には炉が無い住宅も多くあり、そこに住む人は基本的に外食するしかなかったのだ。

大都会のロンドンやパリなどの大都市では飲食店が大量にあり、とても繁盛していたそうだ。特にロンドンの飲食店街は有名で、12世紀後半にはテムズ川の岸辺近くではあらゆる種類の飲食店が24時間営業をしていたと言われている。そこではパンやチーズに加えて、串焼き肉やミートパイ、ゆで肉、揚げ肉、パテ(肉を細かく刻んでペースト状にしたもの)、ラグー(肉や魚介類を細かく切って煮込んだもの)、ワッフル、ビール、ワインなど、さまざまな料理や飲料を楽しむことができた。

家で食べる場合は自分たちで食事を用意することになるが、中世都市の食事で主食となっていたパンについてはパン焼き職人に焼いてもらうのが普通だった。パン焼きかまどはかなり大掛かりな設備になるため、金持ち以外は自宅に持てなかったからだ。



パン焼き職人は持ち込まれたパン生地を焼いて客に渡していたが、このようなシステムであったため一部のパン職人が不正を始めた。それは、客が持ち込んだパン生地の一部をこっそり盗んで焼き、別の客に売るというものだった。

しかし、その不正は結局ばれてしまい、例えば13世紀のイギリスでは『パンとビールの公定価格法』という法律で厳しく取り締まられるようになった。当時の庶民はカロリーの大部分をパンから得ており、そこでの不正は重大問題だったのだ。確かに飲食店では美味しいものも売ってはいたが、それらはとても高価で、庶民が気安く食べられるほど中世都市はまだまだ豊かではなかったのである。

中世盛期の農村生活-中世盛期のヨーロッパと食(3)

2020-11-23 19:59:29 | 第三章 中世の食の革命
中世盛期の農村生活-中世盛期のヨーロッパと食(3)
今回は中世の農業革命によって変化した農村の生活について見て行きます。

農業革命によって農村の生産力が格段に向上すると、その担い手であった農民の社会的な地位も良くなりました。それは領主が農民を自分の領地に集めるための方策でした。領主の立場からすると、働き手がたくさん集まると開墾によって農地を増やすことができるし、得られる税も増えるため、好都合だったからです。

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中世盛期になって農村での生産性が著しく向上した結果、領主にとって農民は極めて重要な存在となった。そこで、領主は以前よりも農民に対する待遇を改善させた。

もっとも大きかったのが領主のために労働力を提供する賦役労働を廃止したことで、農民は得られた生産物から一定の割合の税を納めるだけで良くなった。また、教会に払う税も廃止された。さらに、それまでは逃亡を防止するために領地の外に出ることが禁じられていたのだが、領地の外に自由に出ることも許されるようになった。その結果、農民の自由が増えて、仕事に対するやりがいも感じられるようになったと推測される。

さらに領主は、農民の集落の近くに教会や水車小屋、パン焼きかまどなどの設備を作って、生活しやすい村づくりを行った。ただし、水車小屋やパン焼きかまどについては使用料を徴収したという。

このように農民への待遇が良くなったことから、以前の「農奴」という呼び方が12世紀頃からは「領民」という呼び方に変化して行った。

次に、農民が生活した家屋について見てみよう。

中世前期までの農民の家屋は、地面に穴を掘って半地下構造にした竪穴式住居だった。こうすると壁を作る必要がないので、家を作る材料を節約することができたのだ。屋根はかやぶきだった。家の中には炉があって、調理と暖房に使われていた。

それが12世紀になると、有力な農民を中心に石造りの壁の家屋が建てられるようになった。また、レンガを積み上げて作った壁や瓦ぶきの屋根も見られるようになった。間取りは寝室と台所の二間の場合が多く、同じ屋根の下に家畜小屋も作られていた。

農民の食事について見てみると、中世前期から引き続いて主食は穀物で作った粥だった。パンが主食なるのは15世紀以降のことである。

タンパク質はソラマメやエンドウマメなどの植物性がほとんどで、動物性はごくわずかだった。一つの家族が1年間に食べた肉は、ブタ一頭とニワトリ数羽程度と言われている。ブタ1頭は多いように思えるかもしれないが、当時のブタは今のブタの1/3から1/4の大きさしかなかった(重さにして30~70㎏)。ブタには体重の半分程度の可食部分があるので、単純計算で一家族は1日100gに満たない豚肉しか食べていなかったことになる。



キャベツ・ニンジン・ビーツ・タマネギ・ニンニクなどの野菜は毎日のように食卓に上ったようだ。特にニンジンの品種は多く、赤紫色のものや黄緑色のものもあった。野菜は生では食べず、シチューなどにして食べた。リンゴやセイヨウナシ、プラム、イチゴなどの果実は好んで食べられたようだ。

魚は海岸や川の近くであれば重要な食べ物だったが、それ以外の地域の庶民はほとんど口にすることはなかった(修道院では池を作って魚を飼育し、断食中の食べ物にしていたという)。

このように農民の食事は豪華とは言えなかったが、1日の食事量は成人男性に必要な3000キロカロリーを満たすぐらいはあったと推定されている。

なお飲料に関しては、水が安全でなかったので、ビールが好んで飲まれた。ワインは庶民には高級で、なかなか口にすることはできなかったようだ。

中世の農業革命-中世盛期のヨーロッパと食(2)

2020-11-21 18:41:23 | 第三章 中世の食の革命
中世の農業革命-中世盛期のヨーロッパと食(2)
今回は中世のヨーロッパの発展を支えた農業革命について詳しく見て行きます。この農業革命は主にアルプス山脈より北の現代のフランスやドイツで起こりました。

中世の農業革命は鉄製農具の発達と三圃制農法の普及によるものですが、それと密接に関係しているのが人口増加と森林の開墾です。その結果、ヨーロッパの農村の原型が生まれたのです。

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もともとアルプス山脈より北の地域にもローマ帝国式の農耕技術が持ち込まれていた。しかし、この農耕技術はアルプス以北の地域には適していなかったのだ。

古代ヨーロッパの中心だったギリシアやイタリアは地中海に面しており、いわゆる「地中海性気候」の気候区だった。その特徴は「温帯性で夏に雨が少なく冬に雨が降る」ことだ。現代の地中海に多くのリゾート地があるのはこのように夏が乾燥して過ごしやすい季節だからだ。そして地中海沿岸では、乾燥に強いオリーブやブドウなどの果物、柑橘類などが栽培される。

一方、中世ヨーロッパの中心となったアルプスより北の地域の気候区分は「西岸海洋性気候」で、温帯性で一年中雨が降るが夏の暑さは厳しくない。地中海性気候とはまったく異なる気候と言える。

一年中雨が降る気候のため土は湿っていて重く、水はけが悪い。このような土地で作物をうまく育てるためには、直線状に土を盛り上げた「畝(うね)」を作って水はけを良くするのが望ましい。しかし、ローマ帝国から伝わった「ローマ犂(すき)」は木製で軽く、重い土壌の表面を削るだけで、とても畝を作れるほどには土を掘り起こすことができなかったのだ。


畝(Namazu-tron, <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons)

それを一変させたのが鉄製の「ゲルマン犂」の普及だ。

西暦1000年頃からフランスのピレネーなどヨーロッパの一部で鉄の生産が盛んになり、次第にヨーロッパ全体に広がって行った。そして、多くの部品が鉄でできていて、とても重いゲルマン犂(重量有輪犂もしくはカルカとも呼ばれる)が11世紀に登場する。ゲルマン犂の先端には土を切り裂く犂刃と土を持ち上げる犂先がついていて、その後ろに掘り起こした土の塊をひっくり返すための撥土板(はつどばん)があった。そして、車輪がついているため、重量はあるが動き出せば慣性でスムーズに前進できた。


ゲルマン犂(飯沼次郎、堀尾尚志『農具』より)

最初はこのゲルマン犂を2頭のウシで引いていたが、次第に大型化し、12世紀には6~12頭で引くゲルマン犂が主流となった。なお、12世紀頃にはゲルマン犂をひかせる家畜がウシからウマに代わって行った。蹄鉄や首輪式の引き具が開発されるとともにウマの飼料としてエンバクが生産されるようになり、歩く速度がウシよりも速いウマが利用可能になったためだ。

しかしゲルマン犂にも欠点があった。それは、大型のために方向転換が難しいということだった。この問題を解決するために農奴たちはそれぞれの耕地を集合させて長方形の広大な農地を作り出した。こうすることで方向転換の回数を少なくできたし、大型で高価なゲルマン犂を個人が所有するのではなく、集落で共同保有できるようになったのだ。

さらに、11世紀頃から「三圃制」農法が普及し始めた。

ローマ帝国では、耕地を二分して一方を耕作地、もう一方を休耕地として一年ごとに入れ替える「二圃制」をとっていて、これがアルプス以北にも持ち込まれていた。しかし二圃制では半分の農地しか使えない。一方、三圃制は耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていくもので、休耕地が三分の一しかないので土地をより効率的に利用できる。なお、休耕地には家畜を放牧し、その糞によって地力が回復する。

以上のような技術革命によって農業生産性は格段に向上し、10世紀までは2倍程度だった収穫率(まいた種の量に対する収穫量の比)が、1300年頃には悪くて3~4倍、良い場合には10倍を越えるまでになったという。13世紀の農業書『家政の書』には、収穫率が3倍に満たない農地は意味がないと書かれているほどだ。

食料の増加は人口の増加につながる。実際に11世紀から14世紀にかけて西ヨーロッパの人口が急速に増加した。例えば1100年頃に620万人だったフランスの人口は、14世紀の半ばには2000万人を越えたと推定されている。同じようにイングランド王国でも、1100年頃に130万人だった人口が14世紀半ばに380万人になったと見積もられている。

このような人口増加はさらなる農業の発展を促した。増えた人口を養うためにはさらなる農地が必要になったのだが、普及した鉄製のノコギリや農具を使って森林を開墾し、農地を増やしていったのだ。

この時伐採された木は製鉄のための燃料とされ、さらに鉄製品が普及するようになった。13世紀までには農村ごとに鍛冶屋ができ、周囲の森林を次々と農地に変えて行ったという。

このように、鉄製品の普及と農業技術の発展・普及、人口増加、そして森林の開墾はすべてが密接に関係しあっており、その結果として西ヨーロッパ社会は大きく変容した。ヨーロッパの農村の原型がこの時期に出来上がったのである。