食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

南インドの食-中世・近世インドの食の革命(5)

2021-11-25 18:25:35 | 第四章 近世の食の革命
南インドの食-中世・近世インドの食の革命(5)
インド南部は地理的に他の地域と隔絶されているため、外部からの影響をあまり受けませんでした。このため、南インド料理には、4,500年前に栄えた古代ドラヴィダ文化の要素が多く残っています。

インドの北部ではナンのように小麦粉を使った料理がよく食べられていますが、南部では小麦粉はあまり使用されず、代わりにコメやマメを使った料理がよく食べられています。また、ココナッツを使った料理もよく作られています。

例えば、「アパム」という紀元前から食べられているパンケーキのようなものがありますが、これは米粉とココナッツミルクを混ぜた生地を発酵させてから焼いて作ります。また、以前に紹介したドーサも、コメとケツルアズキ(ウラドマメ、モヤシマメ)の生地を発酵させてから焼いて作ります。


アパム(Charles Haynesによるflickrからの画像)

今回は、中世から近世のインド南部で盛んに作られるようになった「イドリ」と「サンバル」について紹介します。この2つは、現在でも南インドの代表的な食べ物になっています。

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元来のイドリは、コメとケツルアズキ(ウラドマメ、モヤシマメ)を粉にしたものを練って生地にし、発酵させてから蒸して作る。現在では様々なバリエーションがあり、小麦粉を使うレシピもあるそうだ。


イドリとサンバル(Sarawana Bhavanによるflickrからの画像)

ドーサは同じ生地を焼いて作るが、イドリの方は蒸して作るところに違いがある。インドで蒸し器が使われるようになったのはかなり遅く、7世紀に玄奘がインドを訪れた時に蒸し器が無いことに驚いている。

蒸して作るイドリがインドの書物に登場するのは、1250年以降のことだ。インドの有名な料理史家のアチャヤは、イドリは現在のインドネシアで生まれたのではないかと推測している。彼によると、その地の王に雇われていた料理人が蒸したイドリを考案し、10世紀から12世紀の間にそれがインド南部に伝わったのではないかということだ。当時は南インドとインドネシアの間で交易が盛んに行われており、商人の手によってイドリの作り方が南インドに持ちこまれたと推測している。

イドリの生地は専用の型に入れて蒸すが、現代では様々な大きさや形のイドリ型が売られている。


イドリの型

南インドでは、イドリは朝食に食べられることが多い。また、次に紹介するサンバルやココナッツチャツネ(ココナッツのペースト)などと一緒に食べられる。

サンバルは香辛料の入ったレンズマメをベースにした野菜スープ(カレー)のことで、南インドではほぼ毎食と言ってよいほどによく食べられている日本の味噌汁のような存在だ。使われる野菜は季節の旬のものが多く、日本人と同じようにサンバルから季節を感じているのかもしれない。

前出の食物史家のアチャヤによると、サンバルに関する最古の文献は17世紀のものだそうだ。サンバルの語源は、南インドのタミル人が使うタミル語にあり、サンバルを考案したのもタミル人と言われている。

サンバルにはタマリンドというマメ科の種子のペーストを入れることが多い。タマリンドのすっぱい味がスパイシーさに合うという。サンバルにタマリンドを入れるようになったいきさつについて、次のような有名な話がある。

南インドのタミル・ナードゥ州の支配者シヴァジーには息子(従弟とも言われる)のサンバジーがいた。サンバジーは大変な食通で、スパイスたっぷりのレンズマメのスープにコクムと言うすっぱい果実を入れて食べるのが大好きだった。

ところがある時、コクムが手に入らなくなってしまった。困ったサンバジーは、コクムの代わりになるすっぱい食材を探した。そして、タマリンドを見つけたのだ。サンバジーは自分の作った料理をとても気に入り、宮廷にも作り方を紹介した。宮廷もこの料理をとても優れていると認めたため、南インドで広く作られるようになったという。また、料理名も、サンバジーの名前から次第にサンバルと呼ばれるようになったとされている。

インドの健康食キチュリ-中世・近世インドの食の革命(4)

2021-11-18 18:14:15 | 第四章 近世の食の革命
インドの健康食キチュリ-中世・近世インドの食の革命(4)
キチュリ(Khichdi)はインド北部の伝統的な料理で、コメとマメ(緑豆やレンズマメ)を使って作るおかゆのような料理です。地域によって様々なバリエーションがありますが、一般的にターメリック(ウコン)が入っていて、黄色をしています。しかし、辛い香辛料は入っていないので、とてもやさしい味です。このため、インドの北部では赤ちゃんが最初に食べる固形物とされていますし、病気の時にもよく食べられそうです。

インド北部のハリヤナ州では、キチュリは農村部で主食のような存在であり、温かいギー(バターオイル)やヨーグルトを混ぜて食べることが多いそうです。一方、インド南部ではキチュリはそれほど食べられていません。しかし、かつてインド南部で栄えたハイデラバード州(現在のテランガーナ州、マラスワダ州、カルナタカ州)のイスラム教徒の間では朝食としてよく食べられているといいます。

なお、インドの伝統的な医学アーユルヴェーダでは、食事は体の調子を整えるためにとても重要ですが、キチュリはアーユルヴェーダにおける健康的な食事の代表とされています。

今回はこのようなキチュリについて取り上げます。


キチュリ(Gopi HaranによるPixabayからの画像)

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Khichdi の語源は、サンスクリット語の「Khiccha」で、コメとマメ類の料理を意味する。

キチュリはとても古くから食べられている料理で、最古の記述は紀元前4世紀から紀元後4世紀頃に成立したインドの叙事詩「マハーバーラタ」の中に見られる。また、紀元前300年頃にインドに遠征したギリシアのセレウコス王は、マメ類を入れたコメの料理がインドの人々にとても人気があると記しているが、これもキチュリのことだろう。モロッコの旅行家イブン・バットゥータが1350年頃にインドに滞在した際にも、よく食べられている料理としてキチュリを挙げている。

キチュリがインドで脚光を浴びるようになったのは、ムガール帝国(1526~1858年)の時代になってからだ。その理由は、ムガール帝国の皇帝がキチュリを好んで食べたからだ。例えば、第3代皇帝アクバル(在位:1556~1605年)は質素な食生活を好んでいたため、キチュリを毎日のように食べていたという。

インド人なら誰でも知っている昔話に、アクバルの家来のビルバルがキチュリを使ってアクバルを戒めた話がある。このビルバルは「最も輝ける宝石」と呼ばれた賢者であり、アクバルが最も頼りにしていた人物と言われている。
その話とは次のようなものだ。

冬の寒い日、アクバル王とビルバルが湖畔を散歩していた時に、ビルバルは「男は金のためなら何でもするものだ」とつぶやいた。するとアクバルは「お金のためにこんな冷たい湖の中で一晩中過ごす男がいるとは思えない」と言った。ビルバルは「きっと見つかりますよ」と答えた。アクバルは「そんな男がいるのなら、そいつに千枚の金貨を与えよう」と言い放った。

少ししてビルバルは、これに挑戦しようという貧しい男を見つけて来た。果たして、その貧しい男は湖の中で一晩過ごすことに成功した。ところが、くやしかったアクバルは、その男が街灯の近くにいたことを持ち出して来て、街灯の暖かさで湖の中の夜を生き延びたのだから、報酬はなしだと言いだした。

すると、ビルバルは宮廷に出勤しなくなった。疑問に思ったアクバル王は、彼の家に使者を送った。ほどなくして戻ってきた使者は、ビルバルは今作っているキチュリが炊き上がったら来ると言っていますと伝えた。しかし、いくら待ってもビルバルはやって来ない。しびれを切らした王がビルバルの家に行くと、火から1メートル以上も上につるされた鍋キチュリを炊いているビルバルを見つけた。

アクバルはビルバルに「火からこんなに離れていたら、いくら待っても炊けやしないぞ」と言った。それに対してビルバルは、「貧しい人が1キロ以上離れた街灯から暖をとったのと同じです」と答えた。これを聞いた王は自分の間違いを理解し、貧しい人に報酬を与えたという。

第4代皇帝ジャハーンギール(在位:1605~1627年)は、ピスタチオとレーズンを加えたキチュリを「美味しいもの」と名付けて、よく食べていたと伝えられている。また、第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707年)は、魚とゆで卵を入れたキチュリが大好物だった。ムガール帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世(在位:1837~1858年)も緑豆のキチュリを好んで食べていたと伝えられる。

イギリスがインドを植民地化すると、キチュリはイギリスにも伝わり、ヴィクトリア女王(在位:1837~1901年)も食べたと言われている。また、インドのイギリス植民地では、キチュリを元にケジャリー(Kedgeree)という料理が考案された。これは、コメとマメに、ほぐした魚とゆで卵、香辛料、バターを加えて炊き上げた料理だ。日本では、カレー粉を使うレシピが一般的だ。


ケジャリー(flickrからの画像)

こうなると、キチュリとは全く違った料理に見えるが、料理の国際化とはこういうものかなと思ってしまう。

ナンの歴史-中世・近世インドの食の革命(3)

2021-11-13 17:13:36 | 第四章 近世の食の革命
ナンの歴史-中世・近世インドの食の革命(3)
日本でインド料理店に行くと、ナンが出てくることが多いです。このため、ナンは日本人のご飯みたいなもので、インド全土で大昔からナンが食べられてきたと日本人の多くの人が思っています。

ところが、これは間違っています。インドでは北部のごく一部の人しかナンを食べていませんでした。また、現代のインドでも、ナンを常食にしている人は多くありません。

その理由は、ナンは精製した真っ白な小麦粉を使い、焼くためにはタンドールという大掛かりな竈(かまど)を使用する必要があるからです。つまり、高価な小麦粉が買えて、タンドールを持つことができるくらい裕福な人しかナンを焼くことができなかったのです。

ちなみに、インド北部の一般庶民は、精製をしていない全粒粉で作った無発酵の生地を、フライパンのような鉄板で焼いたチャパティロティを食べていました。

今回は、インドの歴史をたどりながら、ナンタンドールについて見て行きます。


タンドールで焼くナン(boo leeによるflickrからの画像)

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ナン(Naan)という名前はペルシャ語で「パン」を意味する言葉「non」に由来する。ナンはインド以外にも、パキスタンやアフガニスタン、バングラデシュ、イラン、ウズベキスタン、タジキスタンなどでも食べられている。
ここで、ナンの作り方をおさえておこう。

ナンの作り方は簡単だ。小麦粉に水と塩を加えてこねた生地をしばらく置いて酵母による発酵を行わせる。次に、ふくらんだ生地を平たく延ばしてから、タンドールの内側に張り付けて焼くのである。

タンドールは、大きな壷のような形をした円筒形の粘土製のオーブンで、高さは1メートル以上ある。伝統的なタンドールは薪や木炭で加熱する。タンドールの底部には小窓があり、これを開閉することで火力が調節できる。タンドール内は最高で460℃に達することもあると言われている。

現在では、薪や木炭の代わりにガスが使用されることが多いし、電気で加熱するタンドールもある。しかし、食通は粘土製のタンドールを炭で加熱することにこだわるらしい。

それでは、歴史の話だ。まずはタンドールについてだが、タンドールの誕生は古代と考えられている。紀元前3000年頃のインダス文明のハラッパの遺跡で、タンドールのような粘土製のかまどが見つかっている。また、このかまどで焼いたと思われる、焼いた動物の肉も発見されているという。このような粘土製のかまどはインダス文明だけでなく、古代エジプトやメソポタミア文明でも発見されている。

ところが、インダス文明が滅亡した後、インドでは長期間にわたってタンドールは使われなくなってしまった。次にインドでタンドールが使用されるのは、ムガール帝国(1526~1858年)の創始者のバーブル(1483~1530年)がインドに進出した15世紀の終わり頃になってからだ。彼らがインドに再びタンドールを持ちこんだのである。

それ以降、ムガール帝国の宮廷や上流階級では、タンドールが使用されるようになる。また、第4代皇帝ジャハーンギール(在位:1605~1627年)の代には、携帯用のタンドールが発明された。ジャハーンギールがいつも美味しい料理を食べたいがために、旅をする時にはいつもこのタンドールを持って行ったと言われている。

一方、ナンの原型がインドの歴史に登場するのは西暦1300年頃のことで、精製した小麦粉で作られた生地を焼いたものが、イスラム勢力の王宮があったデリーで食べられていたという記録がある。

ムガール帝国がデリーを含むインド北部を支配するようになると、タンドールで焼いたナンが定着した。そして、ムガール帝国の宮廷では、朝食では必ずナンを食べていたという。

一方、シーク教の創始者グル・ナーナク(1469~1539年)によって、タンドールとナンは一般社会にも導入された。彼はカースト制を批判し、民衆の平等を実現するためにタンドールを備えた共同の炊事場を作ったのだ。その結果、タンドールとナンはインドの様々な階級に少しは広がるようになった。と言っても、タンドールとナンはそれ以降も主に裕福な人たちのものだったことに変わりはない。

さて、タンドールで調理した料理の一つに有名な「タンドリーチキン」がある。これは、骨付きの鳥肉を香辛料とウコンなどの着色料の入ったヨーグルトソースに数時間漬け込んだ後にタンドールで焼き上げた料理だ。

タンドリーチキンの起源は新しくて、1947年に誕生したとされるのが一般的だ。これは、インドとパキスタンが分離独立した年であり、現在のパキスタンからインドのデリーに逃げ延びて来た人がこの料理を考案したとされている。

この料理のミソはヨーグルトのソースに漬けることで、ヨーグルトの自然な酸味が肉を柔らかくし、香辛料の風味を浸透させるのだ。タンドリーチキンが誕生すると、肉のほとんどはヨーグルトに漬けられてからタンドールで焼かれるようになった。タンドールを用いた調理法の革命だったのだ。

グローバルな料理となったサモサ-中世・近世インドの食の革命(2)

2021-11-08 21:31:35 | 第四章 近世の食の革命
グローバルな料理となったサモサ-中世・近世インドの食の革命(2)
インドのポピュラーな料理の一つに「サモサ」があります。


サモサ(Bre WoodsyによるPixabayからの画像)

サモサは、小麦粉で作った皮で具材を包んだのち油で揚げたもので、三角形をしているのが特徴です。一般的には、ジャガイモ・タマネギ・レンズマメ・ひき肉などをクミン・コリアンダー・ターメリックなどのスパイスで味付けをしたものが具材として使用されますが、様々なバリエーションがあり、中には甘いものもあります。

インドでは、サモサはあらゆる階級の人に食べられていて、屋台などでも売られていますし、レストランのメニューにも載っています。

このように、インドの国民食の一つと言っても良いサモサですが、最初に作られたのはインドではなく、中東だと考えられています。また、インド以外でも、南アジアや南米、アフリカ、ヨーロッパでもサモサに似た料理が食べられていますが、これらはインドのサモサが伝わることで生まれました。

今回は、インドでサモサが生まれ、それが世界の各地に広がって行った歴史について見ていきます。

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サモサは中央アジアや中東が起源とされている。また、「サモサ」という言葉は、「三角形のペイストリー」を意味するペルシャ語のsanbosagから生まれたと考えられている。

9世紀に書かれたペルシャ語の書物の中にサモサに似た料理のことが書かれており、これがサモサの最初の記録と考えられている。また、10世紀から13世紀にかけての中東の国で書かれたいくつかの書物にサモサのことが書かれており、よく食べられていた料理と思われる。当時のレシピは、小麦粉に塩と湯を加えて練り、油で揚げるというものだった。

サモサがインドの歴史に登場するのは14世紀のことだ。14世紀にインドを訪れたモロッコの旅行者イブン・バトゥータが、宮廷での宴で三角形の生地にひき肉やエンドウ豆、ピスタチオ、アーモンドなどを詰めた料理が出されたと旅行記に記録している。

その頃の北インドではイスラム勢力による王朝が栄えており、王宮で雇われた中東の料理人がサモサを持ち込んだ可能性がある。また、中東の行商人が旅の途中でサモサをよく食べていたことから、彼らから伝えられたとも言われているが、詳しいことは分かっていない。

インドに伝わったサモサは、インドで独自の進化を遂げる。すなわち、インドで手に入りやすいスパイスが使用されるようになったのだ。

さらに、ヨーロッパ人がインドにやって来るようになると、彼らから新しい食材がサモサに導入された。それが、トウガラシジャガイモだ。特にジャガイモは、風味と食感がサモサによく合ったためか、サモサの具材として定着して行った。

一方、インドでサモサのことを知ったヨーロッパ人は、サモサを本国と植民地に伝えるようになった。

インドに最初に植民地を作ったポルトガル人はサモサを大変気に入り、まず本国に持ち帰った。そしてポルトガルではインドで使わない、ブタやウシのひき肉を入れたサモサが作られるようになった。今では、サモサはポルトガル料理に欠かせない一品になっている。ちなみに、サモサはポルトガルでは「チャムサ(chamuças)」と呼ばれる。

また、ポルトガル人は、ポルトガルの植民地であったブラジルや奴隷貿易の拠点があった西アフリカにもサモサを伝えた。

18世紀頃からイギリスによるインド進出が活発化するが、イギリス人もサモサをとても気に入り、世界中のイギリス植民地に広めて行った。こうして、カリブ海の島々や南アフリカ、オーストラリアなどに伝えられ、現代でも人気の料理になっている。

インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)

2021-11-05 18:16:12 | 第四章 近世の食の革命
インドの歴史とドーサ-中世・近世インドの食の革命(1)
今回から中世・近世インドの食のシリーズが始まります。

中世や近世などの時代区分は西洋史で言われ始めたものらしく、他の地域の歴史を語る上ではそのような時代区分をすることが難しい場合があります。それでも、世界はつながっているという考えから、どの国の歴史も古代から現代までの時代区分に分けることが一般的に行われています。しかし、いつからいつまでをどの時代区分にするかは、学者によって異なります。

インドの歴史で中世と言うと、インド北部でイスラム勢力による政権が樹立された13世紀頃から始まるとされることが多いので、ここでもそれにならおうと思います。

一方、中世の終わりと近世の始まりについては学者によって意見が異なっているようで、ここではイギリスのインド侵略が活発化していく18世紀半ばまでを中世・近世の終わりとします。

今回は、インドの歴史を概観するとともに、「ドーサ」というクレープのような料理について見て行きます。

なお、インドは世界第7位の広大な領土を有しているため、食文化の地域性が高く、インドの料理を一言で表すことは不可能と言われています。このような地域性をふまえて、インドの食の歴史を見て行きたいと思います。

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インドの古代文明と言えば、紀元前2600年頃から紀元前1800年頃まで、現在のパキスタンからインド北西部のインダス川流域に栄えた「インダス文明」だ。船を使ってメソアメリカ文明と貿易を行っていたことが分かっているが、文字が未解読であることと、パキスタンでの調査が進んでいないことなどから不明な点が多く残されている。

インダス文明では既に、カレーに使用されるスパイスの、ターメリックやクミン、ジンジャー(ショウガ)、コリアンダー(パクチー)、コショウなどが利用されていたと考えられている。

紀元前1500年頃になると、中央アジアからインド=ヨーロッパ語族の遊牧民であるアーリア人が北西地方に進入を開始した。アーリア人は進入した土地で先住民と交わり、農耕民族に変貌していった。さらに、紀元前1000年頃になると、アーリア人は東進し、より肥沃なガンジス川上流域にも進出した。

アーリア人が進入した地域では、バラモン(司祭)・クシャトリア(武士)・ヴァイシャ(農民・牧畜民・商人)・シュードラ(隷属民)という4つの身分に分けられたヴァルナ制と呼ばれる観念が生まれた。そして、ヴァルナ制を基にしてカースト制度が長い時間をかけて作り出されて行った。また、バラモン教と言う祭儀を重要視する宗教が成立した。これがヒンドゥー教の元となった宗教である。

一方、南部では原住民族のドラヴィダ人が独自の社会を作っていた。

紀元前6世紀頃になると、北部の政治と経済の中心はガンジス川中・下流に移動し、城壁で囲まれた都市国家がいくつも生まれた。都市国家同士は激しく競い合い、勝ち残った国は他国を併合して領域国家へと成長する。このような争いの中で、仏教やジャイナ教などの新しい宗教が生まれた。

紀元前4世紀後半になると、ギリシア・マケドニアのアレクサンドロス大王が北西地方に侵攻する。マケドニアの支配は短期間に終わったが、これをきっかけにインドに国家統一の気運が生まれた。その結果登場したのがインド最初の統一国家であるマウリヤ朝である。マウリヤ朝の最盛期を築いたのがアショーカ王で、彼は仏教を篤く保護した。

紀元前2世紀頃にマウリヤ朝が衰退すると、インド北部は小国に分裂し、抗争を繰り返すようになる。また、北西地方にはギリシア人やイラン人などが相次いで進入した。そして、1世紀中頃に、この地域で力をつけたイラン系のクシャーン人がインド北西部にクシャーナ朝を建てた。

また、同じ頃にインドの中部地方ではサータヴァーハナ朝が、そして南部ではチョーヤ朝が栄えた。両者はオリエントやローマとのインド洋交易を盛んに行い、その遺跡からは大量のローマ金貨が発見されている。

クシャーナ朝が衰退すると、4世紀中頃にガンジス川中流域にグプタ朝が成立した。そして、インドの南部を除く地域を支配するようになる。グプタ朝では、シヴァ神やヴィシュヌ神を信仰するヒンドゥー教が定着した。ヒンドゥー教にとって牛は神聖なものだったので、グプタ朝では牛肉をほとんど食べなくなった。

グプタ朝が遊牧民族の侵入によって衰えると、7世紀にヴァルダナ朝が成立した。この王朝では仏教も保護され、唐からは玄奘(三蔵)が仏教研究のために訪れた。

ヴァルダナ朝が衰退すると、7世紀から13世紀までインド北部には複数の王朝が次々と現れ、抗争を繰り返す時代に突入した。この間の8世紀にはイスラム勢力のインド侵入が始まり、10世紀後半からはそれが本格化した。この時期に、インド北部の農村は独立した村落共同体としての性格が強まり、カースト制度が社会に浸透して行った。

13世紀初め以降、インド北部ではイスラム勢力の王朝が誕生と滅亡を繰り返した。そして、1526年にはモンゴル系のバーブルがムガール帝国(1526~1858年)を建国した(ムガールはモンゴルを意味する)。ムガール帝国は次第に領土を拡大し、1687年には南部の一部を残してインドのほぼ全域を支配するまでになった。ムガール帝国の宮廷では、インド=イスラム文化が開花し、タージ・マハルなどが建設された。

一方、1498年に南インドのカリカットにポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが現れたのを皮切りに、オランダやイギリス、フランスなどのヨーロッパ勢力がインドに進出して来た。そして、17世紀後半以降はイギリスとフランスがインドとの交易を巡って激しく争うようになる。

1757年のプラッシーの戦いでイギリスがフランスに勝利すると、イギリスはインドの植民地化を積極に推し進めた。そして1857年にインドの植民地化を完成化させ、ムガール帝国が滅亡するのである。

さて、これまで見てきたように、インドの北部と南部では、たどってきた歴史がかなり異なっているし、気候風土も地方ごとに全く異なっている。そのため、現在、インド料理として広く食べられている料理も、元は特定の地域だけで食べられていたものが多い。

この中で南部発祥の代表的な食べ物が「ドーサ」だ。ドーサは紀元1世紀頃にはすでに南部の国で作られていたという。それ自体は辛くなく、クレープのような存在と考えれば良い。今では、カレー味のジャガイモを包んで食べるマサラドーサが最もポピュラーだ。

ドーサの作り方は次の通りだ。

水に浸したコメとケツルアズキ(もやしを作る小さい黒いマメ)の混合物を細かく粉砕して生地を作る。この生地を一晩発酵させた後、好みの固さになるように水を加えて混ぜる。そして、油かギー(澄ましバター)を塗った熱いタヴァ(鉄板)の上に流し込んで、クレープあるいはパンケーキのように好みの厚さに広げて焼く。


ドーサ(Ranjith SijiによるPixabayからの画像)

本シリーズでは、歴史と地域性を踏まえて、インドの食について見て行きます。