食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

河川流域の肥沃な土壌-四大文明の食の革命

2019-12-26 08:20:19 | 第二章 古代文明の食の革命
河川流域の肥沃な土壌 
古代人たちは雨が多い地域での農耕と牧畜が行き詰まりを見せ始めると、それ以外の土地での生活を模索したと考えられる。しかし、農耕に必要な水は少ない。そのような土地で農耕を行う場合には、水をどこからか調達しないといけない。また、生活のための飲料水も必要だ。そこで、水がすぐ手に入る川や湖のほとりに農地を作り、試験的に作物を育ててみたと思われる。

こうして生産性が高い土地を見つけて移住が決まったと考えられる。それが、四大文明が生まれた大河流域だったのだろう。よく言われていることだが、四大文明が生まれた大河流域が作物の生産性が高い「肥沃な土壌」であったことが決め手だった。

「エジプトはナイルのたまもの」とは、ギリシアの歴史家ヘロドトスの有名な言葉だ。エジプトが繁栄したのはナイル川が上流から運んでくる肥沃な土壌のおかげという意味だ。ナイル川は一年に一度、夏季に水位がゆっくり上昇し、下流域のデルタ地帯に穏やかな氾濫を引き起こす。この時に上流の肥沃な土壌が沈殿するのだ。

ナイル川だけでなく、ほかの四大文明の大河の流域にも、上流から運ばれて来た肥沃な土壌が堆積した平原(沖積(ちゅうせき)平野)が形成された。四大文明成立の重要な要因になったのが、これら豊かな平原での農耕だ。

ギリシア語で「二つの川の間の土地」を意味するメソポタミアは、チグリス川とユーフラテス川にはさまれた地域で、両河はたびたび氾濫を起こしていた。その結果、上流の土壌が堆積し、メソポタミア平原と呼ばれる肥沃な沖積平野が形成された。また、インダス文明が起こったインダス川流域や、中国文明が起こった黄河と長江流域にも肥沃な平原が広がっていた。

ところで、「肥沃な土壌」という言葉をここまで説明もなしに使ってきたが、これが意味するところはあまり正確には知られていない。例えば、森の土と草原の土ではどちらが肥沃な土かご存知だろうか。

私がこの質問をすると、ほとんどの人は森の土と答える。しかし正解は草原の土だ。草原の土の方が森の土よりもずっと肥沃なのだ。アメリカ中西部やウクライナの大穀倉地帯は草原を開発して作られたが、その理由は土壌がとても肥えていたからだ。

次回は、「肥沃な土壌とは何か」を詳しく見て行く予定だ。

初期農耕・牧畜の破たんー2・1四大文明の食の革命

2019-12-22 09:48:09 | 第二章 古代文明の食の革命
2・1 四大文明を誕生させた食の生産革命
初期の農耕は雨水に頼っており、また肥料を与えることもしなかったので収穫が少なかった。しかし、灌漑農業が始まると食料生産力が大きく向上し、多くの人口を養えるようになった。こうして特定の地域に人々が集まることによって社会が複雑化し都市化が進んだ結果、文明が生まれたと考えられている。

初期農耕・牧畜の破たん
作物を育てるには水は必要不可欠だ。人類が農耕を開始した当初は、作物を育てるための水を雨に頼っていた。このため、農耕が可能だったのは雨に恵まれた地域だけだった。このような農耕を「天水農業(乾燥農業)」と呼ぶ。

第一章で見たように、農耕が始まった地域では少し遅れて牧畜も始まった。そして、食料生産量が増大することによって、急速に人口が増えて行ったと考えられている。

やがて、その土地で養える限界まで人は増えたと推測されている。そうなると、次は農地と放牧地を広げる必要が出てくる。そこで人々は、周辺の森の木を切って新しい農地や放牧地を作った。調理や暖房用の薪のためにも木の伐採は必要だった。
しかし、少しずつ問題が生じてきたようだ。作物の生産量が次第に減って行ったのだ。土壌の栄養が作物に奪われて土地がやせてきたことが第一の原因だ。

さらに牧畜も行き詰まりを見せ始める。家畜が増え過ぎて草の生育が追い付かない「過放牧」の状態になってきたのだ。こうなると、家畜は最終的に草の根まで食べつくしてしまい、ついに草が生えなくなる。こうして牧畜は完全に崩壊する。

傾いて行った農耕・牧畜にとどめを刺したのが「土壌の流失」だ。

やせた土壌は乾燥しやすく崩れやすい。このため、少しの風や雨で土壌は流失してしまうのだ。特に森を切り拓いて作った農地は傾斜地にある場合が多いので、風や雨によって土壌は流れ出しやすい。このように土壌の流失が続くと土壌が覆っていた岩盤がむき出しになり、もはや農耕地や牧草地としての回復は見込めなくなってしまうのだ。これが現代でも世界各地で問題になっている「砂漠化」のシナリオだ。

こうして、農耕・牧畜が破たんし始めた古代人たちは、生活できる新しい土地を見つける必要に迫られである。

第二章 古代文明の食の革命

2019-12-18 08:35:56 | 第二章 古代文明の食の革命
第二章 古代文明の食の革命
人類史上最初期の古代文明と言えば、「メソポタミア文明」「エジプト文明」「インダス文明」「黄河・長江文明(中国文明)」の四大文明だ。

オリエントとはローマから見た東方を意味し、今日の中東やエジプトを含む地域をさす。この地域では、まずメソポタミア文明がチグリス・ユーフラテス川流域に紀元前3500年頃から栄えた。メソポタミアの初期の文明はシュメール人によって生み出されたため、シュメール文明とも呼ばれる。続いてナイル川流域で、紀元前3000年頃にエジプト文明の第一王朝が始まった。これらオリエントの文明は、古代ギリシアや古代ローマに大きな影響を与えた。

一方、アジアに目を向けると、インダス川流域で紀元前2600年頃から紀元前1800年頃にインダス文明が栄えた。そして、中国では紀元前4000年頃から黄河と長江の流域に中国文明が形成された。

古代の四大文明の成立には、灌漑農業を始めとする食に関わる様々な革命が重要な役割を果たした。第二章では、古代文明を誕生させた食の革命について見て行こう。

放牧から遊牧へー1・4先史時代の社会

2019-12-13 12:57:33 | 第一章 先史時代の食の革命
放牧から遊牧へ
家畜化を始める時には、野生の動物を綱でつなぎとめたり、柵などで囲ったりして、逃げ出さないようにしたと考えられる。この状態では、人が草を刈って来てエサとして与えたり、糞の始末をしたりなど、かなりの労働力が必要だったはずである。

しかし、家畜化が進むと、動物は人に従順になって扱いやすくなる。この結果、動物を常につなぎ留める必要がなくなり、草原などでの放牧が可能になった。放牧では、人がエサを集めなくてよいので、労働力を節約できる。また、家畜も自由に動き回れるため、家畜の健康にも良かっただろう。

こうして、朝に集落を出発し、少し離れた草原で草を食べさせたあと、夕方に集落に戻るという日帰り放牧が始まったと考えられる。

やがて家畜数が増えてくると、エサとなる大量の草が必要になる。これをまかなうためには、集落の周囲の草地だけでは不足することもあっただろう。そのような場合には、家畜を連れて、集落から離れた草地をある程度の日数をかけてめぐる必要が出て来たと想像される。

これが「遊牧」の始まりだ。遊牧では、一時住まいの場所を拠点にして日帰り放牧を行い、周辺の草が減少したら次の場所に移動することを繰り返す。

家畜の群れの管理には、それほどの人数は必要ないため、一家族あるいは数家族が遊牧の仕事に携わっただろう。狩猟・採集生活出身者が、このような遊牧の仕事を担当することもあったはずだ。

農耕・牧畜社会から離れた遊牧生活を続けると、独立性が高まる。こうして遊牧を専門とした集団が、拠点となる農耕・牧畜社会から独立して誕生したのが「遊牧民」と推測される。

しかし、独立したからと言って、遊牧民の生活に農耕・牧畜社会との交易は欠かせない。つまり、自分たちで生産できない物品を物々交換によって農耕・牧畜社会から得たはずだ。遊牧民からは家畜から得た肉・乳・皮などが、農耕・牧畜社会からは、農産物・塩などが提供されたと考えられる。また、異なる農耕・牧畜社会の間での物品のやり取りにも遊牧民は活躍したと考えられる。つまり、遊牧民は貿易商としての役割も担うようになったのだ。

やがて遊牧民は、ウマを大量に繁殖させることによって、ウマによる機動力を兼ね備えた騎馬遊牧民に成長する。ユーラシア大陸において誕生した騎馬遊牧民は、人類史に大きな影響力を及ぼす存在となって行く。

狩猟・採集社会と農耕・牧畜社会ー1・4先史時代の社会

2019-12-09 08:30:00 | 第一章 先史時代の食の革命
狩猟・採集社会と農耕・牧畜社会のかかわり
農耕・牧畜の開始により、狩猟・採集に比べて食糧が安定的に得られるようになった。農耕・牧畜の開始にともなうこのような変化は「食料生産革命」と呼ばれることがある。また、農作業に適した磨製石器などの新石器が使用されたことから、この時代を「新石器時代」と呼ぶこともある。

農耕が始まることで増えた人手によって、農地や家畜数をさらに増やすことができたため、農耕・牧畜社会は徐々に拡大して行ったと考えられる。そして、8000年前頃の西アジアでは数千人規模の町が見られるようになった。

ただし、広い地域で農耕・牧畜が一斉に開始されたのではなく、農耕・牧畜を行う集落の周囲には、狩猟・採集生活を続ける集団も残っていた。そして、現代の狩猟民族と農耕民族の観察から、二つの集団の間には、密接な交流があったと考えられる。
その一つが食料の交換だ。例えば、狩猟や採集で余りものが出た場合には、農耕・牧畜の集落に出向いて、穀物などと交換することもあっただろう。特に、塩は狩猟で得た肉などを保存するために必須であったため、重要な交易品であったはずだ。食料不足の時には、食料の貸し借りもあったかもしれない。

また、時には人手の提供もあったのではないだろうか。

農作業では、収穫の時期などに多くの人手が必要になる。そのような場合に、狩猟・採集集団から手助けがあったと想像される。さらに、狩猟・採集を行う集団で病人やけが人が出た場合は、彼らが回復するまで農耕・牧畜の集落で預かってもらうことも行われたかもしれない。また、狩猟・採集集団から農耕・牧畜集団に加わる人々もいたはずだ。

こうして、農耕・牧畜の集落は、「地域の拠点」として成長して行ったのではないだろうか。