食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ジャガイモ飢饉-イギリスの産業革命と食(7)

2022-03-30 08:44:03 | 第五章 近代の食の革命
ジャガイモ飢饉-イギリスの産業革命と食(7)
アメリカ合衆国には、先祖がアイルランド出身のアイルランド系アメリカ人(Irish American)がたくさんいます。自らの出自がアイルランド系であるという意識が高い人は多く、一説によると、約1割のアメリカ人が自分のことをアイルランド系と考えているそうです。

アイルランドは、イングランド・ウエールズ・スコットランドがあるブリテン島の西隣の島で、1649年から1920年代までイギリス(イングランド)の支配を受けていました。このため、アイルランドからイギリスの支配であった北アメリカなどに移住する人が多くいました。特に1840年代後半にアイルランドで「ジャガイモ飢饉」と呼ばれる大飢饉が起きると、数百万人のアイルランド人が北アメリカに移住しました。

アイルランド人はイギリス(イングランド)人とは異なり、カトリック教徒であったことや、イギリスに支配されていたことから、初期の移民はアメリカでさまざまな差別を受けました。そのため、危険な職業である警察官や消防士、軍人などになるしかなかったそうです。また、ギャングなどの犯罪者になる者も多かったようです。レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』は、このようなアイルランド出身の若者たちの姿を描いています。

その後、アイルランド出身の人々は南北戦争で勇敢に戦ったり、警察官や消防士の仕事を真面目にこなしたりしたため、次第にアメリカ社会に受け入れられるようになります。

また、アイルランド系アメリカ人の数が多いため選挙で有利だったことから、政治の世界に進出する人も出ました。例えば、ジョン・F・ケネディのケネディ家はアイルランド系の政治家の一族として有名です。また、現在の合衆国大統領ジョー・バイデンもアイルランド系アメリカ人です。

今回は、大量のアイルランド人の移民の原因となったジャガイモ飢饉について見て行きます。



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19世紀のアイルランドは事実上イギリスの植民地であった。アイルランド人のほとんどはカトリック教徒だったが、アイルランドが植民地化される時に彼らの土地は没収され、イギリス在住あるいはイギリス出身の地主が所有するようになった。そして、カトリック教徒は、地主に家賃を支払うことを強いられる小作人として働かされるようになったのだ。また、アイルランドのカトリック教徒は、1829年まで土地の所有や投票、公職への就任が禁止されていた。

イギリスでは産業革命によって工業化が進んでいたが、アイルランドでは工業化はほとんど行われず、イギリスにとっての食糧生産地とみなされていた。すなわち、アイルランドではコムギなどの栽培と牛などの飼育が盛んだったが、穀物の4分の1と家畜の大半はイギリスへ輸出されていたのだ。

一方、貧しい小作人たちは主にエンバクを食べていたが、次第にジャガイモを主食とするようになった。ジャガイモは16世紀末にアイルランドに持ち込まれたが、アイルランドの気候や土壌に合っていたことと、ジャガイモ栽培には地代がかからなかったことから、盛んに栽培されるようになったのだ。こうして19世までには、貧しい小作人たちは、必要とされるカロリーの80%以上をジャガイモから摂るようになったと推測されている。

アイルランドのジャガイモは「ランパー」と呼ばれる一品種しか栽培されていなかった。ランパーは少ない肥料でよく育つからだ。しかし、このようなモノカルチャーでは、ひとたび病気が発生すると壊滅的な被害に至ることが多い(ジャガイモの原産地のアンデス地方では、1つの畑にいくつもの品種を混ぜて栽培する習慣がある)。果せるかな、アメリカ大陸で感染が広がっていたジャガイモ疫病が1845年にヨーロッパにも上陸したのだ。

この疫病の原因はフィトフトラ・インフェスタンスという真菌(酵母やカビなどの仲間)で、ジャガイモに感染すると、まず葉に斑点ができ、やがて黒くなる。次に、これが茎やイモ(地下茎)に広がってグニャグニャに柔らかくなり、さらに悪臭を発するようになるのだ。この真菌がランパーにとりついたのである。

ジャガイモ疫病の広がりによって、1845年のアイルランドにおけるジャガイモの収量は約半分に落ち込んだ。さらに翌年には、約9割のジャガイモが疫病にやられてしまう。1847年は少し持ち直したが、1848年には再び深刻な被害を受けることとなった。

このような深刻な状況でも、アイルランドからの穀物や家畜の輸出は止まらなかった。また、イギリス政府は救済策を講じず、民間の慈善団体だけが頼りだったが、商人たちは食糧を買い占め、それを慈善団体に高く売りつけたという。また、オスマン帝国(現在のトルコ)のスルタンが多額の支援を申し出たが、イギリス女王のメンツがつぶれるという理由から、その申し出は拒絶された(それでも食糧の輸送は強行したらしい)。

その結果、アイルランドでは大規模な飢饉が起こる。さらに、食糧不足によって体力が低下した人々の間でチフスやコレラ、赤痢などの伝染病が流行した。こうして約150万人が死亡し、約100万人が国外に脱出したと言われているが、これはイギリスが発表した数字であり、実際はもっと多かったと考えられている。

このように、アイルランドのジャガイモ危機は人災の面が強いと解釈されている。これが後のアイルランドとイギリスとの紛争の原因の一つとなっている。

アイルランドのジャガイモの収穫が回復したのは1852年のことである。


ジンの光と影-イギリスの産業革命と食(6)

2022-03-25 21:53:40 | 第五章 近代の食の革命
ジンの光と影-イギリスの産業革命と食(6)
ジン(gin)」はカクテルによく使われる蒸留酒です。ジンを使ったカクテルには「ジントニック」「ホワイトレディ」「マティーニ」「ギムレット」などたくさんあります。ちなみに我が家では、時々ホワイトレディを飲みます。

近年は世界的なジンブームと言われていて、日本でも小規模な蒸留所などが造る「クラフトジン」が人気です。

クラフトジンとは材料などにこだわって造った高級ジンのことです。「ジンは自由」と言われるように、ジンの定義は「ジュニパーベリーの風味を主とする蒸留酒」となっているだけで、ジュニパーベリー以外の材料に縛りはありません。そのため、ボタニカル(茶や桜などの植物)、ハーブ、スパイス、フルーツなどのさまざまな材料を使うことで、造り手の個性あふれるジンを醸造することができるのです。



さて、ジンの本場はイギリスです。しかし、イギリスのジンの歴史には深い闇も存在しています。今回は、このような影の部分を含めて、ジンの歴史を見て行きたいと思います。

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ジンに入っているジュニパーベリーは、ジュニパー(和名:セイヨウネズ (西洋杜松))と呼ばれる針葉樹にできる果実(球果)で、形がベリーに似ているからこう呼ばれる。

ジュニパーの仲間は北半球の寒い地域に約60種が分布しており、このうちの特定のものの果実や葉がジンに入れられたり、香辛料として利用されたりしている。例えば、スカンジナビア半島では肉料理の風味付けに使用されているし、スウェーデンではクリスマスシーズンに販売される清涼飲料水に入れられているという。また、トルコでは伝統的な薬としても利用されている。さらにヨーロッパでは、家畜の肉質の改善などのためにエサに混ぜられて与えられることもある。

ジュニパーベリーは古代社会でもよく使用されていたようだ。古代エジプトのいくつかの墓からジュニパーベリーが発見されているし、古代ギリシアではジュニパーベリーが選手の体力を増強すると信じられて、オリンピック競技でよく使用されていたと伝えられている。また、古代 ローマでは、高価なコショウの代わりに安価なジュニパーベリーを料理に使用することもあったという。

中世ヨーロッパでは、ジュニパーベリーは咳や頭痛・胃痛・痙攣などをおさめる薬として利用されていた。また、ハーブや香辛料を漬け込んだワインを薬として飲むことは古代から行われてきたことだが、ジュニパーベリーもワインに入れられて飲まれていたようだ。

さらに、ジュニパーベリーには空気を清浄化する効果もあると考えられ、14世紀にペストが流行した時には、医師は大きなくちばしの形をしたペストマスクにジュニパーベリーなどのハーブや香辛料を入れて患者の治療にあたった。


ペストマスク(Siggy NowakによるPixabayからの画像)

14世紀になって蒸留器がイスラムからヨーロッパに伝えられると、南イタリアの修道院でジュニパーベリー入りのワインから蒸留酒が造られるようになる。これがジンのはじまりと考えられている。

その当時、蒸留酒は生命力を高める薬とみなされて、「生命の水(ラテン語:aqua vitae)」と呼ばれていた。ここに、ジュニパーベリーなどの薬効のある成分を加えれば、より強力な薬が誕生すると考えたのだろう。

なお、医師のフランシスカス・シルヴィウスが17世紀半ばにジンを発明したという話が一部で信じられているが、16世紀にはすでにジンが飲まれていたので、これは誤りと考えられている。

17世紀半ばにはオランダなどで、オオムギやライムギから作った酒にジュニパーベリーなどを加えてから蒸留したものが「ジェネバー(jenever)」と呼ばれて、薬局で販売されるようになった。

一方、イギリスでは1685年即位したジェームズ2世(在位:1685~1688年)が、イギリスをプロテスタントからカトリックに戻す動きを強めていた。これに対してイギリス議会がジェームズ2世の娘のメアリーに助けを求める。と言うのも、メアリーはプロテスタントで、同じくプロテスタントでオランダの統治者だったオレンジ公ウィリアムに嫁いでいたからだ。

1688年にウィリアムが兵を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世はカトリック国のフランスに亡命した。そして、メアリーとウィリアムは、メアリー2世とウィリアム3世としてイギリスの共同統治を行うようになる。これが名誉革命と呼ばれる出来事だ。

その後ウィリアム2世のとった政策によってイギリスでジンが大量に飲まれるようになる。

彼はカトリック国のフランスを経済的に追い詰めるために、フランスのブランデーやワインなどに重税をかけるとともに、ジンの無許可の製造・販売を認めたのだ。エール(ビール)などには高い税金がかけられ、販売には免許が必要だったため、ジンはどこでも手に入る最も安い酒となった。その結果、イギリスでは、1695年から1735年にかけて各地に何千ものジンショップが誕生した。

もともとイギリスでは清潔な飲料水が不足していたため、エール(ビール)が水代わりに飲まれていたが、特に労働者が住んでいる不衛生な地域では主にジンが飲まれるようになった。こうして下流層を中心にジンの飲酒量が大幅に増加したのである。

ちょうどその頃は、産業革命によって都市に労働者が増えてきた頃であり、きつい仕事の憂さ晴らしにジンを飲むことも多くなった。また、仕事に出かけるのに邪魔になる子供や赤ん坊を寝かしつけるために、ジンを飲ませることもよく行われていたようだ(当時は飲酒の年齢制限はなかった)。

具合が悪いことに、蒸留酒はアルコール度数が高いので中毒になりやすい。果せるかな、イギリスでは下流層を中心に多くの老若男女がジン中毒に陥り、酒による病気や犯罪が多発するようになる。

このような悲惨な状況を物語る資料として、1751年にウィリアム・ホガースが発表した版画『ビール通りとジン横丁(Beer Street and Gin Lane)』が有名だ。

「ビール通り」の版画では、ビールを飲んで幸せそうな人々を描いている。一方「ジン横丁」では、ジンに酔った母親が赤ん坊を階段の脇に落としたり、酩酊した男が蛇腹で自分の頭を殴ったり、梅毒の腫れがたくさんある男がいたりなど、醜悪な場面ばかりだ。このような状況に関係して、今日でも英語ではジンのことを「母親の破滅(mother's ruin)」と呼ぶ場合がある。


ビール通り


ジン横丁

政府は問題を解決するために1736年には小売業者に高い税金を課す法律を施行したが、住民の暴動につながり、多くの醸造所が襲撃される事態となった。その後もいざこざが続いたが、1751年になってやっと、蒸留業者は許可を受けた小売業者のみにジンを販売するように定められ、事態は沈静化に向かうことになる。

18世紀後半になると、品質の悪いジンを造る醸造所は淘汰され、高品質のジンを造る新しい醸造会社が設立されて行った。その中には、ビーフィーター(Beefeater)やタンカレー(Tanqueray)など、現在でもブランド名に名を留める会社も多い。

そして1830年に、ジンは革新の時を迎える。この年に、元税検査官で発明家のエネアス・コフィーが改良型の連続式蒸留器を開発したのだ。これを用いて蒸留したジンは、嫌な風味の原因となっていた夾雑物がきれいに取り除かれて、これまでよりもはるかにすっきりとした飲み口になったのだ。イギリスが誇る「ドライジン」の誕生である。

ドライジンは、イギリス海軍がマラリアの蔓延する植民地に赴くときの必需品となり、現地ではマラリア予防薬のキニーネとドライジンの「カクテル」が作られて飲まれたという。ドライジンがキニーネの苦みを和らげて飲みやすくなるからだ。

こうしてドライジンは海軍御用達の酒となった。第二次世界大戦のときにヒトラーがドライジンの醸造所があるプリマスを爆撃した時には、兵士たちは涙を流して怒り狂ったと言われている。

イギリスの酒場「パブ」の誕生-イギリスの産業革命と食(5)

2022-03-23 22:41:39 | 第五章 近代の食の革命
イギリスの酒場「パブ」の誕生-イギリスの産業革命と食(5)
イギリスの酒場と言えば「パブ(pub)」が有名です。どんな小さな村にもパブがあり、それぞれの地域の社交場として重要な役割を果たしています。

そもそもパブは「パブリック・ハウス(public house)」の略で、産業革命期に労働者などの公衆のための場所として始まりました。18世紀のパブリック・ハウスでは、結婚式などの祭事や集会、パーティーなどが開催され、時には裁判も行われることがあったと言われています。また、仕事のあっせんなどを行うパブリック・ハウスも存在したそうです。

今回は、ヨーロッパにおける酒場の歴史から始めて、産業革命期のパブリック・ハウスの誕生とその後の変遷について見て行きます。


(Luis Wilker WilkerNetによるPixabayからの画像)

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ヨーロッパでは酒場宿屋と一体化している時代が長かった。酒を飲めば酔いつぶれてしまうこともあるし、一眠りしてから帰宅したいと思う人も多かったからだろう。また、旅行者にとっても、宿での食事と酒の提供は無くてはならないものだった。

このような酒場兼宿屋の中には売春行為が行われるところもあった。古代ギリシア時代の記録には、悪質な酒場兼売春宿に泊まって身ぐるみをはがされてしまった男のことが書かれているという。

酒場と宿屋が一体化した店舗はローマ帝国でも一般的だった。ローマ帝国の飲食店であった「タベルナ」の中には宿泊可能な店も多くあったと言われている。

また、古代ローマにはタベルナ以外に「ポピーナ」と呼ばれる泊り部屋付きのワインバーがあった。ここの利用者は主に奴隷や外国人など下層階級層であり、売春に加えて賭博が日常的に行われていてトラブルの巣窟になっていた。このように飲酒・売春・賭博の三つが結びついたのは古代ローマが最初とされている。

ローマ帝国の最盛期には、石畳で舗装された街道が約8万㎞に達したと言われている。そして、旅行者のためにタベルナが併設された宿屋がたくさん営業していた。また、いかがわしいポピーナも旅行者によく利用されていたという。

4世紀末に始まった民族の大移動によってローマ帝国が崩壊すると、社会情勢が不安定になるとともにローマ街道も維持できなくなって、旅行をすることが困難になった。その結果、酒場(宿屋)はしばらくの間衰退する。

9世紀になると、西ヨーロッパを統一したカール大帝(在位:768〜814年)は、各地に教会や修道院を建てることによってキリスト教を基盤とした統治を行った。修道院ではワインビールが醸造され、祭祀に利用されるとともに、貴族や一般庶民にもふるまわれた。修道院は貴族たちの宴会場にもなったし、貧民たちの避難場所でもあったのだ。

再び酒場兼宿屋が盛んになるのが11世紀だ。11世紀になると農業技術が発展し、食糧生産量が増えたことによって人々の生活に余裕が生まれてきたのだ。その結果、地域内や地域間の交流が活発になり、酒場や宿屋が増えたのである。

さらに、11世紀の終わりに始まった十字軍の遠征によって聖地エルサレムの存在が広く知られるようになると、たくさんの人々が聖地巡礼の旅に出かけるようになる。エルサレム以外には、イタリア半島のローマやスペインのサンチャゴ=デ=コンポステラ(キリスト十二使徒の一人ヤコブの遺骨が発見された地)への巡礼が盛んに行われたという。

このような巡礼者に対する宿として、修道院とともに民間の宿屋が利用されたのだ。教会や修道院が宿屋を経営することも多かったらしい。もちろん、修道院や宿屋では食事と酒が提供されていたし、場末の宿屋では売春や賭博も行われていた。また、その頃には修道院だけでなく、民間や一般家庭でも酒の醸造が行われるようになり、酒場(宿屋)で販売された。

教会や修道院と関係が深かった酒場(宿屋)では、教区の会議や日曜学校が開催されたらしい。また、礼拝の前後に酒場(宿屋)で酒を飲むことも推奨されていた。このように、キリスト教と酒場の関係はかなり深かった。

イギリスでは「タバーン(tavern)」と呼ばれる酒場や、「イン(inn)」と呼ばれる宿屋が営業されていたが、両者は同じ店で営まれることが多くなったため、次第に区別はなくなったと言われている。1539年にイギリスの宗教改革によって修道院が解散させられると、その穴を埋めるようにタバーンとインがたくさん作られた。

さらにイギリスでは、エールを飲ませる「エールハウス(alehouse)」という酒場があった。昔のエールは上面発酵させたホップなしのビールで、ゲルマン系のアングロ・サクソン人がブリテン島に持ち込んだものだ。エールは長い間、各家庭で醸造されたものが日常食の一つとして飲まれていたが、家庭内で飲みきれなかったり、とても美味しいと評判になったりしたエールはエールハウスで売られたのである。

16世紀になるとエールの醸造場所は家庭から酒造所に移動して大規模化し、イギリスのエールハウスの数も顕著に増加した(この頃にはエールにホップが使用されるようになった)。1577年の調査では、イングランドとウェールズには14202軒のエールハウス、1631軒のイン、329軒のタバーンが課税対象として記録されているという。当時の人口を考慮すると、約200人に1軒の割合で酒場があったことになる。エールハウスも次第にタバーンやインと融合し、大きな違いは見られなくなったと言われている。

タバーン・イン・エールハウスは、各地域で仲間との親睦を深めるという重要な役割を果たしていた。16世紀から17世紀にかけての酒場は、上は王侯貴族から下は盗人まで集まる場所であり、さまざまな話題が飛び交っていた。

ところが、17世紀の半ば以降からは貧富の差が拡大して行ったため、異なる身分の者同士が酒を酌み交わすことは無くなって行った。すなわち、17世紀半ばには植民地からの収益で富を蓄えた人が上流階級に加わるようになり、18世紀からは産業革命によって新しい金持ちが誕生した。また、大都市には農村から大勢の人々が労働者として押し寄せ、彼らが居住する地域はスラム化することになる。このように貧富の差が拡大した結果、イギリスの酒場は身分や社会的な立場に応じて細分化されるようになったのである。例えば、その頃の酒場は、上流・中流・下流の席は壁で仕切られていたという。

やがて、上流階級の人々はコーヒーハウスから派生した「クラブ(club)」などで仲間と酒を楽しむようになる。こうして19世紀にはイギリスの従来の酒場は労働者のためのものに変化し、「パブ」と呼ばれるようになった。実際に、ロンドンのスラム街やマンチェスターなどの工業都市には多数のパブがあった。パブは労働者のための社交の中心となり、通夜、結婚式、洗礼式、祝日の祝宴が催されたという。

しかし19世紀半ばになると、新しい法律によってビール製造が容易になったため、パブの建設が盛んになる。また、既存のパブの多くも建て直され、今日のような一目でパブとわかる形態に変化して行った。このような外観の変化と同時に、それまで行われていた冠婚葬祭などの様々な催し物は開催されなくなり、パブは酒と世間話を楽しむ居酒屋へと変貌して行ったのである。

ヴィクトリア・サンドイッチ

2022-03-21 22:41:37 | 世界の料理を食べてみよう
ヴィクトリア・サンドイッチ
前回の「産業革命期のイギリスのパン」でベーキングパウダーの話をしましたが、ベーキングパウダーが使われ出した19世紀に誕生したイギリスのお菓子に「ヴィクトリア・サンドイッチ(ヴィクトリア・スポンジケーキ)」があります。

このケーキは、同じ量の小麦粉(ベーキングパウダー入り)と卵、砂糖、バターで作った生地を焼き上げて作ります。

下のケーキは一枚のケーキを上下に切り分けて、間にラズベリージャムを塗っていますが、別々に焼いた2枚のケーキでラズベリージャムをはさむのが本当の作り方です。上から粉砂糖をふって出来上がりです。サクサクふわふわとした感じのとても美味しいケーキです。


ヴィクトリア・サンドイッチ

このケーキの名前の「ヴィクトリア」は当時のイギリス女王だったヴィクトリア(在位:1837~1901年)から付けられました。

彼女は1861年に最愛の夫のアルバートを亡くし、毎日悲しみに沈んでいました。その時に、ほんの少しだけ悲しみを和らげたのが、このヴィクトリア・サンドイッチだと言われています。

このケーキもイギリスのアフタヌーン・ティーの定番となっています。

産業革命期のイギリスのパン-イギリスの産業革命と食(4)

2022-03-18 18:14:37 | 第五章 近代の食の革命
産業革命期のイギリスのパン-イギリスの産業革命と食(4)
日本人が朝食に食べるパンと言えば「食パン」が第一にあげられます。

食パンとは発酵させたパン生地をフタつきの角型に入れて焼いたもので、外側が型にくっつくことで平らになるため、直方体の形になります。

この日本の食パンの元祖は、パン生地を角型に入れて焼いたイギリスの「ホワイトブレッド」だと言われています。ただし、ホワイトブレッドの型にはフタが付いていないため、パンのてっぺんは山型になり、生地の中の気泡も大きくなります。また、大きさも日本の食パンよりも一回りほど小さいです。

産業革命期のイギリスではホワイトブレッドがたくさん作られ、朝食やアフタヌーン・ティーで多くの人々の空腹を満たしました。さらに、この時期には、今でもイギリスを代表するパンとなっている「イングリッシュマフィン」などがよく食べられていました。

一方、産業革命期には、酵母を使わずにパン生地を膨らませることができる「ベーキングパウダー」がイギリスで発明されました。そして、ベーキングパウダーを用いて「スコーン」などの様々なパンが作られて行くようになります。

今回は、このような産業革命期のイギリスのパン事情について見て行きます。

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食パンの元祖のホワイトブレッドは、角ばっていて収納性が良いことから、大航海時代の船に乗せるために生み出されたと言われている。ちなみに、最初にフタつきの角型で焼かれたパンは「プルマンローフ」というもので、これはアメリカのプルマンという鉄道の車両で使用されていたことに由来している。車両でも収納性が重視されたからだ。


ホワイトブレッド(congerdesignによるPixabayからの画像)

職人たちなどは、月曜日は日曜の安息日による二日酔いのために仕事をほとんどしないのが長年の習慣になっていたが、産業革命期になると工場の労働者のように月曜日の朝から毎日規則正しく働く人が増えてきた。その結果、毎日元気よく働くために、安価でエネルギーの高い食事が求められるようになった。

一方、イギリスでは広く紅茶を飲む習慣が広がり、それにともなって紅茶と一緒に軽食もよく食べられるようになった。特に、アフタヌーン・ティーでは紅茶と一緒に軽食を食べることが習慣化していく。

このような食事の要求にこたえて、よく食べられるようになったのがホワイトブレッドだ。多くの人々にパンを提供するために、効率良く焼くことができて収納性の高いホワイトブレッドが重宝されたのだ。

ちなみに、イギリスでは薄く切ったホワイトブレッドをカリカリにトーストして、ジャムなどをたくさん塗って食べるのがふつうだ。また、ホワイトブレッドはサンドイッチにも使用され、これもアフタヌーン・ティーでよく食べられた。

上流階級に人気だったのがキュウリのサンドイッチで、冷涼なイギリスでキュウリを食べられるのは温室持ちの金持ちだけだったため、一つのステイタスシンボルになっていたのである。

ホワイトブレッドのほかに、朝食やアフタヌーン・ティーでよく食べられていたのが「イングリッシュマフィン」だ。これは酵母で発酵させた小麦粉の生地で作った平たい小さいパンで、食べるときには手やフォークで水平方向に2つに割ってトーストし、バターなどを塗って食べる。また、ベーコンや卵をはさんだサンドイッチも作られた。


イングリッシュマフィン(Stacy Spensleyによるflickrからの画像)

イングリッシュマフィンは18世紀に誕生したと考えられているが、次第にイギリスで大人気になり、各家庭をまわって売り歩く行商人が登場するようになる。1820年頃に作られたイギリスの有名な童謡に「マフィンマン」というものがあるが、これはマフィンを売り歩くおじさんを歌ったものだ。

イングリッシュマフィンはアメリカに伝えられ、現代ではアメリカのとてもポピュラーなパンになっている。

現代のイギリスのアフタヌーン・ティーで、イングリッシュマフィンと同じようによく食べられているものに「スコーン」がある。スコーンの元祖は16世紀のスコットランドで生まれたビスケットのようなパンだった。それが、19世紀の半ばにベーキングパウダーを用いて作られるようになり、現在のようなものになった。

なお、スコーンもイングリッシュマフィンと同じように上下2つに割って、クロテッドクリーム(濃厚な乳製品)やジャムを乗せて食べる。


スコーン(Zul VentによるPixabayからの画像)

スコーンを作るときに使用されるベーキングパウダーは、1843年にイギリスの化学者のアルフレッド・バードが発明した。彼のベーキングパウダーは、重曹と酒石酸を組みわせたもので、これを生地に混ぜ込むと二酸化炭素が放出されて生地がやわらかく膨らむのだ。

人類は長い間、酵母を用いてパンやケーキを作ってきた。酵母がパン生地の中で活動すると、酸素を吸い込んで二酸化炭素を放出するのだが、バードは酵母の代わりに二酸化炭素を生み出す粉を作り出したのだ。

ベーキングパウダーはその後に改良が加えられたものが考案され、19世紀の後半にはイギリスやアメリカで広く使用されるようになる。