食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

「ツバメの巣」「北京ダック」「フカヒレ」の始まり-10~17世紀の中国の食(10)

2021-03-05 20:20:15 | 第三章 中世の食の革命
「ツバメの巣」「北京ダック」「フカヒレ」の始まり-10~17世紀の中国の食(10)
皆さんは高級中華料理と言えば、何を思いつくでしょうか。

ツバメの巣のスープ、北京ダック、フカヒレなどが一般的に高級中華料理と言われていますが、これらはすべて明の時代に本格的に食べ始められたと言われています。

今回は、ツバメの巣・北京ダック・フカヒレ料理の始まりを通して明代の食について見て行きます。

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明王朝(1368~1644年)の最初の首都は南京だったが、1421年に永楽帝によって北京に遷都された。

明王朝を興した朱元璋(洪武帝)(1328~1398年)は倹約家だったと言われている。彼は子孫が美食にふけって怠惰な生活に溺れないように、できるだけ質素で健康に良い食事をとるように心がけていたという。例えば、普段の朝食と夕食には豆腐をできるだけ食べるようにしていた。また、宮廷では肉や魚よりも野菜や果物をよく食べたという。

とは言え、やはり美味しい食べ物は大好きだったようで、彼の好物の「焼きハマグリ、エビいため、カエルの肢、干しシイタケ、ナマコ、アワビ、ニワトリ、ブタのアキレス腱の煮込み」を美味しそうに食べていたそうだ(劉若愚『酌中志』より)。

なお、中華料理では「アワビ」も高級食材だが、明代以降の宮廷料理にアワビが取り入れられたのは朱元璋の好物だったからと言われている。

朱元璋は江南の人間であったため、宮廷で出される料理はだしのきいた薄味の江南風だった。それにならって、その後の明の宮廷料理も基本的に江南の味付けだったと言われている。

「ツバメの巣」が宮廷で食べられるようになったのも朱元璋の代からである。それについて次のような逸話が残っている。

朱元璋が王位に就いてすぐのことである。彼は杭州の港に100歳を越える男性がいると聞き、宮廷に呼びつけて長寿の秘訣を尋ねたそうだ。すると、健康に良い食べ物と飲み物を教えてくれたのだが、その中に「ツバメの巣」が入っていたという。こうしてツバメの巣はそれ以後、皇帝と一部の特権階級で不老長寿の薬として食べられるようになったのである。

ツバメの巣は東南アジア沿岸部などに生息する「アナツバメ」の巣で、そのほとんどがツバメの唾液からできている(海藻からできているという話は間違い)。東南アジアではツバメの巣は健康に良い食材として古くから食べられていたそうだ。老人が住んでいた杭州は対外貿易港の商業都市として栄えていたため、東南アジア産のツバメの巣が手に入りやすかったと考えられる。

明代になってメジャーになったもう一つの料理がアヒルのあぶり焼き、つまり「北京ダック」の原型である。

北京ダックは太らせたアヒルを丸ごと窯で焼き、その皮の部分を薄餅(ポーピン)呼ばれる小麦粉で作った皮でネギやキュウリ、甜麺醤(テンメンジャン)と一緒に包んだものだ。アヒルの皮を客の目の前でカットしてくれるパフォーマンスが印象的で、これが日本人に有名な理由かもしれない。なお、北京ダックは日本では高級料理として知られているが、本場の中国ではそれほど高級なものではないそうだ。

アヒルはカモを家畜化して、肉や卵、羽などがたくさん摂れるようにしたものだ。アヒルによく似ている鳥にガチョウがいるが、これはガンを同じように家畜化したものだ。アヒルもガチョウも飛ぶ力はほとんどない(『ニルスの不思議な旅』では、飛べないと馬鹿にされたガチョウの「モルテン」がニルスを乗せて一緒に旅をする)。

江南ではアヒルの飼育が古くから盛んで、南京ではアヒルを焼いた料理がよく食べられていたという。1421年に南京から北京に遷都するが、この際に宮廷の料理人も北京に移った。そして、南方の料理をベースにした宮廷料理が発展して行くのだが、ここにアヒル料理も持ち込まれたのである。

江南のアヒルの焼き物は、下茹でして柔らかくしたアヒルを短時間火であぶって作っていたが、北京ではイスラム世界やインドから伝わった「窯」を用いてアヒルを焼くようになった。窯で焼くことによって、肉はジューシーなって皮はパリッとする。北京は元の首都だったが、対外貿易が盛んだったこの時代に窯を用いた炙り焼きの技術が伝わっていたのである。

ところで、北京ダックを北京語で「北京填鴨」と言う。「填鴨」とは強制的に餌を与えることで短期間のうちに太らせたアヒルのことだ。つまり、北京ダックに使うアヒルはこのようにして飼育されているのだ。この填鴨の飼育方法も明代の北京の郊外で始まったと言われている。

アヒルのあぶり焼きは宮廷でのみ食べられていたが、16世紀には民間の専門店が北京にオープンした。そして、その後も多くの店で出されるようになった。現代のような皮を切り取って食べる北京ダックは1896年に老舗の便宜坊が作り始めたと言われている。



三つ目のフカヒレの姿煮は、乾燥させたサメのヒレをアヒルやニワトリのスープでじっくり煮込んだもので、濃厚な味わいととろけるような舌触りを味わえる逸品だ。

「フカヒレ」が初めて記録に現れるのは1596年に南京で出版された李時珍医学書『本草綱目』(ほんぞうこうもく)である。サメのことを「背中にかたいヒレがあり、腹の下にはフカヒレがあり、味はいずれも美味しい」と書いているが、主に南方の人々が食べていたようで、まだ地方の食べ物だったようだ。

明の末期の17世紀半ば頃になると料理書などにフカヒレが取り上げられるようになることから、この頃には広く食べられるようになったと思われる。そして現代のようなフカヒレの姿煮の作り方が考案されるのは18世紀末から19世紀にかけてのことだ。



以上のように、明の時代はツバメの巣・北京ダック・フカヒレ料理などの高級中華料理が始まった時代と言えるのだ。

最後に、明の宮廷で食べられていた料理のいくつかを紹介して今回のお話を終わりにしたいと思う。

羊肉の焼き物:羊肉をスライスし、塩水と醤油に時々浸しながら炭火でじっくり焼く。

揚げスズメ:羽をむしり、内臓・骨を取り出す。少し乾燥させてから、紹興酒、塩、タマネギのタレに漬け込む。もち米粉を表面にまぶし、ピーナッツオイルでカリカリになるまで揚げる。油をきったあと皿に盛り、その上にニンニクのみじん切り、砂糖、酢、でんぷん、ごま油を熱して作ったソースをかける。

蒸し鶏:やわらかい鶏肉を水で洗い、塩、醤油、八角で作ったタレを塗り半日置く。じっくり蒸したあと骨を取り除き、鶏肉を細かく裂いて香辛料を加える。そしてもう一度蒸す。ガチョウ、アヒル、豚肉、羊肉を使ってもよい。

卵巻き:卵をといて薄く焼き、香辛料で風味付けしたひき肉を入れて巻く。それを砂糖と醤油で煮たあとスライスする。

アワビ入りのチキンスープ:アワビを薄くスライスし炒めたものを豆腐と一緒にチキンスープに入れて煮込む。

どれも美味しそうだなぁ。

元(モンゴル帝国)の食-10~17世紀の中国の食(9)

2021-03-02 18:15:59 | 第三章 中世の食の革命
元(モンゴル帝国)の食-10~17世紀の中国の食(9)
1206年にチンギス・カンが興したモンゴル帝国はまたたく間にユーラシア大陸の大部分を征服していきました。そして中国では1271年から1368年までモンゴル民族による元王朝が統治を行います。

こうしてモンゴル帝国が西アジア・中央アジアを含む大帝国を作ったことによって、東西の様々な技術や文化が双方向に伝えられることになりました。例えば、最先端の医学や天文学などがイスラム世界から中国にもたらされる一方で、中国からは印刷技術や羅針盤などがイスラムやヨーロッパに伝えられました。

それ以外の重要なものとしては、大きな威力を有する武器が挙げられます。
元が南宋を滅ぼす際に威力を発揮した武器に「回回砲」と呼ばれる巨大な投石機があります(「回回」は西アジアの意味)。これは西アジアやヨーロッパで使用されていた「トレビュシェ」という投石器のことです。

一方、中国からイスラム世界やヨーロッパへは火薬とともに、火槍や鉄砲などの火薬を用いた兵器が伝えられました。鉄砲はその後ヨーロッパで革新的な進歩を遂げることで極めて強力な武器になり、ヨーロッパが世界各地を征服する上で大きな力を発揮することになります。

食文化も同じように東西の混合が見られましたが、食の嗜好はそう簡単に変わるものではなく、それまでの食文化に新たな要素が付け加わったものになりました。

今回は、このような元代のモンゴル民族の食について見て行きます。

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元代の食を知る上で貴重な資料となっているのが『飲膳正要』という書物だ。これは、元王朝で飲膳太医という皇帝の栄養士兼侍医の職にあった忽思慧(こつしけい)が著したもので、その第一巻には皇帝が食べたと思われる95の料理が記されている。

この95の料理には100種類ほどの食材が使われているが、とりわけ目立つのが羊肉・羊尾子・羊肚・羊肺・羊舌・羊血・羊皮・羊蹄などのヒツジに由来するものだ。95の料理のうち実に77のものにヒツジの食材が使用されているのである。



遊牧民族にとってヒツジは最も重要な食材であり、元王朝の人々も引き続いてヒツジが大好きだったようだ。また、野菜ではネギが最も多く使用されているが、これもモンゴル民族が昔から食べてきたものだ。

このようにモンゴル民族の基本的な嗜好は変わっていないように見える。

一方、他民族の食文化の影響もところどころに見られる。例えば、コメなどが複数の料理に使われているが、これらは宋朝(漢民族)の食文化の影響を受けていると思われる。また、調味料として塩・酢・醤のほかに、コショウなどの香辛料陳皮(チンピ:マンダリンオレンジの果皮を干したもの)などが使用されているが、これらはイラン系のムスリム(イスラム教徒)によって持ち込まれたと考えられる。

モンゴル政権の中央には、モンゴル民族以外に「色目人」と呼ばれた中央アジア出身のトルコ系ウイグル族やイラン系の民族がいた(「色」とは種類という意味で、漢民族とは異なる民族という意味)。彼らは元の人口の数%しか占めなかったが、そのほとんどはムスリム商人で商才に長けていたため、モンゴル帝国の中枢で経済政策や通商政策を担当していた。彼らは故国との貿易を通じて故郷の味をモンゴル帝国の料理に組み込んだのである。

例えば、トルコ系ウイグル族から持ち込まれた料理としてはガーリック入りのヨーグルトソースであえた麺料理があり、これは現代のトルコ料理によく似ている(ガーリックヨーグルトソースはトルコ料理の定番です)。

『飲膳正要』の95の料理のうち27がスープ料理だが、これはスープがモンゴル料理の代表的なものだからだ。しかし、その調理法からも様々な民族料理の影響がうかがえる。スープに入れる食材がそれぞれで異なっているのだ。

モンゴル民族の伝統的なスープと思われるものにはヒヨコマメやオオムギの粉でとろみがつけられている。一方、漢民族のスープには、小麦粉で作った麺や団子、もしくは米粉の麺を入れられている。また、イラン系ムスリムのスープと思われるものはコメでとろみがつけられ、シナモン・サフラン・ターメリック・コショウなどの香辛料で風味付けがされている。これらを見るだけでも、宋王朝では国際色豊かなスープが食べられていたことがよく分かる。

『飲膳正要』の第2巻には様々な飲み物やジャムなどが取り上げられているが、これらも様々な民族のものが取り入れられているように見える。モンゴル民族が伝統的に好んだ飲み物が馬乳酒ミルク入りの茶であるが、このほかに、西方の飲み物であるワインやイラン系ムスリムが良く飲んだフルーツジュース、そして蒸留器(アランビック)で造った中近東の蒸留酒アラックなどが記載されている。

元には他の地域から移住して来る人がたくさんいた。彼らはブドウを育ててワインを造ったり、サトウキビを栽培して砂糖を作ったりしたという。そして、砂糖からは甘いジャムやお菓子が作られた。時にはシャーベットが作られることもあったらしい。

元以外のモンゴル帝国の支配地にも、モンゴル民族など他民族の食文化が伝えられて現地の食文化と融合した。そして、その後モンゴル民族による支配が終わった後も、その時に生まれた新しい食文化は生き残ったのである。

それは中国の箸の置き方にも見ることができる。日本では箸は横向きに置くが、中国では箸は縦向きに置く。実は元代になるまで中国でも箸を横向きに置いていたのだが、モンゴル民族が肉を切る時に使っていたナイフを縦向きに置いていたことから、それに合わせて箸も縦向きに置くようになったのだ。この箸の縦置きは元が滅んでも廃れず、現在に至るまで続いているのである。

中国の酒の歴史-10~17世紀の中国の食(8)

2021-02-27 17:03:00 | 第三章 中世の食の革命
中国の酒の歴史-10~17世紀の中国の食(8)
中国の酒は大きく「黄酒(ホアンチュウ)」と「白酒(パイチュウ)」の二種類に分けられます。その名の通り、黄酒は黄色や褐色のものが多く、白酒は無色透明のものがほとんどです。

黄酒はコメやキビなどを原料とする醸造酒のことです。黄酒を長期間熟成させたものは「老酒(ラオチュウ)」と呼ばれています。黄酒の代表なものとしては米から造られる紹興酒が知られています。

一方の白酒は黄酒などを蒸留したもので、蒸留操作で色素が除かれるため白色透明となります。また、一般的にアルコール度数は高くなり、40%以上のものが多く出回っています。なお、現代の中国の宴席では白酒で乾杯を行うことが多いようです。

中国で白酒が登場するのは宋代の頃と考えられています。今回は黄酒や白酒を中心に、中国の酒の歴史について見て行きます。


白酒(LIN LONGによるPixabayの画像)

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中国では紀元前から冷涼な華北ではキビとアワから酒を造り、温暖な江南ではコメを酒造りの原料にしていたと考えられている。これらの先史時代や古代の酒は「黄酒」に分類される。

黄酒の醸造では日本酒造りと同じように、穀物のデンプンを麹菌(こうじきん)によってブドウ糖に分解する「糖化」と、酵母によってブドウ糖をアルコールに変換する「アルコール発酵」を同時に行う。これは「並列複発酵」と呼ばれる醸造方法だ。

このように中国と日本の酒はともに並列複発酵で造られるが、二つの間には麹菌や原料に違いが見られる。

まず麹菌についてだが、中国の麹は主に「クモノスカビ」や「ケカビ」などの様々な菌が混合したものだ。粉末にした生の穀物を少量の水で団子状に練り固めたのちに放置すると、クモノスカビやケカビなどが自然に生えてくる。これを乾燥したもの(餅麹と呼ぶ)を黄酒の醸造に使用するのだ。

一方、日本酒造りには「ニホンコウジカビ」などの単一の菌種だけを使用する。蒸したコメに保存していたコウジカビを植え付けて生育させたもの(バラ麹と呼ぶ)を使うのだ。中世までには単一の菌種になるように選択的に培養したニホンコウジカビなどを日本酒の醸造に使うようになった。また、このような麹菌の種を販売する「種麹屋」が、室町時代から現代にいたるまで日本酒造りを支えてきた。

なお、現代では酵母についても中国と日本で麹のような違いが見られる。つまり、中国では天然の酵母を使用するのが一般的であるが、日本では「きょうかい酵母」と呼ばれる日本醸造協会が純粋培養している単一の菌種が主に使われている。

さらに使用するコメについても中国では一般的に糯米(モチゴメ)が使われるのに対して、日本では粳米(ウルチマイ:ご飯として食べている粘り気の少ないコメ)が酒造りに使用される。日本酒造りでは黄酒造りでは行わない蒸したコメを手でこねる作業があるため、手に引っ付きやすいモチゴメが敬遠されたからと言われている。また、モチゴメを使うと酒が甘くなるが、日本人は辛い酒を好んだことから粳米を使って来たとも言われる。

以上のように黄酒と日本酒では造り方にかなりの違いが見られるため、二つの酒造りはそれぞれの国で独自に発展してきたものだと考えられている。

さて、中国では唐代(618~907年)になると農業の発展にともなって酒造りも盛んになった。その結果、それまでは金持ちしか飲めなかった酒が庶民にも広まった。そして、酒は中国の文化に無くてはならない存在になって行ったのである。

「詩聖」と呼ばれた唐代の詩人の杜甫(712~770年)は生涯に1400 余りの詩を創作したが、そのうちの300が酒に関するものである。杜甫の友人の「詩仙」李白(701~762年)も酒をこよなく愛し、たくさんの酒にまつわる詩を作った。また彼は、酒に酔って水面に映る月を捕まえようとして溺死したという伝説も残している。杜甫は李白のことを詠んだ詩で「李白は一斗升の酒を飲めば百篇の詩を生み出し、長安では酒を飲んでそのまま酒屋で寝てしまう。皇帝に呼ばれても出て行かず、自ら酒中の仙人と称する」と言っている。


     李白

ここで、李白が詠んだ酒の詩の中で最も有名な「将進酒(まさに酒を進めんとす)」の前半部分を紹介しよう。

将進酒(さあ、酒を楽しもう) 
君不見黄河之水天上來(君よ見たまえ、天上から黄河の水が注ぎこむのを)
奔流到海不復回(すさまじい流れで海に至ると、二度と戻ってこないのだ)
君不見高堂明鏡悲白髮(君よ見たまえ、立派な屋敷に住んでいる老人が、鏡 に映った白髪を見てなげき悲しんでいるのを)
朝如青絲暮成雪(朝には青く輝いていた細い髪の毛が、夕暮れには雪のように白くとけてしまう)
人生得意須盡歡(だから楽しめるうちに人生をとことん楽しみ尽くそう)
莫使金尊空對月(金色に輝く酒樽を、月の光にさらしておくだけじゃあつまらない)
天生我材必有用(天がさずけた僕たちの才能は、いつか必ず花開くはずさ)
千金散盡還復來(だからこの場で金を使い果たしても、またいつか戻ってくるよ)
烹羊宰牛且爲樂(羊を煮て牛をさばいて、まずは楽しもうじゃあないか)
會須一飮三百杯(酒を飲むなら一気に300杯、グイと飲みほそう)

酒を何よりも愛した李白の楽天的な人柄がよく分かる詩だと思う。

さて、唐代の中期になると、王朝は塩や茶と同じように酒についても専売を行うようになった。つまり、政府が許可した者だけに酒の製造と売買を許可して、政府が指定した高い価格で売買を行わせたのだ。この時に原価の数十倍の税を得ることができ、こうして集めた金で国家体制を維持しようとしたのである。

しかし、唐代の末期になって庶民が困窮すると、塩・茶・酒の密売業者が中心となって暴動が頻発し、最終的に唐は終わりを迎えることになった。

五代十国の時代が過ぎて宋代(960~1279年)になると、さらに酒造りが盛んになった。北宋の首都開封や南宋の首都杭州には、拍戸(泊戸)と呼ばれた酒の小売店や酒楼と呼ばれた公営の飲食店、酒庫と呼ばれた酒の卸売場などの酒関係の店が多数営業していたという。

宋代でも塩や茶とともに酒も専売制で厳格に管理されており、酒税は政府の重要な財源となっていた。醸造所は政府が所有し、人を雇って造られた酒は政府が決めた高い価格で販売されていた。中国の歴史において宋代の酒税が最も重かったと言われている。

宋王朝は経済政策を優先したことから海外との貿易が盛んになり、海外の物品も中国内に流通するようになった。東坡肉(トンポーロウ)を考案した蘇軾が遺した記録から、彼の時代には中国でもワイン(ブドウ酒)が作られるようになっていたことがうかがえるという。

さらに宋代には白酒を造るのに必須の「蒸留器」がイスラム商人を通して中国に持ち込まれた。「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でお話しした「アランビック」が中国に伝えられたのである。アランビックを用いた蒸留法はイスラム世界から世界各地に伝えられ、白酒だけでなくブランデーやウオッカ、ウイスキー、泡盛、焼酎などの蒸留酒が作られるようになった。
イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)はこちら


                    アランビック

白酒は元の時代(1271~1368年)には「阿剌吉酒(あらきしゅ)」と呼ばれたと記録されているが、この呼び方はアランビックから来たと考えられている。

元代には白酒のほかに従来の黄酒やワイン、そして遊牧民に愛された「馬乳酒」が飲まれていた。馬乳酒はその名の通り馬乳を発酵させたものでアルコール度数は低く、酒というよりもヨーグルトのような食品として食べられていたらしい。

次の明王朝(1368~1644年)は当初禁酒令を出したりしたが、大きな取り締まりを行わず、すぐに酒の醸造や販売が自由に行われるようになった。その結果、酒の醸造業が飛躍的に発展し、酒の種類や生産量が著しく増えたという。

さらに14世紀の終わり頃には一般の庶民が酒屋を開くことを認め、15世紀には酒税を軽くしたことから、酒の醸造・売買はさらに加速したと言われている。

中国の麵の歴史-10~17世紀の中国の食(7)

2021-02-21 13:59:08 | 第三章 中世の食の革命
中国の麵の歴史-10~17世紀の中国の食(7)
現代の日本では、小麦粉や米粉、そば粉など穀物の粉を細長くした食べ物のほとんどを「麺」と呼んでいます。一方、中国では「麺」は小麦粉で作られたものを指し、それ以外のものは「粉」と呼んで区別しています。

実は、もともと中国では麺は小麦粉そのもののことを意味していて、小麦粉で作った食べ物のことは「餅」と呼んでいました。それが宋代になると、小麦粉で作った細長い食べ物を麺と呼ぶようになったそうです。このように呼び方が変化した理由は、その頃に麺が大きく進化したからです。

今回はこのような麺の歴史について見て行きます。なお、これ以降の「麺」とは日本人が一般的に使う麺(ヌードル)のことを指します。



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中国で小麦粉が大量に作られるようになったのは唐代(618~907年)になる少し前からだ。小麦粉を作るためにはコムギの粒を細かくすりつぶす必要があるが、そのための碾磑(てんがい)という水車で動く巨大な臼がその頃に普及し始めたからである。

なお、コムギが主に栽培されたのは寒冷地の華北地帯であり、温暖な江南では主にコメが栽培されていたため小麦粉はあまり出回らなかった。

西アジアやヨーロッパでは小麦粉からは主にパンが作られたが、何故か中国ではパンはあまり焼かれず、小麦粉の生地はゆでたり蒸したりして調理された。このゆでたり蒸したりしたものは「湯餅」と呼ばれ、ここから麺・餃子・ワンタンなどが生まれたと考えられている。

湯餅の中で麺類の直接の先祖と考えられているのが「水引餅(すいいんべい)」である。540年頃に書かれた農業書の『斉民要術』によると、水引餅は豚肉のスープでこねた小麦粉を箸の太さに延ばしたのち水の中でさらに平たく延ばし、湯で煮て作るとある。表面はふわふわとしているがしっかりとコシが感じられる歯ごたえがあるらしい。

麺のコシを生み出すためには網目構造であるグルテンを形成させる必要がある。グルテンは小麦粉に塩を入れてこねることでできて来るのだが、水引餅では豚肉のスープに含まれている塩によってグルテンが作られることでコシが生まれるのだろう。

唐代になると、湯餅は2つの系統に分かれて発展する。一つは小麦粉を薄く延ばして具材を包み込む水餃子やシュウマイの系統で、もう一つは生地を細長くした麺類の系統である。

「切り麺」が登場したのも唐代である。こねた小麦粉の生地を麺棒でうすく延ばしたのち折りたたみ、刃物で線状に切ってつくる方法が生み出されたのだ。この技法は「不托(ふたく)」と呼ばれ、小麦粉だけでなくそば粉など他の生地にも使用されるようになり、アジアの各地に伝えられた。日本にも鎌倉時代に伝わったと考えられている。

現代の中華麺の特徴となっている「かん水」が使用され始めたのは唐代の終わり頃から宋代(960~1279年)にかけてである。かん水とは炭酸ナトリウムなどを含んだアルカリ性の溶液で、アルカリ性になることでグルテンの形成がよく進んで強いコシが生まれるとともに、小麦粉中に含まれる色素であるフラボノイドが淡黄色に変化するのだ。このため中華麺は縮れていて黄色をしている。

中国の東北部から西北部にかけて分布する塩水湖(鹹湖(かんこ))の水はアルカリ性で、これを使うとコシの強い麺ができることを偶然見つけたのである。ちなみに現代では工業的に作られたかん水を使用している。

宋代になると湯餅という言葉は使われなくなり、小麦粉で作った細長い食べ物を麺(麺条)と呼ぶようになった。麺類が多くの人に食べられるようになったからである。

宋代の各都市には飲食店や屋台がたくさん営業していたが、麺類は素早く食べられて腹持ちも良かったので人気を博し、多くの店で売られようになったのだ。また具材も豊富になり、それまでの単にスープの中に麺を入れただけのものに加えて、魚介類や肉類などの具が入ったものも食べられるようになった。

このように麺類がよく食べられるようになると、それまで食具として主に使用されていた「匙(さじ)」に代わって「箸」が多く使用されるようになった。箸の方が麺をつかみやすいからである。

女真族の金によって華北を征服され、首都を江南の杭州に遷都した南宋(1127~1279年)の時代になると麺の文化はいっそう発達した。それまで江南ではあまり知られていなかった穀物から粉を作る技術が伝わることで、江南の食材の新しい調理法が生まれたからである。

江南では主にコメが栽培されていたが、これを粉にすることでビーフンが作られた。また、緑豆の粉を使用した春雨も誕生した。これらは穴をあけたウシの角から生地を熱湯の中に押し出すことで作られる。

また、小麦粉の生地に油を塗ることでそうめんのように細く引き延ばす技術も開発された。さらに、ナガイモなどをつなぎにしたものや、エビの粉や卵を混ぜてエビ風味にした麺も考案された。

このように麺文化は宋代で大きく花開いたのである。

茶の力-10~17世紀の中国の食(6)

2021-02-18 16:43:03 | 第三章 中世の食の革命
茶の力-10~17世紀の中国の食(6)
中国の代表的な飲み物と言えば「茶」です。茶の生産は唐の時代から宋の時代にかけて大きく拡大し、また茶を飲む習慣も一般庶民に広く普及して行きました。そして茶は人々の暮らしに必要不可欠な存在となり、経済的な重要性も高まりました。

これに目を付けた宋朝は茶の生産と販売を専売制にすることで、国家の大きな財源にします。専売制の下で一部の商人たちが莫大な利益を上げるようになりましたが、一般庶民の中には茶の密売を始める者が現れ、武装することで大きな反社会勢力へと成長して行きます。

今回は唐の時代までさかのぼり、このような社会情勢に触れながら茶の歴史を見て行きます。



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・唐代の茶
唐(618~907年)は農業を奨励したことから茶の生産も次第に増えて行った。同時に貴族や文人・学者によって茶を飲む風習が広まり、茶は文化の上でも重要な役割を果たすようになった。こうして8世紀にかけて首都の長安などの華北の都市に茶を飲む風習が定着してきた。また、軍事的に同盟関係にあり、婚姻関係も結んでいた西方のウイグル族にもこの時期に茶を飲む風習が伝わったと考えられている。

760年頃に湖北省の陸羽によって著された『茶経』は、それまで断片的に伝えられていた茶に関する情報を系統づけて集大成した書で、現在にいたるまで茶のバイブル的な存在になっている。そのため陸羽は中国では「茶神」とも称されている。

茶経は上中下巻に分かれた計10章から構成されており、上巻の第1章には茶樹の性状など、続く第2章には製茶道具、第3章には製茶法、中巻第4章には茶器、下巻第5章には茶のいれ方、第6章には茶の飲み方、第7章には茶の歴史、第8章には茶の産地、第9章には省略した茶、第10章には茶席の飾り物についてそれぞれ述べられている。

『茶経』が出ると、それに刺激されたのか茶に関する書がいくつも刊行されたそうだ。このことはその当時の茶の広がりを示しているように思える。実際に9世紀の記録によると、茶の産地では新茶の出る頃に茶を求める者が各地から集まり、お互いの肩がぶつかるほど混雑していたそうだ。

770年頃になると、皇帝に新茶を献上する貢茶が始まった。その茶はきわめて品質の高いものが要求されたため、浙江省に専門の製茶工場である貢茶院が建てられた。この工場では1000人以上の人が働いていたという。

しかし、貢茶のための茶葉の栽培や茶摘みの作業はとても大変で、その作業のために膨大な数の農民が投入されたが、報酬は一切もらえなかったという。そのため、厳しさに耐えかねて逃げ出す人も多かったそうだ。

貢茶とともに人民の負担となったのが茶に対する課税である。茶の流通が増えてきたことに目を付けた政府は、七八二年に初めて茶への課税を始めたのだ。しかし、政権内に反対意見が出たり担当官が課税反対派に殺されたりしたため、課税を継続することができなかった。

ところで、唐代の上流階級の茶の飲み方は南北朝時代(439~589年)から行われている「団茶」を用いたものだった。団茶とは、蒸した茶葉をすりつぶしてコメ糊などと混ぜ、型に入れて固めたのちに乾燥させたものだ。唐代には団茶は餅茶(へいちゃ)とも呼ばれていた。

団茶を飲むときには、火であぶったのち香気を失わないように紙に包んで冷やし、さらに臼などで粉末にする。そして、塩を加えた湯で煮だして飲んだ。ショウガなどを加えることもあったという。ちなみに、上等な茶ほど甘かったそうだ。

・宋代の茶
宋代(960~1279年)は米・塩とともに茶が生活の必需品となった時代だ。宋朝も唐以上に農業を重視したので、茶園の面積は拡大した。また手工業も発達したことから、茶の製造技術も発展した。

農業と手工業の発展によって経済が活発化し、各地に商業都市が生まれた。こうした都市では多くの茶館が営業し、普通の庶民も気軽に茶を楽しむことができたという。

宋代の茶は三種類あった。「散茶(さんちゃ)」「片茶(へんちゃ)」「研膏茶(けんこうちゃ)」の三つである。

「散茶」は一般庶民に最も普及した茶であるが、詳細は分かっていない。おそらく、蒸した茶葉をバラのまま乾燥させた現代の茶のようなものであったと考えられている。

「片茶」は蒸した茶葉を固めたもので、唐代の団茶(餅茶)とほぼ同じものだ。

「研膏茶」は片茶の一種だが少し複雑な作り方をする。蒸した茶葉をすぐにすりつぶすのではなく、圧力をかけてしぼったのち乾燥させる。そして、乾いたものを少量の水ですりつぶして型に入れて再び乾燥させる。最後に表面に蒸気をかけ、表面を磨いて出来上がりだ。

研膏茶は非常に高価で、主に皇帝に貢納された。そして皇帝は功のあった者にこれを下賜したのだが、その者は恐れ多くて飲むことができず、家宝として飾っておくことが多かったそうである。

片茶(そして研膏茶)のいれ方は日本の茶道のいれ方に似ている。まず、茶の塊を鉄製の薬研(やげん)(下の写真)や茶臼によって細く砕いて粉末とする。次に沸かした湯を茶碗に注ぎ、そこに砕いた茶粉を入れ、さじや茶筅(ちゃせん)でかき混ぜるのだ。


薬研(やげん)

細く砕いて粉末にした茶は「末茶」と呼び、これが日本の「抹茶」の語源と考えられている。また、末茶が熱湯に溶けることを「発立」と言ったことが日本で「茶をたてる」という言い方の由来になったと言われている。

こうして出来上がった茶の色は白色をしたもの(白茶という)を最高としたことから、白色が映えるように内側が黒色の茶碗が好まれたという。鉄釉(てつゆう)をかけて作った黒色の天目茶碗がよく使用されたのも、この理由からである。

・強すぎた茶の密売人
宋朝は唐朝に引き続き皇帝に献上する貢茶を行ったが、これに加えて新たに茶の専売化を行った。つまり、茶の自由交易を禁じ、生産された茶を一旦全部官に納めさせ、改めて商人に払い下げるという手段をとった。また、生産量に対しても厳しい管理を行った。

宋朝は違反者に対して最高は死刑という重い刑罰を科しており、専売制をかなり重要視していたことがうかがえる。その理由は、対外政策のために茶そのものや茶を売って得た金が必要だったからだ。

つまり、北方の遼の侵攻によって和議を結んだとき、宋は毎年7万両の銀、15万匹分の絹とともに約18トンの茶を渡すことを取り決めたのだ。このように、茶は北方民族でも重要な物品となっており、政治的に利用されたのである。

また、遼や西北の西夏との国境線には常に大規模な軍を駐留させておく必要があり、その数は1000年頃で約60万人と言われている。このための駐留費は莫大なものになっていて、それを賄うための財源として専売制にした茶や塩が使われたのである。

このような国境維持軍に兵糧を納入した商人には代価を茶あるいは塩で支払った。商人はこれを一般人などに売ることで利益を上げていた。しかし、この取引にありつけるのは一部の豪商だけであり、彼らは結託して茶や塩の価格を釣り上げることで莫大な利益を得ていたのである。

このような状況では密売が横行するのは当然のことだった。正規の価格よりも少し安く売るだけで大儲けができたからである。

しかし、密売をして捕まると厳罰に処せられる。そこで密売人たちは徒党を組み、取り締まりの情報を収集し、綿密な計画を練った上で密売を行った。また武装を行い、万が一仲間が捕まった場合には官憲と戦って奪還を試みた。そして最終的には盗賊まがいの強盗なども行ようになったという。こうして密売人は「茶賊」と呼ばれるようになり、人々に恐れられる存在になって行った。

茶賊は一帯の地理に精通していたため神出鬼没で、官憲は容易に捕まえることはできなかったという。また、太守(知事)なども保身に徹し、失敗を恐れて取り締まりをほとんど行わなかった。

そこで政府は苦肉の策として密売人たちと交渉を行い、軍に編入することとした。密売人にとっても政府の後ろ盾があった方が生活しやすかったため喜んで応じたようだ。そうして彼らは「茶商軍」と呼ばれるようになる。

茶商軍は正規軍よりも勇敢で、北宋が金と争いになった時には正規軍が敗走する中で奮闘し、金の南下を阻止することもあったという。

茶商軍は南宋になっても続き、蒙古帝国軍とも戦ったが、強大な敵を打ち負かすことはできずに壊滅した。