食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ジャンバラヤを作りました

2021-10-17 21:05:56 | 世界の料理を作ってみよう
本日はケイジャン料理のジャンバラヤを作りました。
材料は下の通りです。これ以外にコメ、カットトマトとコンソメスープの素、オリーブオイル、塩です。


ポイントはケイジャン・シーズニングです。
ケイジャン・シーズニングは、チリパウダー、クミン、オレガノ、タイム、ブッラックペッパー、バジルなどが入ったミックススパイスです。と手の良い香りがします。

作り方は次の通りです。

タマネギ、ニンニク、パプリカをみじん切りして、適当に切ったソーセージとひき肉と一緒にパエリア鍋で炒めます。
カットトマトと水、コンソメスープの素を入れて煮立たせ、コメとケイジャンシーズニングを入れて30分ほど炊きます。

下のように出来上がりました。


とても美味しかったです。今回はケイジャンシーズニングが控えめでしたが、もう少し入れても良かったと思いました。


コーヒー・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(2)

2021-10-16 19:16:54 | 第四章 近世の食の革命
コーヒー・プランテーションのはじまり-中南米の植民地の変遷(2)
2019年の統計によると、コーヒー豆を最も多く生産した国はブラジルで、約300万トンを生産しています。これは世界全体の生産量(約1000万トン)の30%に相当します。

コーヒー生産量の2位以下は、ベトナム(16.8%)、コロンビア(8.8%)、インドネシア(7.6%)、エチオピア(4.8%)となっています。

このうち、ブラジルとコロンビアは中南米(ラテンアメリカ)の国であり、ベトナムとインドネシアはアジア、そしてエチオピアはアフリカです。このように、現在ではたくさんの国々でコーヒーが栽培されています。

コーヒーはエチオピアが原産地であり、エチオピア以外の国々にはコーヒーノキ(コーヒーの木)が人の手によって運ばれました。

今回はラテンアメリカにコーヒーノキが持ち込まれることによって、コーヒー・プランテーションが始まるまでのいきさつについて見て行きます。

ところで、現在栽培されている主なコーヒーノキが「アラビカ種」と「ロブスタ種」です。現在のラテンアメリカでは主にアラビカ種が栽培されており、アジアでは主にロブスタ種が栽培されています。

一般的にアラビカ種の方が風味が良いため高級品種とされますが、病虫害に弱いという欠点があります。一方、ロブスタ種は病虫害に強く、様々な気候に適応して高収量が見込めるという特長を有しています。

なお、ロブスタ種が発見されたのは1895年のことであり、今回はアラビカ種のお話になります。


NickyPeによるPixabayからの画像

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エチオピア原産のコーヒーノキは、15世紀にイスラム教徒の手によってアラビア半島南部の現在のイエメンに持ちこまれ、栽培が開始された。栽培は軌道に乗り、15世紀から17世紀まではイエメンがコーヒーノキ栽培の中心地だった。

イスラム勢力はコーヒーの栽培を独占するため、栽培可能な種(コーヒー豆)や苗の持ち出しを厳しく取り締まっていた。しかし、17世紀になると持ち出しに成功する人が現れた。イスラム教徒のインド人がイエメンから密かに苗木を持ち出し、南インドでの栽培に成功したのだ。

さらにオランダ東インド会社は、1658年に南インドからコーヒーノキの苗木をセイロン島に持ち込み栽培を開始した。しかし、この栽培は最終的に失敗する。それでもオランダ東インド会社はあきらめずに、17世紀の終わりにはジャワ島で栽培を始めた。今度の栽培は軌道に乗り、ジャワ・コーヒーと名付けられた。1706年にはコーヒーノキの苗木がオランダのアムステルダム植物園に送られている。

オランダフランスは長い間敵対関係にあったが、1713年に講和条約が結ばれた。これを記念してアムステルダム市長からフランス王ルイ14世に、アムステルダム植物園で栽培されていたコーヒーノキの若木が贈られた。コーヒーの人気が高まっていたフランスは、この若木をパリ植物園で大事に育てたという。

さらにフランスは、高まるコーヒーの需要を満たすために、1715年にスペインから強奪したカリブ海のサンドマング(エスパニョーラ島西部で後のハイチ)でコーヒーノキの栽培を始めた。ところが、1725年のハリケーンでコーヒーノキはほぼ全滅してしまう。

一方、1723年にはガブリエル・ド・クリューというフランス将校がパリ植物園から密かにコーヒーノキの苗木を持ち出し、赴任先のカリブ海のマルティニーク島に持ちこんだ。彼が運んできたコーヒーノキは無事に成長し、順調に増えて行った。そして、マルティニーク島に加えて、グアドループ島やサンドマングでも栽培されるようになる。

サンドマングでは1725年のハリケーンでコーヒーノキだけでなく、カカオなどのプランテーションが壊滅状態に陥っていたため、マルティニーク島から導入されたコーヒーノキが救世主になった。こうしてコーヒー・プランテーションが急拡大し、1750年頃にはサンドマング産のコーヒーは全世界の生産量の半分を占めるまでに成長したという。

この同時期に南米大陸でもコーヒーのプランテーションが始まっている。

ブラジルの北側にあるギアナ地方は、イギリス・フランス・オランダが領有をめぐって争ったところだ。この中のオランダ領ギアナ(現在のスリナム)には、1718年に本国のオランダからコーヒーノキが運ばれてコーヒー・プランテーションが始まった。

その東隣のフランス領ギアナもコーヒーノキの栽培を行いたかったが、オランダから手に入れることができずにいた。そんな折、フランス領で犯罪を起こしてオランダ領ギアナに逃げ込んでいたムールジュという男が、恩赦の代わりにコーヒーノキを密輸する話を持ち掛けたのだ。この話に乗ったフランス領ギアナは目論見通りコーヒーノキを手に入れ、栽培を始めたのである。

一方、ブラジルもコーヒーノキを欲しがっていたが、手に入れる好機が1727年にやって来た。オランダ領とフランス領のギアナの間で始まりそうになった紛争を利用したのだ。ブラジルはその仲裁役を買って出たのが、特使のフランシスコ・デ・メロ・パリエッタという男にコーヒーノキを持ち帰るという密命を与えてフランス領ギアナに派遣した。

パリエッタはギアナ総督婦人を色仕掛けで篭絡した。そして、ギアナから立ち去る時に彼女から渡された花束の中にコーヒーノキの苗木と豆を紛れ込ませることで、首尾よくブラジルに持ち帰ることに成功したという。

こうしてブラジルでもコーヒー・プランテーションが開始され、1734年にはブラジルからポルトガルの首都リスボンに向けて、45トンものコーヒーが運ばれたという記録が残っている。

砂糖プランテーションの拡大-中南米の植民地の変遷(1)

2021-10-14 18:16:32 | 第四章 近世の食の革命
砂糖プランテーションの拡大-中南米の植民地の変遷(1)
今回から中南米のいわゆるラテンアメリカのシリーズが始まります。

近世のラテンアメリカはヨーロッパの国々の植民地になっていました。そもそも「ラテン」とはスペインとポルトガルが位置している「イベリア半島」のことで、両国が中南米の支配者であったことからラテンアメリカと名付けられました。

ところで、黒人奴隷と聞くとアメリカ合衆国を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は北米よりもラテンアメリカに連れて来られた黒人の方がずっと多かったのです。

ある研究によると、北米には40万人の黒人が運ばれてきましたが、カリブの島々には460万人、ブラジルやメキシコ・ペルーなどには440万人もの黒人が連れられて来られたと推定されています。

また、北米では黒人奴隷はお互いに結婚して子供を残すことができましたが、ラテンアメリカの黒人奴隷の多くは過酷な労働のために5年くらいで死亡したと言われています。

このように、負の側面が際立つラテンアメリカの奴隷制ですが、西ヨーロッパの国々にとっては、近代以降に世界の中心的な存在に成長して行くための大きな礎になりました。

今回は、食の世界でもとても重要な砂糖のプランテーションの歴史について見て行きます。



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スペイン王室の依頼を受けたクリストファー・コロンブスは1492年10月にカリブ海に到達した。これがヨーロッパによるラテンアメリカの植民地の始まりとされている。

1494年にローマ教皇の仲裁によってスペインポルトガルの間に結ばれたトルデシリャス条約によって、アメリカ大陸はスペインの領土となった。ただし、1500年にポルトガル人のカブラルがブラジルを発見したため、現在のブラジルの東側はポルトガルの領土となった。

ラテンアメリカに最初にサトウキビを持ちこんだのはコロンブスだ。1493年の第2回目の航海の際に、コムギやオオムギ、ブドウなどとともにサトウキビの苗木をカリブ海のエスパニョーラ島に運んできたのだ。こうして、この島でサトウキビの栽培と砂糖の生産が始まった。

1516年にはエスパニョーラ島に最初の製糖工場が建設され、本格的な砂糖プランテーションが始まった。「プランテーション」とは、白人が植民地で原住民や黒人の奴隷を用いて単一作物の大規模栽培を行う大農園のことだ。プランテーションでは少数の白人が大農園主として多数の奴隷の上に君臨することで、莫大な富を蓄積した。エスパニョーラ島で始まった砂糖プランテーションはその後、キューバなどのカリブ海の島々に広がって行った。

一方のポルトガルは、ブラジルの海岸地域や沖合の島々に大農園を作り、1530年頃からサトウキビの栽培と砂糖の製造を始めた。1540年までにブラジルでは1000以上の砂糖プランテーションが開発されていたと言われている。

ポルトガル人は、初めは主に原住民を奴隷として用いてサトウキビの栽培を行っていたが、過酷な農作業のため原住民が死亡したり逃亡したりしたため、1570年頃から植民地としていた西アフリカから黒人奴隷を導入するようになった。ポルトガルは既にマデイラ諸島やカナリア諸島、そして西アフリカ沖の島々で黒人奴隷を用いたサトウキビの栽培を行っており、このシステムを持ちこんだのだ。

スペインが支配していたカリブ海の島々では、主にヨーロッパから持ち込まれた感染症によって奴隷として働いていた原住民が著しく減少したため、ポルトガルにならって黒人奴隷を使用するようになった。スペインは現在のメキシコやペルーなども植民地化し、砂糖のプランテーションを建設して行った。しかし、そこでも感染症によって原住民が激減したため、黒人奴隷を導入するようになった。

ここで、砂糖プランテーションにおけるサトウキビの栽培と砂糖の生産の各過程について見てみよう。

まず、農地を耕し、サトウキビの枝を植える。そうすると、枝から根が出て来て養分を吸い上げ、新しい芽ができる。この芽を大きく育てるのだ。そのためには雑草を丁寧に取り除く必要がある。雑草取りは1日に3度行われたという。

サトウキビが熟してくると、釜の燃料のための木々を伐採して薪を作る。そしてサトウキビの刈り取りを始めるのだ。刈り取られたサトウキビは搾りやすいように12本ずつに束ねられた。

収穫したサトウキビはすぐに圧搾機にかける必要があった。放っておいて水分が蒸発すると汁が出なくなるからだ。このため、圧搾機を備えた砂糖工場がサトウキビ畑のすぐ近くに建てられた。そして、圧搾機の処理量に合わせてサトウキビが刈り取られ、数か月間にわたって毎日のように刈り取りと圧搾、そして砂糖の精製が行われたという。

圧搾機を通して出て来た搾り液は大きな窯に流し込まれ、薪がくべられて煮詰められる。浮かんでくるアクは不純物であるため絶えず取り除かなくてはいけない。こうして十分に煮詰まった液を冷やすと、砂糖が結晶化してくる。この時の砂糖はまだ茶色で、これを粗糖と呼ぶ。白い砂糖を得るためには、粗糖を再び水に溶かして石灰などによって不純物を除去したのち、結晶化を行う。

このようなサトウキビの栽培と砂糖の生産がラテンアメリカの各地の植民地で行われていたのである。

ラテンアメリカにおけるスペインとポルトガルの植民地のほとんどは、16世紀初頭から19世紀のはじめまで続いた。しかし、その間は安泰だったかと言うと、そうではない。海洋新興国であるイギリス・フランス・オランダがラテンアメリカに進出してきたのだ。

彼らの最大のねらいは、スペインの植民地のペルーやメキシコで産出されるだった。1545年から1546年にかけてペルーとメキシコで大銀山の鉱脈が発見され、銀の採掘がラテンアメリカ最大の産業になっていたのだが、この銀を海賊行為によって強奪したのである。銀の次にねらわれたのが砂糖で、輸送船がポルトガル船の場合は砂糖がメインターゲットになった。

最初は帆船を派遣して海賊行為を行っていたイギリス・フランス・オランダは、やがてカリブ海の島々を強奪して海賊行為の本拠とするとともに、植民地として開発を行った。イギリスはジャマイカやバルバドス、トリニダード=トバゴなどを、フランスはサンドマング(エスパニョーラ島西部で後のハイチ)やマルティニクなどを、オランダはキュラソーなどをそれぞれ植民地化した。そして、ジャマイカやバルバドス、サンドマングなどでは、砂糖が盛んに生産されるようになるのである。

なお、オランダはポルトガル植民地のブラジルに侵攻し、1635年にはブラジル北東部を占領した。そして、この地で大規模な砂糖の生産を行うようになった。しかし、1654年にポルトガルに奪還されたため、イギリスやフランスのようにカリブ海の島々で砂糖の生産を行うようになった。

イギリス・フランス・オランダのカリブ海の植民地では粗糖までが作られたのち、それが本国に送られて砂糖の精製作業を行うというシステムが構築されていた。精製作業には高度な技術が必要だったからと言われている。

紅茶からコーヒーへ-独立前後の北米の食の革命(11)

2021-10-10 18:47:59 | 第四章 近世の食の革命
紅茶からコーヒーへ-独立前後の北米の食の革命(11)
アメリカ合衆国でお酒以外の飲み物と言えばコーヒーとコーラです。一方、イギリスの代表的な飲み物と言えば紅茶になります。

イギリスの植民地だったアメリカ合衆国では最初は紅茶の方がずっと多く飲まれていました。それが、時代が進むにつれてコーヒーの方がよく飲まれるようになります。

今回はアメリカ合衆国でコーヒーがよく飲まれるようになったいきさつについて見て行きます。



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北アメリカにおける最初のイギリス植民地であるバージニアは、ジョン・スミス船長(1581~1631年)によって1607年に建設された。彼はオスマン帝国を訪れたことがあり、そこでコーヒーに出会い、その虜になったという。そしてバージニアでも入植者たちにコーヒーを勧めたが、広く飲まれるようにはならなかった。イギリスから移ってきた彼らには紅茶の方が良かったからだ。

その後、1668年にニューヨークでコーヒー豆を焙煎し、蜂蜜とシナモンで味付けした飲み物が登場した記録が残っている。1700年代半ばになると、酒場がコーヒーハウスを兼ねることが多くなったが、飲み物は紅茶が主流であった。その頃のコーヒーは高価で、裕福な人だけが飲むものと考えられていたからだ。

しかし、1773年に起きたボストン茶会事件のように、イギリス本国が植民地に課した税金に反発する運動が高まるにつれて、イギリスの文化を否定する動きが強まって行った。その結果、紅茶に代わってコーヒーが少しずつ飲まれるようになって行ったのである。

初代大統領ジョージ・ワシントンはコーヒー豆の貿易を行い、その妻のマーサはコーヒーの淹れ方を研究したという。また、第3代大統領のトーマス・ジェファーソンは、友人に宛てた手紙の中で「コーヒーは『文明世界の飲み物』になるだろう」と発言したことでも知られている。

紅茶からコーヒーへの移行を決定づけたのが1812年から1814年まで続いた米英戦争だ。この戦争は19世紀初頭にナポレオンが一時期ヨーロッパの大半を征服したナポレオン戦争に端を発する。この時フランスと戦ったイギリスは海上封鎖を行い、フランスを始めとするヨーロッパ諸国の貿易を制限した。その結果、アメリカ・ヨーロッパ間の貿易も停止することになり、これに反発してアメリカがイギリスに宣戦を布告したのだ。

この米英戦争によってイギリスからの紅茶の輸入が滞ることになったのだが、ちょうどその頃、ポルトガル植民地のブラジルでは本格的なコーヒーの生産が始まっていた。アメリカは比較的近くから紅茶の代わりのコーヒーを手に入れることができたため、急速にアメリカ国内にコーヒーが広がって行くことになるのである。

ただし、19世紀の半ばまではブラジルにおけるコーヒー生産量はそれほど多くなく、コーヒーの価格も比較的高かったため、コーヒーを飲む習慣が大衆まで広がっていたわけではない。アメリカでコーヒー文化が庶民にしっかり根付くのは、19世紀後半になってブラジルがコーヒー大国化すると同時に、アメリカ国内で2つの大きな出来事が起きてからのことだ。それが「南北戦争(1861~1865年)」と「西部開拓(1860年頃~1890年頃)」だ。

南北戦争ではコーヒーが兵士の飲み物として普及した。特に北軍の兵士は1日に4杯ものコーヒーを飲んでいたと言われている。常に緊張を強いられる戦いの場において、覚醒効果やリラックス効果があるコーヒーが皆に好まれたからだとされている。戦争が終結すると、ホームタウンに戻った兵士たちを中心にコーヒー文化が広がって行った。

また、西部開拓を行った者たちも西部の冷風から体を温めるためにコーヒーをよく飲んでいたと言われる。開拓者たちは非常に貧しかったが、ブラジル産のコーヒーの価格が下がったため、彼らでもコーヒーを飲むことができたのである。

こうして1870年代にはアメリカにおいてコーヒー文化が大衆化したと言われている。

バーボン・ウイスキーの誕生-独立前後の北米の食の革命(10)

2021-10-08 21:47:13 | 第四章 近世の食の革命
バーボン・ウイスキーの誕生-独立前後の北米の食の革命(10)
アメリカ合衆国で造られるウイスキーを「アメリカン・ウイスキー」と呼んでいます。その中でも有名なものが「バーボン(bourbon)」です。

バーボンの特徴の一つは原料にアメリカ大陸原産のトウモロコシを使っていることです。現在のアメリカの法律では、バーボンには51%以上のトウモロコシを使用することが義務付けられていて、残りの原料にはオオムギ・コムギ・ライムギなどが使用されます。

バーボン醸造の最初のステップでは、原料に麦芽(発芽させたオオムギ)と水を加え、麦芽に含まれる酵素でデンプンを糖に分解します(糖化と言います)。そして、この液をろ過して酵母を加えると、発酵によってアルコールが作られます。この時のアルコール度数は高くても10%くらいです。

次に発酵の終わった液を蒸留してアルコール度数が80%以下の蒸留液を作ります。これをアルコール度数62.5%以下に薄めて、内側を焼き焦がしたホワイトオーク製の新樽に詰めて熟成させます。この熟成中に樽の成分が溶け出すとともに、様々な化学反応が起こり、白色透明だった蒸留液が琥珀色に着色され、独特の風味が生まれます。

バーボンはアメリカ独立戦争(1775~1783年)が終了した頃に誕生しました。今回はバーボンの誕生と発展の様子を見て行きます。

【語句解説】ウイスキーについて
ウイスキーとは、穀物を麦芽で糖化させ、発酵・蒸留の後、木製の樽で熟成させて造られる蒸留酒のこと。麦芽だけで造られるウイスキーをモルト・ウイスキーと呼び、それ以外の穀物を使用したものはグレーン・ウイスキーと言う(バーボンはグレーン・ウイスキー)。

モルト・ウイスキーの醸造には単式蒸留器を使用することが多いことから、原料由来の複雑な風味が残った強い個性を持つと言われている。一方、グレーン・ウイスキーの醸造には一般的に連続式蒸留器を使用するため、多くの香味成分が除去されたすっきりとした風味を特徴としている。モルト・ウイスキーとグレーン・ウイスキーをブレンドしたものはブレンデッド・ウイスキーと呼ばれ、コクがありながらも飲みやすいウイスキーだ。

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ウイスキーが最初に造られたのは、スコットランドもしくはアイルランドと言われている。イスラムで発明された蒸留器が15世紀頃までに伝わり、ウイスキーを造り始めたと考えられている。ただし、その頃のウイスキーは薬として使用されていた。それが時代とともに嗜好品としても飲まれるようになって行く。

最初の頃のウイスキーは樽で熟成させずにそのまま飲んでいた。ところが、ウイスキーに重い税がかけられたので、ウイスキーを密造して木の樽に入れて隠したところ素晴らしい風味になったことから、樽熟成が始まったとされる。これは18世紀のことと言われている。

北アメリカのイギリス植民地にはイングランド人に加えて、スコットランド人とアイルランド人(合わせてスコッチ・アイリッシュと呼ぶ)も移住してきた。彼らは主に、中部植民地のペンシルベニアや南部植民地のメリーランドに居住し、農業を営むかたわらライムギなどからウイスキーを造っていた。農地の生産性が高く、余剰の穀物がたくさんあったため、食料として売るよりも儲けが出るウイスキー造りに精を出すようになったという。

アメリカ独立戦争が終わると、戦争の出費から財政難に陥っていたアメリカ政府は1791年に蒸留酒の醸造に税金をかけるようになった。この税金は北部の大規模な醸造所にとっては大したものではなかったが、中南部の小さい醸造所には重くのしかかることになった。これに反発したスコッチ・アイリッシュは1794年に暴動を起こすなどしている。

この暴動は若干の逮捕者を出して鎮圧された。すると、スコッチ・アイリッシュたちは政府の統治が十分でなかった新しい開拓地のケンタッキーテネシーに移住し、そこで誕生していた新しい醸造酒を盛んに造り始めた。それがバーボンだ。

ケンタッキーやテネシーはバージニア植民地やカロライナ植民地の西側に位置し、石灰岩が混じった土壌でトウモロコシが良く育ったことから、既にトウモロコシを使ったウイスキー(コーン・ウイスキー)が醸造されていた。

コーン・ウイスキーを、内側を焼き焦がしたホワイトオーク製の新樽に詰めて熟成させたものがバーボンだが、このようにしてバーボンを最初に造ったのはエライジャ・クレイグという牧師で、1789年のことと言われている。そのいきさつについては、火事で燃えた樽を使ったからだとか、魚を入れた樽が臭かったので火であぶったからだとか、さまざまな話がある。

こうしてバーボンを造り始めて間もないケンタッキーなどに多くのスコッチ・アイリッシュたちが移住してきて、バーボン醸造が盛んになったのである。

ところで、バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」に由来する。アメリカ独立戦争の際にフランスがアメリカに味方したことに感謝して、後に合衆国大統領となるトーマス・ジェファーソンがケンタッキーの一つの郡を「バーボン郡」と名づけた。そして、このバーボン郡で造られるウイスキーの名称としてバーボンが使用され、それが定着したのである。なお、今では醸造する土地には関係なく、合衆国内で法律通りに造られた醸造酒はすべてバーボンと呼ばれる。

さて、バーボンの醸造には一つ問題があった。バーボンの醸造にはライムストーンウォーターと呼ばれるアルカリ性の水を使用する。この水は酵母が好きなカルシウムに富んでいて、嫌な風味の元となる鉄が少ないという特長があるが、アルカリ性のため発酵が進みにくいという欠点があったのだ。

この問題を解決するためにスコットランド人のジェームズ・C・クロウが1823年にサワーマッシュという方法を開発した。これは、蒸留する前の液を残しておいて、次の仕込みの際に少量混ぜる方法のことで、酸性の残液によってちょうど良いpHになるのだ。このサワーマッシュによって良質のバーボンを安定して造ることができるようになった。

なお、ジェームズ・C・クロウにちなんだ「オールド・クロウ」というバーボンがクロウの時代から造り続けられている。このバーボンはマーク・トウェインなど多くの有名人が愛飲したことで知られるとともに、様々な小説や歌曲に登場するなどアメリカ人にとって特別のバーボンである。