MARUMUSHI

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『俳優 亀岡拓次』。

2016-02-01 00:01:45 | 映画日記
『俳優 亀岡拓次』を観て来た。

ヤスケンさんですよ、ヤスケンさん。
奇跡の変態。
根暗なのにハイテンション。
気持ち悪いのにカッコいい。
200mLの牛乳を1秒で飲み干す男。
自在に屁を出せる男。
onちゃんの中の人。
『man-hole(鈴井貴之監督作品)』では、主演で好青年の新人警官を演じていた人。
監督・脚本を担当した『マッスルボディーは傷つかない』とかもやってた人。
ついに、こんな素の姿でスクリーンに!


こう言ってはなんだけれど、これは演技なのか?
安田顕なのか?
亀岡拓次なのか?
境目すら分からない。
それが横浜聡子監督の世界観に溶けちゃってるので、もうどこからどこまでが虚構で現実なのかが不明瞭になってくる。
では、と自分に置き換えてみる。
自分は果たして自分なのか?
それとも自分を演じている自分なのか?
例えば、仕事場にいる自分と、家にいる自分は同じ自分なんだろうか?
自分は自分だけれど、時と場合、場所と雰囲気、内と外で僕らは自分を演じ分けている。
もし、自分が一つしかなければ容易に社会の中で自分は壊れ、あるいは社会自体が構築できなくなるだろう。
人は多面的な生き物。
それはつまり自分を防御するための、ある種の擬態としての、演技なのだ。

人は誰しも”亀岡拓次”。
オーディションを受けたわけでも、プロダクションに属したわけでもない。
カメラはないし、カット!の声もない。
それでも僕は今日も明日も、どれぐらい続くか分からないけれど、僕が終わるときまで僕を演じ続ける。

僕のストーリーはどんな話だろう?
願わくば、それは喜劇の中の演者でいさせて欲しいな。


『残穢』。

2016-02-01 00:01:05 | 映画日記
『残穢』を観てきた。

ホラーというよりもサスペンスに近いかも。
終始、
ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ
と何かに後をつけられているような感覚に襲われる。

穢れ、という感覚は、日本特有の感覚だと聞いたことがある。
呪い。呪詛。
これらも良く似ているけれど、明確に違うのは呪いは方向性が、例えばA→Bのように、あるのに対して、穢れはそれがない。
もっと言えば穢れそのものが一つの意志を持った行動を取る。
一度産まれた穢れは消えない。ただそうそう発生するものでもないだろうけれど。

家、というちょっと独特の婚姻観。
一族から恥曝しが出てはならんと人は見栄を張りたがる。まあ、気持ちは分かる。
でも、過度にそうやって汚れを隠し続けると、家の内にケガレをため込むことがある。
怨みや怒りなどよりも始末におえない、ケガレ。

『恐怖(高橋洋監督作品)』という映画の中では恐怖は明らかな存在を持った物として描かれる。
きっとケガレも存在を持った物なのだろう。しかも意志を持ち、触れる全てを汚していく。

ケガレの対処法はただ一つ。
常にケガレを追い続け、己のケガレを上書きし続ける。
逃げてはならない。目を背けてはならない。
神にも、仏にも、ケガレはどうにもならない。存在なのだから。
恐れおののきながら、見つめ続ける。そして、汚れ続ける。
自分が穢れになる日まで。

さて、物語はなかなか面白い終わりをむかえる。
僕は思う。
久保さん、とは一体誰なんだろう?
彼女が居なければケガレが活動的になることは無かったように思う。
彼女はこのケガレに関わった人物の内、もっとも長くケガレに触れていたはずだ。なのに、彼女はケガレに汚されることはほとんどなかった。

なぜ?

彼女は穢れなんじゃないだろうか。
穢れとして存在し、ケガレを励起させ、触れる全てを汚す。

いやいや、考えすぎだ。彼女は学生でもうすぐ社会人になるただの女性だ。



何にしても穢れなんて物には近づかない方が吉だ。
僕は今のところは関係ない。
良かった良かった。

それにしても、最近、下の階の赤ちゃんの夜泣きが激しい。
元気な子なんだな。
しかも、一人じゃないみたいだ。
いやいや、結構なことじゃないか。。。



2016年01月31日のつぶやき

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