11月19日月曜日
1000人もの大規模校の朝の職員室は、とても忙しい状況です。四月初めの授業前の朝のこと、私が職員室に入っていくと一年生の先生が電話をしている。傍で聞くとはなしに聞いていると「友達がいじめるので学校に行かない」という保護者からの電話である。
そんな筈はないと私は思ったので、先生に電話を切らせ、授業に行かせた。そうして直ぐにその子の家庭訪問をした。その子は母子家庭の子です、家について玄関を開けて驚きました。何と親子三人が未だ、布団の中で寝ているのです。それで母子ともに起こし、子供をみると聞くまでもなく元気でした。
其処で先ず妹を幼稚園に送り、それから小学校に行こう誘いましたが拒否するので、止む無く道端に腰かけて話をしました。
お母さんが子供の頃に母親は、どんな事をしてくれたか聞きました。毎日の学校の弁当の事や、遠足の時のおやつなどについても聞きました。はっきりとは応えませんでしたが、その頃の母親は貧しくとも何とか子供には学校に行かせていた事は理解されました。
そんなことを話しながら「学校だけは行かせましょう。」「私と約束をしましょう。」と言うが母親からの返事はない、いろいろなやり取りの中で「あしたは、必ず学校に行かせますか。」と言うと首を縦に振り頷きました。
毎日学校に行かせる約束出来ない、母親の気持ちが分かるような気がした。明日一日学校に行かせる約束が出来たので、母親と別れ児童を連れて学校は帰りました。
五年生の児童が病気で欠席すると言う電話、これも私が家庭訪問に直ぐ行きました。(この子の場合以前何回かかかわっていたので、ピーンときました。) すると五年生の児童は家で元気で弟の守をしています。子供に問いただすと返事があいまいでした。
其処で弟も車に乗せて、一緒に母親を探しに行きました。子供は知っていると思いました、いましたいましたA店にいました。弟を母親に渡して兄を学校に連れて帰りました。
こんな親達の現状に接して、私はとても辛い思いになります。貧困で救いようのない母子家庭、自分の趣味や遊びの為に子供を犠牲にする不届な親たち。子供の教育権が親の無理解の為に、握り潰されているのです。こんなことは絶対に許されないことです、憲法に書いています断じて許してはいけません。
小さな問題でも午前中から・そして午後は良く校区内に出回り色々な人と話をしました。校区の人は私が校区内を回っていると、何かあったんだと直ぐ分かります。
もう古い古い記憶ですし今校長は、こんなのんびりした事はとても出来ないでしょう。
こんな事をしていると他に多くの大事な仕事があって、処理出来なくてお手上げでしょう。その代りが出来る人を是非校内に、配置して欲しいと思います。
「環境は人をつくる」とか「朱に交われば赤くなる」の諺のごとく、こんな事例がほかにもいくらでもあるのです。
此処には子育てに無理解な親の教育問題、親戚や友人とこれから目を反らす今の地域社会・社会教育の問題・等々の問題の解決が先ずなされるべきです。こんな問題から目を反らして、いじめ問題等だけを取り上げても、本質的な解決はなされ無いと思います。
視野の狭い「浅学菲才」な一教育者の僅かな経験をもとにした、独断と偏見を一つの私見としてお聞きください。
ある日六年生の保護者が、児童を伴って相談に来ました。それで話を聞いてみると「五年生の児童から、殴られたので仕返しをしていいか」と言う六年生からの相談である。
これを放置すると、殴られた児童は目に見えない侮辱を受ける・又は一種の「いじめ」に進む事も考えられる。それを阻止する為の相談である。其の訳は「五年生から殴られる」と言う事は六年生にとって侮辱である。若しこれが皆に知れ渡ったら、下級生からも舐められるわけである。
これは体験した人にだけ,分かる惨めさである。其処で両方の担任を読んで其の対処について話し合った。その結果五年生の児童を読んで継続して指導することにした。
此の問題は指導者が,六年生の児童の気持ちを,「どの様に理解し把握しているか」によって対応の仕方が変わるのである。
教師たるべきは、弱い立場の人の気持ちを速やかに、しかも適格に把握することが出来なければならない。その上に立って指導を適切に行う事である。いじめは、「体の大小や、見かけの柔軟に非ず」見えない心の世界を見抜く慧眼が必要である。
心の世界を見抜く慧眼のない教師には「いじめ」を防ぐ事は出来ない。まして事件が浮上したのに、指導者の側が「いじめではない」と勝手な判断をして対処しない事は「教育を放棄することである」これは教育以前の問題であると私は考える。
1000人もの大規模校の朝の職員室は、とても忙しい状況です。四月初めの授業前の朝のこと、私が職員室に入っていくと一年生の先生が電話をしている。傍で聞くとはなしに聞いていると「友達がいじめるので学校に行かない」という保護者からの電話である。
そんな筈はないと私は思ったので、先生に電話を切らせ、授業に行かせた。そうして直ぐにその子の家庭訪問をした。その子は母子家庭の子です、家について玄関を開けて驚きました。何と親子三人が未だ、布団の中で寝ているのです。それで母子ともに起こし、子供をみると聞くまでもなく元気でした。
其処で先ず妹を幼稚園に送り、それから小学校に行こう誘いましたが拒否するので、止む無く道端に腰かけて話をしました。
お母さんが子供の頃に母親は、どんな事をしてくれたか聞きました。毎日の学校の弁当の事や、遠足の時のおやつなどについても聞きました。はっきりとは応えませんでしたが、その頃の母親は貧しくとも何とか子供には学校に行かせていた事は理解されました。
そんなことを話しながら「学校だけは行かせましょう。」「私と約束をしましょう。」と言うが母親からの返事はない、いろいろなやり取りの中で「あしたは、必ず学校に行かせますか。」と言うと首を縦に振り頷きました。
毎日学校に行かせる約束出来ない、母親の気持ちが分かるような気がした。明日一日学校に行かせる約束が出来たので、母親と別れ児童を連れて学校は帰りました。
五年生の児童が病気で欠席すると言う電話、これも私が家庭訪問に直ぐ行きました。(この子の場合以前何回かかかわっていたので、ピーンときました。) すると五年生の児童は家で元気で弟の守をしています。子供に問いただすと返事があいまいでした。
其処で弟も車に乗せて、一緒に母親を探しに行きました。子供は知っていると思いました、いましたいましたA店にいました。弟を母親に渡して兄を学校に連れて帰りました。
こんな親達の現状に接して、私はとても辛い思いになります。貧困で救いようのない母子家庭、自分の趣味や遊びの為に子供を犠牲にする不届な親たち。子供の教育権が親の無理解の為に、握り潰されているのです。こんなことは絶対に許されないことです、憲法に書いています断じて許してはいけません。
小さな問題でも午前中から・そして午後は良く校区内に出回り色々な人と話をしました。校区の人は私が校区内を回っていると、何かあったんだと直ぐ分かります。
もう古い古い記憶ですし今校長は、こんなのんびりした事はとても出来ないでしょう。
こんな事をしていると他に多くの大事な仕事があって、処理出来なくてお手上げでしょう。その代りが出来る人を是非校内に、配置して欲しいと思います。
「環境は人をつくる」とか「朱に交われば赤くなる」の諺のごとく、こんな事例がほかにもいくらでもあるのです。
此処には子育てに無理解な親の教育問題、親戚や友人とこれから目を反らす今の地域社会・社会教育の問題・等々の問題の解決が先ずなされるべきです。こんな問題から目を反らして、いじめ問題等だけを取り上げても、本質的な解決はなされ無いと思います。
視野の狭い「浅学菲才」な一教育者の僅かな経験をもとにした、独断と偏見を一つの私見としてお聞きください。
ある日六年生の保護者が、児童を伴って相談に来ました。それで話を聞いてみると「五年生の児童から、殴られたので仕返しをしていいか」と言う六年生からの相談である。
これを放置すると、殴られた児童は目に見えない侮辱を受ける・又は一種の「いじめ」に進む事も考えられる。それを阻止する為の相談である。其の訳は「五年生から殴られる」と言う事は六年生にとって侮辱である。若しこれが皆に知れ渡ったら、下級生からも舐められるわけである。
これは体験した人にだけ,分かる惨めさである。其処で両方の担任を読んで其の対処について話し合った。その結果五年生の児童を読んで継続して指導することにした。
此の問題は指導者が,六年生の児童の気持ちを,「どの様に理解し把握しているか」によって対応の仕方が変わるのである。
教師たるべきは、弱い立場の人の気持ちを速やかに、しかも適格に把握することが出来なければならない。その上に立って指導を適切に行う事である。いじめは、「体の大小や、見かけの柔軟に非ず」見えない心の世界を見抜く慧眼が必要である。
心の世界を見抜く慧眼のない教師には「いじめ」を防ぐ事は出来ない。まして事件が浮上したのに、指導者の側が「いじめではない」と勝手な判断をして対処しない事は「教育を放棄することである」これは教育以前の問題であると私は考える。