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「環境は人をつくる」とか「朱に交われば赤くなる」の諺のごとく、こんな事例がほかにもいくらでもあるのです。


視野の狭い「浅学菲才」な一教育者の僅かな経験をもとにした、独断と偏見を一つの私見としてお聞きください。
ある日六年生の保護者が、児童を伴って相談に来ました。それで話を聞いてみると「五年生の児童から、殴られたので仕返しをしていいか」と言う六年生からの相談である。
これを放置すると、殴られた児童は目に見えない侮辱を受ける・又は一種の「いじめ」に進む事も考えられる。それを阻止する為の相談である。其の訳は「五年生から殴られる」と言う事は六年生にとって侮辱である。若しこれが皆に知れ渡ったら、下級生からも舐められるわけである。
これは体験した人にだけ,分かる惨めさである。其処で両方の担任を読んで其の対処について話し合った。その結果五年生の児童を読んで継続して指導することにした。
此の問題は指導者が,六年生の児童の気持ちを,「どの様に理解し把握しているか」によって対応の仕方が変わるのである。
教師たるべきは、弱い立場の人の気持ちを速やかに、しかも適格に把握することが出来なければならない。その上に立って指導を適切に行う事である。いじめは、「体の大小や、見かけの柔軟に非ず」見えない心の世界を見抜く慧眼が必要である。
心の世界を見抜く慧眼のない教師には「いじめ」を防ぐ事は出来ない。まして事件が浮上したのに、指導者の側が「いじめではない」と勝手な判断をして対処しない事は「教育を放棄することである」これは教育以前の問題であると私は考える。