82歳からの旅

私の記録

東本願寺に「母の納骨を」妹と二人で

2012年11月27日 15時34分09秒 | 日記
             11月27日火曜日   
 古い記録より 母の33回忌も終えて、二年の月日が経過した、今年母が生きていたら百年の節目の年である。

 私は母が30歳の時に生まれた子です、今年の5月に古希を迎える歳になります。私は自分の年を数えるときに、30を足して母の歳を数える癖が幼い時からついていた。それは母が30歳の時に、私が生んでくれたからです。こんなに解りやすく産んでくれた、父母に感謝の気持ちで一杯です。本当に生んでくれて有難う。

 そんな思いを込めて、弟妹に出す年賀状に添え書きを一言つけ加えていた。年が明けると妹の一枝から電話があり、その内容は母からの手紙を読み直しながら何か計画しようと言う事だった。

 其のうちに「親鸞聖人御旧跡参拝奉仕団を募集」4月11日~13日真宗本廰(東本願寺)同朋会館主催に・参加しませんか?と電話があった。その折に「母の納骨もしたら如何かね」と言ってきた。
 
 母は熱心な仏教信者で、生涯のうちに京都の本願寺にお参りするのが夢であった。然し小作農家で6人の子供を育てては,とても出来ないことです。その上4人の子供を高校まで、日夜働いて行かせてくれたのです。
 私と妹は生前母が叶えなかった夢を、せめて納骨だけでもと参加する事にしました。「お母さんが京都に行くので、私と妹が一緒に行きますよ・お父さんも一緒に」そんな気持ちで・・・

 いよいよ4月になってから、山口に行って義姉に納骨の話をしました。妹は生前母に十分な事をして上げられなっかったので、私にさせて下さいと言った。「お父さんの納骨は?と言ったので、今回はとりあえず母の納骨のみで話をまためました。父のお骨は、義姉と恭介(兄の長男)と話し合って決めて貰う事にした。
 付け加えその後父の納骨は、私がし妹と一緒に納骨に行きました。
 

 それから墓場に行き先祖の墓にお参りをして、分骨をして妹が持ってきた骨壺に分けて入れた。いよいよ出発の日が迫って来たので、4月9日に妹の家で細部を打ち合わせて参加した。

 本会の奉仕団に参加して見ると、初参加の私にとっては可なり厳しいものでした。100名余りの会員が3日間、共同生活をするのです。北は北海道から南は沖縄までの参加者で、部屋の掃除から炊事の世話までするのです。

 でも何となしに楽しい日日でした、参加に当たって父母の写真を抱いて一緒に来ているからです。父母の供養ではなく父母について、私と妹が本山の奉仕団に参加しているのだから。

 父母が死別して35年も経っている今、私と妹の胸に抱かれて本願寺の、奉仕団で奉仕しているのです父母は本当に喜んでいると思います。  
 「武ちゃん足の悪い母ちゃんまで,連れて来てくれて済まんねえ、お金もだいぶんかかったでしょうに」 

 「あんた嫁さんには何も言わんで、京都まで行かせてくれたんかね」帰ったら嫁さんに私から済まんと言っていたと忘れんように言っとくれよ」「良いかね分かったかね、良いかね。」

 分かった 分かったよ・・妹の一枝がお金を出してくれたので、心配せんでもいいのよ。「本当かねでも嫁さんにはちゃんとお礼を言っとくれよ良いかね武ちゃん」こんな会話を何回も、何回も繰り返し繰り返しして今日本願寺まで辿りついたのよ。

 有難いこと 有難いこと 私はこんな良い子を持って、勿体ない・もったいない罰が当たる、なあ武ちゃん済まんねえ、嫁さんにはちゃんとお礼を忘れんように言っとくれよ。そんなことを言わんでも分かっとるけもう言いなさんな。

 「武ちゃん朽網の姉ちゃんは元気にしとるかね、姉ちゃんは元気だから心配戦でもいいよ。」と 本当は「おと年の五月に病気で、亡くなったのです.」兄も亡くなりましたが知らせませんでした。

 死ぬ前の日の夕方病院にお見舞いに行って、姉ちゃんと話もしたんよ。登美子は何歳まで生きていたかね「姉ちゃんは死ぬ前の日に山口の実家に行った夢を見たそうです、家の前には一杯きれいな花が咲いてとてもきれいだったそうです、と嬉しそうに私に話してくれました。その話をした次の日の朝急に悪くなって私も病院まで行きました。そうして少し話しましたよ。兄の信ちゃんは・・こんな事を母は聞いたと思ます・・・
     ・・・・・中略・・・・・
12年前の古いノートの記録にあったのをブログに、こんなことを書くのは悪いかなとも思いながら・・