えつこのマンマダイアリー

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新聞記事より ~憲法学者に訊く ー立憲主義とは?ー ~

2015年01月26日 | 雑記

 1月24日付の東京新聞朝刊より、「考える広場」という紙面に掲載された立憲主義についての特集記事を紹介します。憲法学者の東大法学部教授 石川健治氏に、同紙の論説委員がインタビュー形式で話を聴いた内容です。少し長いですし、舌を噛みそうなややこしい部分もありますが、よく読むととてもわかりやすい内容なので、そのまま全文を引用します。
 聞き手の論説委員が記す前文に、対談の内容が続いています。

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立憲主義が危うい中で  専制的な権力あらわ

 憲法の基本原理である立憲主義がこれほど危うい時代はありません。安倍晋三政権は昨年、集団的自衛権の行使容認を決定しましたが、そもそも一政権の閣議で決められる性質のテーマなのでしょうか。安全保障の名の下で、憲法改正へと向かっていきそうな空気です。憲法学者の石川健治東京大教授と考えます。 (聞き手・桐山桂一)

 桐山 衆院選で与党が3分の2を超える勢力を確保しました。衆院では憲法改正の発議要件が整ったわけですね。安倍首相は「公約でも憲法改正に取り組むことを明記している」と述べました。やはり改憲への道を進んでいきそうです。
 石川 憲法改正が安倍首相の悲願であることは、よく知られたことです。ただ、それを実現するためには手段を選ばない点に危うさがあります目的を達成するためなら手段を選ばないのは専制主義です。
 これに対し、仮に正しい目的であったとしても目的は手段を正当化しないと考えるのが、立憲主義の思想その手段・手続きが重要です。憲法改正という本当の目的を争点に立てないで総選挙を勝ち抜くことは、政治の戦略としては正しくても、その権力は「反立憲主義」だと自白しているようなもので、基本姿勢自体に危惧を抱かざるを得ません。

 桐山 明治政府も立憲主義を採用しました。戦前は天皇が主役の立憲君主制、戦後は国民が主役の立憲民主制ですね。
 石川 戦前の立憲主義は立憲君主主義と同義でした。より正確には、立憲主義の土俵の上で、君主主義を軸に官僚主義、軍国主義などの立場やそれらの担い手となる勢力が、多元的に競合し合っていました。しかし、その中で、軍国主義が立憲主義のブレーキをはずしてしまった。民主主義の方が立憲主義をより良く実現できるという立場の戦後憲法が、同時に平和主義を選択したのには理由があります。
 桐山 人間とは愚かなもので、ナチス・ドイツにも熱狂した歴史があります。主役といえども、「民意がすべて」なのでしょうか。民意がすべてなら、それも絶対的民意という専制主義になるのではないでしょうか。
 石川 歴史的局面によって、絶対君主主義に対抗する立憲主義もあれば、絶対民主主義に対抗する立憲主義も考え得るわけです。「民意がすべて」というのは絶対民主主義です。君主的な権力であれ、民主的な権力であれ、あらゆる専制権力に対抗するのが立憲主義の基本です。立憲主義は局面に応じて多様な現れ方をしますが、専制権力に対抗して自由を確保するという一点ではぶれません
 主権とは絶対権力のことを指すのですね。民主主権というのは絶対王政の論理です。立憲君主主義は、これに歯止めをかける局面での立憲主義でした。同様に、国民主権の場合は、国民が絶対的だということですから、文字通りに実現すれば絶対民主政になります。これに対して、立憲民主主義は「それは本当に良き民主主義なのか」と問うわけです。
 立憲主義で憲法を作ったことは、民意といえども絶対でないことを意味します。民意がある方向に突き進もうとしているときに、これに阻むように仕組んであるのですね。日本国憲法もそうです。三権分立はそのわかりやすい例です。また、憲法の前文を素直に読めば、憲法の三大原理のなかでも、基本的人権が国民主権や平和主義より優先する形で書かれている。ですから、民意は絶対ではありませんし、基本的人権は多数決では奪えないのです。

 桐山 自民党憲法改正草案は「個人の尊重」の「個人」を単なる「人」に変えていますこれでは自由意思を持つ個人の権利保障を目的とする立憲主義の根本が侵されてしまいます。近代憲法とは思えません。
 石川 もっと滅私奉公する国民をつくりたいのでしょう。現行の憲法を嫌う人はとにかく憲法を倒したいと、いたずらに憲法を敵視しています。しかし、日本国憲法は、日本社会に立憲主義を実現するという点では、おそらくこの形でしか実現しなかっただろうと思われる決定打でした。
 1950年代の改憲イデオロギーを、当時よりももっと空疎に語る人々によって、戦後憲法もろともに立憲主義そのものを捨ててしまいかねない言論が繰り返されている点を、私は最も危惧しています。
 桐山 安倍政権は96条の憲法改正手続きをまず改めようとしました。内閣法制局長官の首もすげ替えました。
 石川 ルールを壊してから進むという政治手法自体が反立憲主義的です。とにかく議論を立憲主義の軌道に乗せてもらいたい。その上で、平和主義が今の日本に必要かどうか、これは別の議論です。ただ私は、9条抜きにして日本の立憲主義は成り立たなかったという点に注意を促したい。特定の権力の暴走を止めるのが立憲主義だとすれば、軍事力の拡張を阻もうとする、9条2項の戦力不保持条項の存在は戦後日本に欠かせなかったと思います。

 桐山 集団的自衛権の行使容認は大きな転換ですね。
 石川 一世紀前までの世界の主流は、特定の敵を想定して攻守同盟をつくり、抑止力を働かせて戦争を防ぐ政策でした。しかし、第一次世界大戦を防げなかった。
 その反省に立つのが「安全保障」という考え方で、「同盟」とは異なり特定の敵を想定しません9条はこの流れの延長線上にあります。国際連盟以来の「集団的安全保障」体制が、その本来のあり方です。
 ところが第二次大戦後の国際連合憲章に挿入された「集団的自衛権」の規定には、旧来の「同盟」政策の復権としての側面があり、敵を想定せざるを得ない構造があります日米安全保障条約は、二国間の条約ながら額面上は「安全保障」を目的としますが、次第に特定の仮想敵を前提とする日米「同盟」としての実質を強めていきます
 しかし、「同盟」政策のなれの果てである集団的自衛権については、その行使を放棄することで、かろうじて「安全保障」条約としての建前が維持されてきました。また、個別的自衛権は、不意の侵入者に対する例外的な正当防衛の問題ですので、9条とは別筋だという理屈が、成り立たないわけではありません。
 そうして首の皮一枚でつながっていたにもかかわらず、集団的自衛権の行使を認めると、東アジアに「敵」をつくると同時に名実ともに「同盟」条約になった日米安保条約は、いよいよ9条の想定と正面衝突することになります。

 桐山 閣議決定という手段そのものが、立憲主義の観点から決定的に問題があると思います。
 石川 「かつて政府が決めたことなのだから、それを政府が変えて何が悪い」といわんばかりの論調が支配的でした。しかし、「自分が契約したことなのだから、いつでも契約を破る自由があるはずだ」といって、契約を破ることが認められるでしょうか。それは契約社会のルールに反します
 同様に、政府が変えないという含意をもって約束したことは、政府限りで変えられるわけではなく、より高次のルールによらねばなりません。それが立憲主義の発想です。憲法改正のように具体的な定めはありませんが、それに準ずる手段を考えるべきだったし、同じ衆議院を解散するなら昨年6月にすべきだったでしょう。
 大望を実現するためには手段を選ばず、ルールを一つずつ壊しながら進める安倍政権の姿勢には、立憲主義が対抗すべき専制的な権力の姿があらわになりつつあります。従来の護憲・改憲や保守・革新や右翼・左翼の対立を超えた、立憲・反立憲の政治的亀裂が日本の統治システムに生じていることを、強く懸念しています。

  立憲主義 

権力は暴走する危険をはらんでいる。だから権力を縛る鎖が
必要だという発想が同主義。
フランス人権宣言16条は必須事項として、「権利の保障」と
「権力の分立」を挙げ、国家がいたずらに権力を振るい
国民生活に介入しないようにしている。
先進諸国では、権力ができることとできないことを成文の憲法で
定めるのが普通だ。

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 (文中の太字化はブログ管理人によります。)
 
 
 主権が君主にあれども、国民にあれども、その主権者を常に牽制するのが立憲主義であり、個人の基本的人権を最優先して保障するのが立憲主義であるわけですね。そして、自民党の改憲草案では、立憲主義の根幹が崩れるということですね。ということは、安倍政権を支持することは、自らの基本的人権を放棄することになりかねないということですよね...。
 
                                            
 
 日本人が「イスラム国」と見られる組織に拘束されている事件では、最悪の事態へと展開しつつあり、「イスラム国」への憤りを禁じ得ないのはもちろんですが、私は安倍政権にも憤りと疑問を感じます。

 安倍首相はこの事態に対し、「言語道断。許しがたい暴挙」だと非難し、自政権が中東諸国に行うといっている支援は軍事目的ではなく、あくまでも人道支援だと言っています。確かに、それは紛れもない事実ではあるでしょう。でも、それを「イスラム国」が曲解し利用したのは、安倍政権が歩んできた道のりとこれから歩もうとしている道のりが、「強権に基づく、潜在的な武力行使のきな臭さ」を漂わせているからではないでしょうか? 
 「武力行使はしていない」と言いつつ、武器輸出を解禁している。自分が行使していないというだけで、他人が行使することを支援しているのです。そして、憲法9条がありながら、ここ数年の日本の軍事費は鰻上りに増え、今や世界5位の数字(SIPRI:ストックホルム国際平和研究所の2012年の年鑑によります)。さらに改憲をもくろみ、9条のタガを外そうとしている。世界で唯一の「被爆・被曝体験国」でありながら、非核地帯ではないのみならず、民意を無視して原発を再稼働しようとしている。これらの自己矛盾を彼らに突かれているとは考えないのでしょうか?
 「積極的平和主義」「地球儀を俯瞰する外交」の名の下、各国を歴訪している。その裏には、武器や原発を売らんとする潜在的な目的があることを、彼らに見透かされているとは考えないのでしょうか?
 安倍首相の代表的詭弁である「積極的平和主義」が、ヨハン・ガルトゥング氏が最初に提起した「積極的平和」の概念とは根本的に異なるということを、彼らが知らないとでも考えているのでしょうか?
 集団的自衛権の行使容認を、民意を無視して閣議決定し、時の政権の解釈で行使できるようにした上、特定秘密保護法の制定により、政権が都合よく情報を秘匿できるようにした。この強権性と、アメリカとの同盟強化の姿勢が、武力行使をしているアメリカと同列視される引き金になっているとは考えないのでしょうか? 

 安倍政権がこれらの自己矛盾に気づいていないはずはないでしょう。ただただ無視しているという厚顔ぶり、傲慢ぶりが、私には腹立たしくてならないのです。
 そして、情報収集に長けているといわれている「イスラム国」に、安倍政権の本質が見透かされ、姿勢が試されている気がしてなりません。つまり、安倍政権の今までの動きに、日本人がテロリストの標的になることを誘発する要因と隙があったのではないか、私にはそう思えて、そのことに憤りを感じるのです。安倍首相が果たして「イスラム国」を一方的に非難できるかどうか、大いに疑問を感じるのです。
 
 さらには、先の衆院選で、自民党に「ノー」を突きつけた沖縄県民を除き、少なからずの国民が安倍政権の続投を促したことも、今さらながら残念でなりません。安倍政権を選んだ国民が、同じく「イスラム国」を一方的に非難できるでしょうか? 安倍政権とともに日本国民もが、「イスラム国」のみならず世界から試され続けていると受け止めるべきだと私は思います。
                                                    (as of 9:00 am, Jan 26)
 
 
 また冗長になってしまいました。ごめんなさいm(__)m
 
 

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