えつこのマンマダイアリー

♪東京の田舎でのスローライフ...病気とも仲良く...ありのままに、ユーモラスに......♪

広島旅行(3) ~呉 母の軌跡を辿って~

2007年11月20日 | 旅行
 私の母は、16歳のとき太平洋戦争のための学徒動員で、呉市の広という町で飛行機の部品を作らされていました。第11海軍航空廠で過ごした月日は空襲との戦い、そして友人や仲間を失うという哀しみとの闘いでもありました。原爆のきのこ雲を目撃し、命からがら終戦を迎えたのも広の地でした。
 母は、自分の戦争体験を決して自ら語ろうとはしてきませんでした。特に広での出来事は封印しておきたい部分なのでしょう。今の子どもたちに戦争体験を語ってほしいと要請があっても、「とてもじゃないわ...涙が出てきて語れないわよ」と申しております。
 そんな母の代わりに、母の心の残る広という町を、母の心の軌跡を辿るために訪れました。
  (★画像をクリックすると、大きい画像や別の画像が見られます。)

  辿 

<広町>

 「工廠神社」 海軍工廠と第11海軍航空廠で殉職 or 戦死した人の霊が祀られています。母の友人や仲間の霊も...。

 この辺り一帯は山を掘って作られた防空壕でした。母たちの命を救ってくれた防空壕です。今はコンクリで埋められています。母が95年に訪れたときには、フェンスで囲われているだけで埋め立てられてはいなかったそうです。

 現在は産業技術総合研究所。当時の海軍工廠の塀がそのまま残されています。    

 黄幡山(おうばんやま)弾薬庫。米軍が管理、現在も弾薬庫として使われています。

 当時海軍工廠にいたという、母より1つ年上のおばあさまがいました。

 現在は王子製紙の敷地内。当時の海軍工廠の門がそのまま保存されています。 

 休山(やすみやま)。きっと母たちが眺めていたに違いない近くの山です。

 大空山の中腹より瀬戸内海を臨む。天気次第では、四国が見えるそうです。

 王子製紙の煙突が見えます。

     大空山の山頂に残る弾薬庫。
 大空山は瀬戸内海を一望でき、戦国時代は拠城でした。明治に入ると軍用地として山上に砲台が築かれ、太平洋戦争時は高射砲陣地となり、一般の登山は禁止されていました。「砲台山」という異名はこれに由来します。

 展望台からの眺め。周辺の山々の山頂にも砲台が置かれ、母は実際にアメリカ軍を高射していたのを見ていました。

 同じく展望台からの眺め。

    同じ砲台を別の場所から写した2枚。

<呉市>

    戦艦大和の優れた技術や平和の大切さを訴える「大和ミュージアム」




      

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