えつこのマンマダイアリー

♪東京の田舎でのスローライフ...病気とも仲良く...ありのままに、ユーモラスに......♪

旅の雑感(2) ~呉~

2007年11月21日 | 旅行
 母の学徒動員先だった呉市の広町は瀬戸内海と山に囲まれ、現在はこじんまりとした穏やかな街です。戦時中に海軍工廠があったことから、米軍の空襲の標的にされ、何度も空襲を受けました。現在も敢えてその爪痕の一部が保存されています。先に写真でご紹介したように、あちこちに防空壕の痕があり、街を囲む山々の頂には砲台や弾薬庫が今も残されています。また、62年経った今でも、当時の軍需産業の名残があるようです。

 大都市として繁栄し、あまりにきれいに整備されて穏やかに感じられた広島市に比べ、戦争の名残が感じられる広町での方が胸に迫るものがありました。母がここで辛い体験をしたのだという先入観が強かったからでしょうか...。どこか淋しいような不気味なような...街全体にそんな静けさを肌で感じたのです。埋め立てられた防空壕の上に立ったときは、寒気がするようでした。母の命を救ってくれた防空壕でもあり、母の友を救えなかった防空壕でもあるからかもしれません。
 弾薬庫の残る大空山の頂から、日にきらめく穏やかな瀬戸内海を見渡したとき、光景が穏やかであればあるほど、戦争の残した人々の哀しみが胸に迫ってくるようでした。

 ここでは、「呉戦災を記録する会」の代表者と会いました。この会は当時の客観的な史実を集めて記録していこうとしている会で、代表者のA氏は元高校の社会科教員だけあり、客観的で冷静な視点で史実を見つめていらしたようにお見受けしました。
 ちなみに、アメリカの一般的な公文書は30年経つと一般に公開されるようですね。ゆえに、米軍の当時の資料が手に入るわけですが、一方呉では、敗戦直後資料をほとんど焼却処分にしたので、客観的な記録があまり残っていないのだそうです。それを補うために、A氏始めこの会の方々が客観的な史実を後世に残そうと尽力されてきたようです。

 A氏の話の中で印象的だったことを記してみます。
 1つめは、米軍の残している呉や広町の詳細な資料です。当時の技術力をして非常に精密な航空写真を手に入れ、それに基づき空襲をしかけてきていたのですから、ひとたまりもなかっただろうという思いを強く持ちました。これは呉や広島だけに限らず、太平洋戦争全般に言えることだと思います。要は、「勝ち目がなかった」ことが火を見るより明らかだったことを感じたのです。

 2つめは、アメリカの空襲の標的の優先順位です。①戦艦大和(沖縄に移動するのを妨げる目的) ②広の海軍工廠 ③呉の海軍工廠 ④港に残った軍艦 の順だったそうです。それを考えると、広町の受けた空襲の激しさが想像され、母はよく生き残ったものだと改めて思いました。実際、呉は全国で5番目に空襲の多かった都市だそうです。
 母と友人はグラマンの空襲から逃れるために防空壕へひた走る途中、逃げ疲れて「もう死んでもいいや...」と諦めて走るのを止めたことがあったそうですが、そのときに「親からもらった大事な命だろう、早く防空壕へ入れ」と促してくれた下士官は、その直後母たちの目の前で命を落としました。「私たちのせいで死んじゃったのかも...私たちがもっと早く逃げていれば...」と、今でも母は涙ながらに話します。

 3つめは、A氏の感じている被爆者の平和運動の限界についてです。広島の被爆による平和運動の特徴として、一般戦災による平和運動に対して排他的であること、溝があって横のつながりが薄いことを問題として提起されていました。同じ戦争で受けた戦災なのに、被爆体験があまりに大きな出来事だったからなのでしょうか......?

       

 大空山の頂で、蒼穹に映えたナンキンハゼの紅葉が印象的でした。落ち葉を拾って持ち帰りました。
          (それぞれ裏画像あり)
 ナンキンハゼといえば、4月の初めまでこの実の正体がわからず、このブログの記事♪この実なんの実気(木)になる実!♪で尋ねたところ、ある読者が「ナンキンハゼでは?」と教えてくださったのです。
 今回この実をつけた美しい紅葉の姿を見ることができ、とても感動したので、葉をしおりにして母にあげました。

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9 コメント

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自分の父も呉におりました (フランツ)
2017-10-10 13:38:11
えつこ様
突然の書き込みで失礼いたします。偶々ブログを拝見いたしました。お母様が、当時、呉の第十一航空廠のおられた記事を拝見しました。
自分の父は、呉海軍工廠造機部と云うエンジン部門の部署でした。平成24年8月から、父の遺した集合写真に基づいて、父の呉の足跡を調査して、一冊の本に纏めております。題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」(自費出版 非売品)です。
東京は、区立図書館13か所、あきる野市、町田市、日野市に登録されております。
最新版は、第4版ですので、可能であれば、是非第4版をご覧になってください。

当時の学徒動員の皆様の手記も記述しております。
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フランツさんへ:お知らせに感謝いたします (takuetsu@管理人)
2017-10-13 22:03:04
フランツさん、初めまして。お返事が遅れて申し訳ありませんm(__)m
10年も前の記事にコメントをお寄せくださり、ありがとうございます。記事を書いていてよかったと、改めて感じております。

そうですか、お父様の足跡をまとめられ、しかも改訂を重ねていらっしゃるのですね。頭が下がります。
明日、地元の図書館に行って、町田市に所蔵されているものを取り寄せてもらおうと思っています。

「旅の雑感(1) ~ヒロシマ~」
http://blog.goo.ne.jp/takuetsu1958/e/67d823877d9469ad962cc78a8a22a5a4
で記しましたが、母の体験は妹が『ピンク色の雲 おばあちゃんのヒロシマ』という絵本に著しました。こちらもよろしければご覧くださると嬉しいです。
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フランツさんへ:拝読しました! (takuetsu@管理人)
2017-11-05 09:59:15


フランツさん、連絡が遅くなりましたが、ご著書を拝読しました。
町田の図書館の第4版を回してもらいました。貸出期間が短い上、延長購読ができないのが残念でしたが、妹とともに拝読、必要箇所は記録させていただき、母にも見せました。

母によると、母の女学校の場合は、母たち上級生が広に、下級生が呉にいたとのことです。呉の方に母の同窓生の名があったので母に訊いたところ、「下級生だから名前を知らない」との返事でした。

調査した記録だけを残すのではなく、その過程とそれにまつわる事実をも併せて納めるという、フランツさん(この名の由来にも、ご著書を読んで合点がいきました)ならではのスタイルに興味を持ちました。フランツさんの人柄が端々から感じられ、とても人間味のある素敵なご著書だと思います。

それにしても、1枚の写真から短期間に、よくもこれだけの資料を集められましたね。フランツさんや関わられた人々の「伝えたい、残したい」熱意の賜物だと思います。気持ちを持って行動すれば、これだけの結果につながるのだということですね。とても励まされました。

一次資料に当たる大切さも実感しました。ネットで調査が簡便になった分、一次資料に当たる機会を却って逃してしまっている面があるように思います。
また、ネットのない時代と比べると、一般的な情報はネットで簡単に得ることができるようになりましたが、個人情報は格段に得にくくなっていますよね。フランツさんもその困難さをご著書でつぶやいていらっしゃいましたが…。その障壁をものともせず、熱意で乗り越えていらした様子が伝わってきました。すばらしいです。

父も、中国での体験記(『死闘 天宝山―日中戦争深発掘』 )を出版した後、関係者から種々の新たな情報を得ることができ、改訂版を出しました。もう故人となってしまったので2版で終わりましたが、フランツさんはずっと進化していくかもしれませんね。今後のご活躍にも期待しております。

長くなってごめんなさいm(__)m 
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Unknown (フランツ)
2020-10-19 10:09:47
えつこ様
丁重な返信を頂きましてありがとうございました。
ちょっとした手違いで、ブログを見ずに時間が過ぎてしまいました。
町田市の蔵書も御覧になって頂いて、本当にありがとうございました。
第4版発行以降も調査は継続しており、父と一緒に働いていた集合写真の隣に写っていた方のご家族ともコンタクト出来ました。
今は、2世の方々もブログに書いており、ネット上の繋がりも出来てます。youtubeに、「第十一海軍航空廠 徳島フォーカス」と検索すると当時の年少工の方の体験記を見ることが出来ます。
是非ともご覧下さい。さて、第5版を制作したいと思ってますが、そろそろ○○じのご利益に期待しております。😀
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フランツさま:ご無沙汰しておりますm(__)m (takuetsu@管理人)
2020-10-20 22:40:52
フランツさま、久方ぶりにコメントを入れてくださり、ありがとうございますm(__)m

あれから3年が過ぎてしまったのですね。
でも、フランツさまは着実に前進していらっしゃったことと拝察します。

検索していたら、Enoさまのブログも目に入り、フランツさまとやりとりなさった様子が垣間見えました。
こうしてブログでつながる不思議なご縁を、改めて感じております。

第5版を上梓されたら、またご連絡くださいませm(__)m
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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Unknown (フランツ)
2020-10-21 07:03:21
えつこ様
お元気で何よりです。なるほど・・enoさんのブログも貴重なブログで、最初は、enoさんのお父様の漠然とした情報が明らかな情報となりました。また、呉海軍工廠から昭和20年6月に出征された方の御子息が、お父様の日章旗に認められたサインから、小生の本の人物を見つけ出す❗と云う奇蹟的なエピソードもありました。さらに、山口県の当時の女学生の方が、10年前に急に呉に行きたくなり、行ってはみたものの自分の作業エリアが分からず、ガッカリして帰った・・との事。偶々、小生と話す機会があり、小生の本を御覧になって頂き、自分の作業エリアが良く分かった・・と喜んで頂きました。その時の言葉「あなたの本を読んで、本当にスッキリしました」と・・。こうした自費出版本でも役に立つこともあるんですね。とにかく、呉の話題だと、大和の話が取り上げられますが、それはそれとして、自分は、大和亡き後の呉の話の記録が、あちこちに散逸しているので、その当時の人々の話を纏めていこうと思っております。
寒くなりましたが、お元気でお過ごし下さい。
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フランツさま:三度ありがとうございますm(__)m (takuetsu@管理人)
2020-10-24 18:25:05
フランツさま、返信ありがとうございますm(__)m
コメントが遅れて申し訳ありません。

ご著書がいろいろな場所で奇跡の出会いを広げているようですね。すばらしいです。
今後もいろいろな出会いがありますように。

くだんの父の著書や妹の著書を通じ、やはりいろいろな出会いがあります。このブログも例外ではありません。

目の調子が悪く、今は更新を休んでおりますが、こういう機会があると、続ける原動力になります。
ありがとうございましたm(__)m
フランツさまもどうぞお元気で! 
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Unknown (フランツ)
2020-10-25 19:58:32
えつこ様
「ピンク色の雲」をア○ゾンで入手して拝見いたしました。
当時の呉海軍工廠に学徒動員された方々で山陰地方出身の方々は、終戦後の帰郷への道程・・広島市経由の方々と呉線で三原市方面へ行かれた方々と2つのグループがあったと聞いています。
広島駅で、喉が渇いて水を飲んだ方々の話は、多くの方々からも話をお聞きしてました。しかし、この話は、本当に胸をえぐられる話でした。戦争の悲惨さとはこうした事実そのものです。
体調がお悪いようですが、一日も早い回復をお祈りいたします。
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フランツさんへ:深謝しますm(__)m (takuetsu@管理人)
2020-10-26 18:33:29
まぁまぁ、フランツさま、妹の著書をお買い上げの上でお読みくださったのですね。感謝感激ですm(__)m 妹にも早速伝えました。

帰郷ルートが東西に分かれて2つあったのですね。島根の津和野の隣町(現在は津和野と合併しています)に帰る母には、広島市経由しか選択肢はなかったでしょうし、原爆のことなど知識もなかったのですから、被爆は運命だったと言ってしまえばそれまでですが…。幾重かの条件が重なった人災と言えますよね。
フランツさまとやりとりしていると、「記録」と「伝承」の大切さを実感します。

体調へのお気遣いにも感謝いたします。加齢による目の変化についていけていないという、情けない状況です。コンタクトと3種類のメガネで対応していますが、パソコン用のメガネも作らないと、今までの自分のスタイルでブログを更新していくだけのPC作業には耐えられそうにありません(^_^;
健康で年を重ねるのは本当に大変ですね。

フランツさまのご健康と、ますますのご活躍をお祈りしております。ありがとうございましたm(__)m

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