【連載】「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(二十九)『祖国と青年』2月号掲載
軍民の間にあつて「公」に殉じた人々
沖縄決戦を前に示した日本人の覚悟
他者に自らの生存を委ねた日本国憲法の下で育つた日本人は、「戦ひ」を何よりも恐れ、自らの命を守る為には、「危地」から真先に逃走すべきだと考える様になつて来た。それは卑怯では無く賢い生き方だと。大学生から聞いた話だが、教育実習に行つた際、子ども達に、自らの命を擲(なげう)つてバスの暴走から乗客を救つた車掌さんの話の絵本(『みちお地蔵』日本の歴史に学ぶ会長崎発行)を読み聞かせやうとした所、校長からストップがかかつたさうだ。教育現場では「自己犠牲」を教へる事はタブーだといふ。戦前の教育では「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)あれば義勇(ぎゆう)公(こう)に奉(ほう)じ」との勇気と義侠(ぎきょう)心(しん)が培(つちか)はれてゐた。一方現代では、公や人の為にわが身を擲つ事は、殆ど薦められてゐない。
昨年の沖縄教科書騒動の際、沖縄戦体験者の多くが証言する「軍民一体の協力」に対し、左翼反日勢力は「軍隊は住民を守らない」との反軍プロパガンダを喧伝した。だが、沖縄決戦の際、軍と民との間にあつて「公」の為に尽力し職に殉じた多数の「官」の存在を忘れるべきではなからう。それらの人々について田村洋三氏が『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』『特攻に殉ず 地方気象台の沖縄戦』の中で詳しく紹介してゐる。前著では、島田知事と荒井警察部長の事を、後著では沖縄地方気象台の笠原技師と田中無線課長の事が紹介されてゐる。勿論四人とも、与へられた公の任務の為に本土から沖縄に赴任して殉職された人々である。
昭和十九年十月十日の那覇大空襲以来、沖縄への米軍上陸は必至と見られ、沖縄全島をパニックが襲つた。その中で、あらう事か、泉守紀沖縄県知事は上京を繰り返して転出を働きかけ、遂に19年12月23日、出張で上京したまま沖縄に戻らず県知事不在といふ異例の事態を迎えた(伊場内政部長も翌年2月14日に理由をつけて本土に出張し、そのまま出奔)。沖縄地方気象台でも、野口台長が19年10月下旬に妻子が居る九州鹿児島に脱出、台長代理兼無線課長も転勤工作を行ひ11月末に福岡管区気象台の無線課長に転出しトップ二人が不在となつた。戦ひを前に逃げ出したのだ。
だが、そのやうな日本人ばかりではなかつた。当時「沖縄に留まる事」更には「新たに赴任する事」は殆ど「死」を意味してゐたが、敢てその選択を行つた人々が居たのだ。19年7月から本土へ8万人、台湾に2万人目標の民間人(高齢者・学童・その世話をする婦人)疎開が始まる。その業務遂行の責に当つたのが、18年7月に赴任してゐた栃木県出身の荒井退造警察部長(43歳)だつた。爾来、荒井部長は一度も本土へは戻らず、一貫して警察業務の先頭に立つて不眠不休の業務をこなした。かかるリーダーを持つた沖縄県警察では、一人の脱落者も出なかつたといふ。
一方トップが逃げ出した沖縄県庁では、職員が次々と退職していく。内務省は後任知事を任命出来ず、遂に年が改まつた。その時、牛島沖縄軍司令官から推薦があつたのが、当時大阪府内政部長の島田叡(あきら)氏だつた。打診された島田氏は直ちに了承した。1月10日に内定し、31日には沖縄の地を踏んだ。島田氏は奥様に「おれが行かなんだら、だれかが行かなならんやないか。おれは死にとうないから、だれか行って死ね、とは、よう言わん」「断るわけにはいかんのや。断ったら、おれはもう卑怯者として外も歩けなくなる。人間、いずれは死ぬんや。早いか、遅いかの違いや」と語つたといふ。島田氏は中学・高校・帝大と野球部に所属し、「断而行鬼神避之(だんじておこなえばきしんもこれをさく)」を座右の銘としてゐた。昭和13・4年には佐賀県警察部長を務め、自らの人生修業の為、佐賀市にある龍(りゅう)泰寺(たいじ)住職佐々木雄堂に、『南洲翁遺訓』の講義を受けた。島田知事は住職から贈られた秘蔵の『南洲翁遺訓』と『葉隠』を持つて沖縄に赴任し、戦ひの中で折を見て紐解かれてゐたといふ。
一方沖縄地方気象台でも野口台長逐電後、それ迄98人居た職員は37人に激減。中央気象台は後任人事を発表出来ないで居た。だがその時、一人踏ん張つて気象台を守り抜いた男が居た。長野県諏訪出身で、16年11月に沖縄に赴任してゐた笠原貞芳技師(28歳)である。笠原技師は、その時既に東京の中央気象台予報課転勤が決まつてゐたが、19年12月下旬に上京して中央気象台に直訴、自らの東京転勤を返上した上で、新任の無線課長の赴任を要請した。笠原技師はその心境を友人に「中央気象台へ戻る内示を受け、荷物も全部送ったけれど、僕はこれまで苦楽を共にして来た家族以上の部下を残して自分だけがのうのうと東京へは戻れない」と語つたといふ。
笠原技師の捨て身の要請の結果、岡山県出身で当時35歳の田中静夫氏が2月3日に沖縄地方気象台無線課長として赴任(後に台長代理にも任命)する。田中氏は当初富士山測候所勤務が内定してゐたがそれを変更しての赴任だつた。引き止める妻に対して「沖縄はとても重要な基地だから、気象が良くわかるものが行かないと飛行機も飛ばせないんだ。どうしても、僕が行かなきゃいけない。僕は命がけでお国のために働くのだから、国はお前達を放っておくことはないだろう。」と諭したといふ。又妹には「自分はこの国が可愛いから、行かなきゃならない。」と語つたといふ。沖縄決戦100日の間、特攻隊の出撃は63日に及んだ。その出撃に欠かせないのが現地の気象情報であつた。田中無線課長を中心に気象台の職員は命がけの気象観測を行ひ打電した。
卑怯者の自己正当化の根拠たる九条精神の横溢してゐる今日、島田知事や荒井警察部長、田中無線課長、笠原技師の様な人物は生まれ難くなつて来てゐる。だが、これらの公に生きた人々が存在しなかつたなら沖縄戦の住民被害は膨大な数に至つたのではないか。軍民一体となつて戦つた沖縄戦を思ふにつけても、軍と民の間にあつて軍を支え、民を守つた先人達の勇気ある命に思ひを致し、感謝の誠を捧げたいと思ふ。
軍民の間にあつて「公」に殉じた人々
沖縄決戦を前に示した日本人の覚悟
他者に自らの生存を委ねた日本国憲法の下で育つた日本人は、「戦ひ」を何よりも恐れ、自らの命を守る為には、「危地」から真先に逃走すべきだと考える様になつて来た。それは卑怯では無く賢い生き方だと。大学生から聞いた話だが、教育実習に行つた際、子ども達に、自らの命を擲(なげう)つてバスの暴走から乗客を救つた車掌さんの話の絵本(『みちお地蔵』日本の歴史に学ぶ会長崎発行)を読み聞かせやうとした所、校長からストップがかかつたさうだ。教育現場では「自己犠牲」を教へる事はタブーだといふ。戦前の教育では「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)あれば義勇(ぎゆう)公(こう)に奉(ほう)じ」との勇気と義侠(ぎきょう)心(しん)が培(つちか)はれてゐた。一方現代では、公や人の為にわが身を擲つ事は、殆ど薦められてゐない。
昨年の沖縄教科書騒動の際、沖縄戦体験者の多くが証言する「軍民一体の協力」に対し、左翼反日勢力は「軍隊は住民を守らない」との反軍プロパガンダを喧伝した。だが、沖縄決戦の際、軍と民との間にあつて「公」の為に尽力し職に殉じた多数の「官」の存在を忘れるべきではなからう。それらの人々について田村洋三氏が『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』『特攻に殉ず 地方気象台の沖縄戦』の中で詳しく紹介してゐる。前著では、島田知事と荒井警察部長の事を、後著では沖縄地方気象台の笠原技師と田中無線課長の事が紹介されてゐる。勿論四人とも、与へられた公の任務の為に本土から沖縄に赴任して殉職された人々である。
昭和十九年十月十日の那覇大空襲以来、沖縄への米軍上陸は必至と見られ、沖縄全島をパニックが襲つた。その中で、あらう事か、泉守紀沖縄県知事は上京を繰り返して転出を働きかけ、遂に19年12月23日、出張で上京したまま沖縄に戻らず県知事不在といふ異例の事態を迎えた(伊場内政部長も翌年2月14日に理由をつけて本土に出張し、そのまま出奔)。沖縄地方気象台でも、野口台長が19年10月下旬に妻子が居る九州鹿児島に脱出、台長代理兼無線課長も転勤工作を行ひ11月末に福岡管区気象台の無線課長に転出しトップ二人が不在となつた。戦ひを前に逃げ出したのだ。
だが、そのやうな日本人ばかりではなかつた。当時「沖縄に留まる事」更には「新たに赴任する事」は殆ど「死」を意味してゐたが、敢てその選択を行つた人々が居たのだ。19年7月から本土へ8万人、台湾に2万人目標の民間人(高齢者・学童・その世話をする婦人)疎開が始まる。その業務遂行の責に当つたのが、18年7月に赴任してゐた栃木県出身の荒井退造警察部長(43歳)だつた。爾来、荒井部長は一度も本土へは戻らず、一貫して警察業務の先頭に立つて不眠不休の業務をこなした。かかるリーダーを持つた沖縄県警察では、一人の脱落者も出なかつたといふ。
一方トップが逃げ出した沖縄県庁では、職員が次々と退職していく。内務省は後任知事を任命出来ず、遂に年が改まつた。その時、牛島沖縄軍司令官から推薦があつたのが、当時大阪府内政部長の島田叡(あきら)氏だつた。打診された島田氏は直ちに了承した。1月10日に内定し、31日には沖縄の地を踏んだ。島田氏は奥様に「おれが行かなんだら、だれかが行かなならんやないか。おれは死にとうないから、だれか行って死ね、とは、よう言わん」「断るわけにはいかんのや。断ったら、おれはもう卑怯者として外も歩けなくなる。人間、いずれは死ぬんや。早いか、遅いかの違いや」と語つたといふ。島田氏は中学・高校・帝大と野球部に所属し、「断而行鬼神避之(だんじておこなえばきしんもこれをさく)」を座右の銘としてゐた。昭和13・4年には佐賀県警察部長を務め、自らの人生修業の為、佐賀市にある龍(りゅう)泰寺(たいじ)住職佐々木雄堂に、『南洲翁遺訓』の講義を受けた。島田知事は住職から贈られた秘蔵の『南洲翁遺訓』と『葉隠』を持つて沖縄に赴任し、戦ひの中で折を見て紐解かれてゐたといふ。
一方沖縄地方気象台でも野口台長逐電後、それ迄98人居た職員は37人に激減。中央気象台は後任人事を発表出来ないで居た。だがその時、一人踏ん張つて気象台を守り抜いた男が居た。長野県諏訪出身で、16年11月に沖縄に赴任してゐた笠原貞芳技師(28歳)である。笠原技師は、その時既に東京の中央気象台予報課転勤が決まつてゐたが、19年12月下旬に上京して中央気象台に直訴、自らの東京転勤を返上した上で、新任の無線課長の赴任を要請した。笠原技師はその心境を友人に「中央気象台へ戻る内示を受け、荷物も全部送ったけれど、僕はこれまで苦楽を共にして来た家族以上の部下を残して自分だけがのうのうと東京へは戻れない」と語つたといふ。
笠原技師の捨て身の要請の結果、岡山県出身で当時35歳の田中静夫氏が2月3日に沖縄地方気象台無線課長として赴任(後に台長代理にも任命)する。田中氏は当初富士山測候所勤務が内定してゐたがそれを変更しての赴任だつた。引き止める妻に対して「沖縄はとても重要な基地だから、気象が良くわかるものが行かないと飛行機も飛ばせないんだ。どうしても、僕が行かなきゃいけない。僕は命がけでお国のために働くのだから、国はお前達を放っておくことはないだろう。」と諭したといふ。又妹には「自分はこの国が可愛いから、行かなきゃならない。」と語つたといふ。沖縄決戦100日の間、特攻隊の出撃は63日に及んだ。その出撃に欠かせないのが現地の気象情報であつた。田中無線課長を中心に気象台の職員は命がけの気象観測を行ひ打電した。
卑怯者の自己正当化の根拠たる九条精神の横溢してゐる今日、島田知事や荒井警察部長、田中無線課長、笠原技師の様な人物は生まれ難くなつて来てゐる。だが、これらの公に生きた人々が存在しなかつたなら沖縄戦の住民被害は膨大な数に至つたのではないか。軍民一体となつて戦つた沖縄戦を思ふにつけても、軍と民の間にあつて軍を支え、民を守つた先人達の勇気ある命に思ひを致し、感謝の誠を捧げたいと思ふ。
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