11月31日、最高裁は熊本市が行っている熊本朝鮮会館への減免を違法とする福岡高等裁判所判決を支持する決定を下し、熊本市長の上告を棄却した。ここに、朝鮮会館に対する自治体の減免措置の違法性が明らかになった。原告の救う会熊本会長加納よしひろ氏を支援して戦い抜いて来た吾等にとっては、最高の判決であった。加納氏に報告があった11月31日午後4時半、加納氏は桜山神社にある神風連記念館で、奉納されている日本刀の手入れを行っていたそうである。神風連の導きとでもいうものを感じたという。私は、翌日の北方領土返還銀座デモに参加する為に、その時間は機上の人になっていたので、連絡が取れなかったらしい。熊本地裁で「不当判決」、福岡高裁で「逆転勝訴」と加納氏と共に幕を掲げてマスコミにアピールしたのだが、今回、それが出来なかったのは残念だった。最高裁の判決は、当事者にさえ事前に知らされる事がないそうだ。
12月4日、支援者11名で、加納氏の慰労祝勝会を行った。「平成維新は熊本から」を実感する今回の勝利であった。参加者の顔は嬉々として、今後の更なる戦いの方向性についても意見が出され話がはずんだ。
これ迄の戦いの流れを振り返ると、
平成15年7月 熊本市に朝鮮会館の課税状況に関する情報公開を要求
熊本市は固定資産税の減免を認める
9月 熊本市監査委員会に「熊本市は徴税権の行使を怠っている」と監査請求を行う
11月18日 監査委員会が「熊本朝鮮会館は、地域住民の活動の場となっておらず、熊本市が主張する公民館類似施設とはいえない。熊本市は固定資産税を徴収しなさい。」と勧告
12月18日 幸山熊本市長は、勧告に従う事を拒否。
平成16年1月 救う会熊本会長の加納よしひろ氏が熊本地裁に「固定資産税等の減免措置無効確認等請求」を提訴。
平成17年4月21日 熊本地裁「本件土地建物は、在日朝鮮人以外でも規則や運用上利用可能であり、また、本件土地建物を利用する団体が、政治活動を行っていることなどをもって、公益性が損なわれるとは解されない」等の理由で、吾々の請求を却下。即日控訴する。
平成18年2月2日 福岡高裁「朝鮮総連が、北朝鮮の指導のもとに北朝鮮と一体の関係にあって、専ら北朝鮮の国益やその所属構成員である在日朝鮮人の私的利益を擁護するために、我が国において活動を行っていることは明らかである。このような朝鮮総連の活動が『我が国社会一般の利益のために』行われているものでないことはいうまでもない」等の理由で吾々が逆転勝訴!
2月15日 幸山熊本市長が上告
平成19年11月30日 最高裁、幸山市長の上告棄却。福岡高裁判決が確定
実に、4年5ヶ月に亙る戦いであった。加納氏の執念と森本耕司弁護士のご努力の賜物であった。更には、拉致事件を許さない国民世論の勝利であった。
尚、私が原告に加わらなかったのは、住所が熊本市ではないので原告足り得ないからである。それ故、一貫して支援団体の救う会熊本副会長として記者会見に臨んできた。
熊本市長は、朝鮮会館が「公民館に準じる公的施設だ」と強弁したが、普通の日本人の一体誰が朝鮮会館に立ち寄ったりするものか。この事は、熊本市への要望の時、更には記者会見時に何度も何度も訴えてきた。それは、私には学生時代の痛苦なる体験があったからである。
昭和50年9月2日に起こった松生丸事件、佐賀県呼子のふぐはえなわ漁船が公海上で北朝鮮警備艇によって銃撃され、船員が死亡し、船が拿捕された事件だが、当時九州大学に在学していた私は、船長が「この海に、この国に正義はないのか」と訴えられた言葉に衝撃を受けて、この様な非道な事が許されるのかと九大を始めとする福岡の大学生が集まって、抗議の天神情宣を行った。その後、福岡の朝鮮会館に抗議文を手渡しに行った。
ところが、朝鮮総連側は、話を全く受け付けず、急遽集めた仲間らと吾々に暴力を奮って来たのだった。彼らは「日本人が朝鮮半島で何をしたのか、日本人が一人や二人殺されたって当然だ」「てめえら、簀巻きにして博多湾に放り込むぞ」等々」口汚く罵って棒で叩いて来るのだった。彼らの日本人に対する憎悪に驚かされた体験だった。吾々は、その後も事件1周年や2周年の時に抗議に出かけたが、彼らの不当な暴力を防ぐべく、警察の警備課に同行を依頼せざるを得なかった。朝鮮会館とはその様な反日無法暴力の巣窟なのであった。
それ故、そのような朝鮮会館を「準公民館施設」と強弁する幸山市長の能天気にはあきれてものが言えなかったのである。流石に、福岡高裁の判事はその様な実態が解っておられた。
平成10年に北朝鮮による拉致事件に対する「救う会熊本」の活動を開始するに当って、吾々には非常なる勇気が必要であった。その時、決然として会長を引き受けたのが、中学校教諭の諸熊弘毅氏であった。私は日本会議熊本の結成準備に当っていたので、救う会熊本では副会長に就任した。その後、諸熊氏が多忙となり活動に支障が生じた為に、平成14年6月に加納よしひろ氏に2代目の会長を引き受けてもらった。加納氏は鍼灸師で、日本刀を研究し武道を嗜む、勇気ある人材であった。その3か月後に小泉訪朝があり、救う会熊本会長にはマスコミからの取材が相次いだ。自営業の加納氏だからこそ対応が出来た。14年には県民の関心も高まり、救出運動も多忙を極めた。その中で、支援者の輪も広がり、法律に詳しい仲間も加わった。そこで、15年になって、朝鮮総連の建物についての課税実態について調べようという事になって、今回の戦いへと繋がっていくのである。
実は、私と諸熊氏と加納氏は熊本県立済々黌高校の同期なのである。北朝鮮に拉致された松木薫さんは九州学院高校の出身だが、年齢は吾々と同じである。同年代の松木君を救おうというので、救う会熊本は始まったのである。私は、諸熊氏や加納氏という同世代の勇気と智恵と行動力ある同志を持てて幸せだと思う。
12月4日、支援者11名で、加納氏の慰労祝勝会を行った。「平成維新は熊本から」を実感する今回の勝利であった。参加者の顔は嬉々として、今後の更なる戦いの方向性についても意見が出され話がはずんだ。
これ迄の戦いの流れを振り返ると、
平成15年7月 熊本市に朝鮮会館の課税状況に関する情報公開を要求
熊本市は固定資産税の減免を認める
9月 熊本市監査委員会に「熊本市は徴税権の行使を怠っている」と監査請求を行う
11月18日 監査委員会が「熊本朝鮮会館は、地域住民の活動の場となっておらず、熊本市が主張する公民館類似施設とはいえない。熊本市は固定資産税を徴収しなさい。」と勧告
12月18日 幸山熊本市長は、勧告に従う事を拒否。
平成16年1月 救う会熊本会長の加納よしひろ氏が熊本地裁に「固定資産税等の減免措置無効確認等請求」を提訴。
平成17年4月21日 熊本地裁「本件土地建物は、在日朝鮮人以外でも規則や運用上利用可能であり、また、本件土地建物を利用する団体が、政治活動を行っていることなどをもって、公益性が損なわれるとは解されない」等の理由で、吾々の請求を却下。即日控訴する。
平成18年2月2日 福岡高裁「朝鮮総連が、北朝鮮の指導のもとに北朝鮮と一体の関係にあって、専ら北朝鮮の国益やその所属構成員である在日朝鮮人の私的利益を擁護するために、我が国において活動を行っていることは明らかである。このような朝鮮総連の活動が『我が国社会一般の利益のために』行われているものでないことはいうまでもない」等の理由で吾々が逆転勝訴!
2月15日 幸山熊本市長が上告
平成19年11月30日 最高裁、幸山市長の上告棄却。福岡高裁判決が確定
実に、4年5ヶ月に亙る戦いであった。加納氏の執念と森本耕司弁護士のご努力の賜物であった。更には、拉致事件を許さない国民世論の勝利であった。
尚、私が原告に加わらなかったのは、住所が熊本市ではないので原告足り得ないからである。それ故、一貫して支援団体の救う会熊本副会長として記者会見に臨んできた。
熊本市長は、朝鮮会館が「公民館に準じる公的施設だ」と強弁したが、普通の日本人の一体誰が朝鮮会館に立ち寄ったりするものか。この事は、熊本市への要望の時、更には記者会見時に何度も何度も訴えてきた。それは、私には学生時代の痛苦なる体験があったからである。
昭和50年9月2日に起こった松生丸事件、佐賀県呼子のふぐはえなわ漁船が公海上で北朝鮮警備艇によって銃撃され、船員が死亡し、船が拿捕された事件だが、当時九州大学に在学していた私は、船長が「この海に、この国に正義はないのか」と訴えられた言葉に衝撃を受けて、この様な非道な事が許されるのかと九大を始めとする福岡の大学生が集まって、抗議の天神情宣を行った。その後、福岡の朝鮮会館に抗議文を手渡しに行った。
ところが、朝鮮総連側は、話を全く受け付けず、急遽集めた仲間らと吾々に暴力を奮って来たのだった。彼らは「日本人が朝鮮半島で何をしたのか、日本人が一人や二人殺されたって当然だ」「てめえら、簀巻きにして博多湾に放り込むぞ」等々」口汚く罵って棒で叩いて来るのだった。彼らの日本人に対する憎悪に驚かされた体験だった。吾々は、その後も事件1周年や2周年の時に抗議に出かけたが、彼らの不当な暴力を防ぐべく、警察の警備課に同行を依頼せざるを得なかった。朝鮮会館とはその様な反日無法暴力の巣窟なのであった。
それ故、そのような朝鮮会館を「準公民館施設」と強弁する幸山市長の能天気にはあきれてものが言えなかったのである。流石に、福岡高裁の判事はその様な実態が解っておられた。
平成10年に北朝鮮による拉致事件に対する「救う会熊本」の活動を開始するに当って、吾々には非常なる勇気が必要であった。その時、決然として会長を引き受けたのが、中学校教諭の諸熊弘毅氏であった。私は日本会議熊本の結成準備に当っていたので、救う会熊本では副会長に就任した。その後、諸熊氏が多忙となり活動に支障が生じた為に、平成14年6月に加納よしひろ氏に2代目の会長を引き受けてもらった。加納氏は鍼灸師で、日本刀を研究し武道を嗜む、勇気ある人材であった。その3か月後に小泉訪朝があり、救う会熊本会長にはマスコミからの取材が相次いだ。自営業の加納氏だからこそ対応が出来た。14年には県民の関心も高まり、救出運動も多忙を極めた。その中で、支援者の輪も広がり、法律に詳しい仲間も加わった。そこで、15年になって、朝鮮総連の建物についての課税実態について調べようという事になって、今回の戦いへと繋がっていくのである。
実は、私と諸熊氏と加納氏は熊本県立済々黌高校の同期なのである。北朝鮮に拉致された松木薫さんは九州学院高校の出身だが、年齢は吾々と同じである。同年代の松木君を救おうというので、救う会熊本は始まったのである。私は、諸熊氏や加納氏という同世代の勇気と智恵と行動力ある同志を持てて幸せだと思う。
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