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先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十三回(『祖国と青年』22年5月号掲載)
至誠を貫いた三十年の生涯 吉田松陰2
萩に幽閉された憂国の志が歴史を動かした
萩の野山獄に入れられた吉田松陰は、自らを「二十一回猛士」と称して、益々志の実現の為に生きる決意を固める。翌安政二年一月十一日、下田踏海の決死行を共にした金子重輔が岩倉獄で病死する。松陰は嘆き悲しみ、食事を削ってその費用を金子の遺族に送り、更には重輔の志を顕彰する為に友人同志に文章を依頼して追悼集を作成する。重輔に対する松陰の至誠溢れる行動は、同囚の者達に深い感銘を与えた。
野山獄には十一人が入牢していたが、彼らは犯罪者では無く、家人に厭われて牢に入れられている者達だった。松陰は、彼らに学ぶ形で俳句の会や書道の会を始め、自らも「孟子」の講義を始めた。この講義録が、後に松陰の代表的著作『講孟箚記』として編纂される。冒頭松陰は、支那の経典に学ぶ際に、決して聖人賢人に阿ってはいけないと、日本人の主体性を強調している。『講孟箚記』の中から私が心に刻んでいる言葉を幾つか紹介する。
●群夷競ひ来る、國家の大事とは云へども、深憂とするに足らず。深憂とすべきは人心の正しからざるなり。(列強が競って我が国に迫り、国の一大事ではあるが、深く憂うべき問題では無い。憂うべきは人心が正しくない事である。)
●「怒りを蔵さず、怨みを宿めず」。此の二句、尤も善し。君子の心は天の如し。怨怒する所あれば雷霆の怒を発することもあれども、其の事解くるに至りて、又天晴日明なる如く、一毫も心中に残す所なし。(「怒りを心中に抱き続けず、怨みを心に留めない」との言葉がとても良い。君子の心は天の様に、怒れば雷が落ちるが、氷解すれば雨後の晴天の如く後にしこりを全く残さない。)
陽明学に相応しい言葉である。天地の如き爽やかな心を表している。松陰は怒りもしたが、決して後を引かなかった。
●師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず、必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。(教師の道を興す為には、妄りに人の先生に成るべきでは無いし、人を先生にしてもいけない。本当に教えるべき事があって先生となり、本当に学ぶべき事があって先生とすべきだ。)
●道を興すには、狂者に非ざれば興すこと能はず。(理想に突き進む「狂者」でなければ人倫を興す事は出来ない。)
十月十五日に、病気保養を名目に野山獄を出て杉家の幽室に入る。松陰の父・叔父・兄達は、自分達を相手に孟子の講義を続行する様に勧めた。家族の愛情に支えられ、遂に安政三年六月十八日に孟子講義は終了した。噂を聞いて兵学の弟子や近隣の子弟達が松陰の下に集まり出した。松陰は山鹿素行『武教全書』の講義を始める。行動の自由を失った松陰は、志を継承してくれる同志を切実に求めた。
●若し僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。子々孫々に至り候はばいつか時なきことは之なく候。(このまま幽閉されたまま死ぬ様な事になれば、私は必ずわが志を受け継ぐ人材を後世に残したいと思う。それが子々孫々迄受け継がれれば、何時かは私の志が成就する時が来るであろう。)
松下村塾での教育期間は安政三年八月から五年十二月迄の二年間で、実質的には塾舎が完成した安政四年十一月からの一年に過ぎない。安政四年から入門者が増え、安政五年三月には塾舎の増築が完了する。松陰は優しく、共に学びましょうと青年達に呼びかけた。一人一人の学力に応じたテキストを選び、字義の解釈から、如何に行動すべきか迄、自らの体験と信念を元に熱く語っていった。時代を知り、国の為に役立てる力を培う事を目的としていた。
塾には決まった時間割など無く、塾生が来ると松陰は何時でも教えた。塾生は九十二名に及び、年齢の解る入塾生の平均年齢は十八・五歳だった。松陰は青年達の志を励まし、長所を伸ばそうとした。そして、励ましの言葉は後に文章にして一人一人に与えられた。松陰の至誠は言動に表れ、文章として表現され、青年達の胸に刻み込まれて行った。
風雲急を告げる中で燃え上る憂国の至情
松下村塾での平穏な学びは長くは続かなかった。安政五年になると幕府と米国領事ハリスとの間の日米修好通商条約締結が大詰めを迎えた。しかし朝廷は、条約締結を了承されなかった。四月に大老に就任した井伊直弼は、幕府先決の旧習に戻り独断で条約を調印、同時に将軍継嗣問題にも血筋を重視する決断を行った。孝明天皇は幕府の措置を憂えられ譲位の意向を側近にもらされる。松陰は京都や江戸に上った塾生から天下の情勢について逐一報告を受け、対策を考えていく。「飛耳長目」である。飛脚として江戸と萩を往復する入江杉蔵に松陰は次の言葉を送って励ました。
●杉蔵往け、月白く風清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし。詩も賦すべし、今日の事誠に急なり。然れども天下は大物なり、一朝奮激の能く動かす所に非ず、其れ唯だ積誠之れを動かし、然る後動くあるのみ。(杉蔵よ、爽やかな月風の下、馬に跨る早駆けの旅、酒も飲み詩も作り乍ら行け。天下の形勢は急を要している。しかし、天下を動かすには一時の憤激では難しいぞ。日々誠を積み重ねる事によってのみ動かす事が出来るのである。)
●六十四国は墨になり候とも二国にて守返し候。(日本中が米国に屈すとも、わが防長二国だけで必ず盛り返す。)
松陰は幕府の過ちを指摘し、已むに已まれぬ思いで藩政府に対する建言を続けて行く。朝廷からは勤皇篤い水戸藩に密勅を下されるが、逆に幕府は尊皇攘夷の志士達への弾圧を開始する。安政の大獄である。対抗すべく松陰は十一月、同志十七名と血盟し、老中間部詮勝要撃を計画する。
藩政府は松陰の言動を危ぶみ、十一月二十九日に一室厳囚の措置を執る。松陰の罪状を問い質しに行った塾生八名も自宅謹慎処分を受ける。更に十二月二十六日には野山獄に再入獄させられる。安政六年正月、日本の行く末を憂えられる孝明天皇の大御心をお偲び申し上げて松陰は歌う。「九重」とは宮中のこと、天皇陛下の事である。
●九重の悩む御心思ほへば手にとる屠蘇も呑みえざるなり
この頃、久坂玄瑞や高杉晋作等は江戸に居た。江戸で大獄の厳しさを肌身に感じていた彼らは、師の行動に対して自重を呼びかけて来た。一月十一日、金子重輔の命日を迎えた松陰は、孤立感の中で先駆けの死を欲する様になる。
●吾が輩皆に先駆けて死んでみせたら観感して起るものもあらん。(略)忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし。(略)江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り。(私が先駆けて死ねば、弟子達も感じて動くかもしれない。(略)忠義と言うのは困難から逃避して行うものではない。(略)江戸に居る久坂玄瑞・中谷正亮・高杉晋作なども私と見方が違っている。その分かれる所は、彼らは功業を為そうと考えており、私は忠義を尽そうと考えているのだ。)
一月二十四日、松陰は絶食を開始する。だが、母の慈愛あふれる手紙と門下生の謹慎処分が解けた事で翌日中止する。この間、松陰が信頼していた門下生達が志を捨てて「俗吏」になると言って離れて行く。特に松陰が最も信頼し期待していた吉田栄太郎(字は無逸)が全く音信を絶った事は非常な嘆きを生んだ。だが松陰は、門下生達を信じた。
●さればとて無逸を無理に吾が流儀へ引き付けうと云ふにはあらず。只々天地間不朽の人に成りて呉れたら、我れに叛くも可なり。我れを罵るも可なり。(中略)一見知己として死生を同じうせんと思ひ心事を吐露した無逸、天地間無名の男児にて死んで呉れるが残念なと云ふことなり。(だからと言って吉田栄太郎を無理に私のやり方に従わせ様と考えているのではない。只この世の中で立派な人物に成ってくれたなら、私に背き私を罵っても構わない。一旦知り合って死生を共にしようと心根を語り合った栄太郎が、志の無い無名の男児として死んでしまう事が残念なのだ。)
品川彌二郎(字が思父)に対しては次の言葉を投げかけた。
●思父よ思父、他人は欺くべきも、松陰は其れ欺くべけんや。松陰は欺くべきも、自心其れ欺くべけんや。(彌二郎よ、他の人は欺く事が出来ても、この松陰はだませないぞ。松陰はだませても、お前の本心は決して欺けないぞ。)
自己の本心は欺けないとの言葉は陽明学の真髄である。
孤立する松陰の死生観は揺らぎ、そして深まって行く。四月十四日の野村和作宛の書簡は、「先駆の死」から転じて、国家の行く末を思うが故の「生への執着」を記している。
●併し命が惜しい。(略)吾が目中には吾が輩程に志を篤くし、時勢を洞観したる人はなし。然ればうぬぼれながら吉田義卿神州の為めに自愛すべし。(生命が惜しい。(略)私が見る限り、私ほど志が篤く時勢を洞察している者は居ない。それ故、うぬぼれかもしれないが、吉田松陰よ、日本の為に自愛して生命を大切にすべきである。)
そして四月二十二日、遂に「死を求めもせず、死を辞しもせ」ぬ「自然説」に到達する。この間、松陰は獄中で明末の陽明学者李卓吾の『焚書』に大きな影響を受けている。死生超脱の境地は七月の高杉宛書簡によく表されている。
●死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道尽き心安んずる、便ち是れ死所。」世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。」(略)死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。」僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言ふべきを言ふのみ。(死はあえて好むべきでも悪むべきでもない。人の道が尽き果て心安んじた所が死に場所である。世の中には肉体は生きても心が死んでいる者がいる。肉体が滅んでも魂が生き続ける者もいる。心が死んでしまえば生きていても益はない。魂が残り続けるならば身が滅んでも損は無い。(略)死んで魂が生き続ける見込みがあればいつでも死ぬが良いし、生きて大きな業を為し遂げる見込みがあるならいつまでも生きたが良い。私は生死を度外視して唯言うべき事を言うだけである。)
至誠を試す江戸行と留魂
五月二十五日、松陰は江戸へ護送される為に萩を発った。
●至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり
吾れ学問二十年、齢而立なり。然れども未だ能く斯の一語を解する能はず。今茲に関左の行、願はくは身を以て之れを験さん、乃ち死生の大事の若きは、姑くこれを置く。(「誠を尽したなら心が動かない者は未だかつていない」 私は学問を始めて二十年が経ち三十歳になった。然し、私が信條として来た「孟子」のこの言葉を真に理解出来ている訳では無い。今回の江戸行きでは、私の身を賭してこの言葉の真義を試そうと思う、死生の大事は度外視している。)
松陰は自らの至誠を試しに江戸に向ったのである。江戸の評定所で松陰は、憂国の思いを余す所無く語った。判決は遠島処分だったが、井伊大老自ら死罪に直したと言われている。死が確定した松陰、気がかりな事は祖国の行末だった。だが、松陰には祖国に対する絶対の信仰があった。
●天照の神勅に「日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし。」と之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。(天照大御神の下されたお言葉(『日本書記』)に「天皇の子孫が栄えていく様は、天地が極まりないのと同様に永遠である。」とある。このお言葉に間違いがなければ日本は決して滅びる事はない。日本が滅びなければ正気が人を通じて必ず湧き起こって来る時が来る。今の時勢を見て右往左往するのは、天照大御神のお言葉を信じていない事であり、その罪は決して軽くは無い。)
十月二十五日・二十六日、冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と詠み、遺書となる『留魂録』を認めた。
十月二十七日正午頃、松陰は伝馬町の獄舎で処刑された。享年三十歳の生涯だった。辞世は次の漢詩である。
●吾れ今國の為に死す、死して君親に負かず。
悠々たり天地の事、鑑照、明神に在り。
(私は、今国の為に死のうとしている。この死は主君や両親に対し決して背くものでは無い。この悠久たる天地の様に、私の誠を貫いた生涯は神のみが照覧されるであろう。)
至誠を貫いた三十年の生涯 吉田松陰2
萩に幽閉された憂国の志が歴史を動かした
萩の野山獄に入れられた吉田松陰は、自らを「二十一回猛士」と称して、益々志の実現の為に生きる決意を固める。翌安政二年一月十一日、下田踏海の決死行を共にした金子重輔が岩倉獄で病死する。松陰は嘆き悲しみ、食事を削ってその費用を金子の遺族に送り、更には重輔の志を顕彰する為に友人同志に文章を依頼して追悼集を作成する。重輔に対する松陰の至誠溢れる行動は、同囚の者達に深い感銘を与えた。
野山獄には十一人が入牢していたが、彼らは犯罪者では無く、家人に厭われて牢に入れられている者達だった。松陰は、彼らに学ぶ形で俳句の会や書道の会を始め、自らも「孟子」の講義を始めた。この講義録が、後に松陰の代表的著作『講孟箚記』として編纂される。冒頭松陰は、支那の経典に学ぶ際に、決して聖人賢人に阿ってはいけないと、日本人の主体性を強調している。『講孟箚記』の中から私が心に刻んでいる言葉を幾つか紹介する。
●群夷競ひ来る、國家の大事とは云へども、深憂とするに足らず。深憂とすべきは人心の正しからざるなり。(列強が競って我が国に迫り、国の一大事ではあるが、深く憂うべき問題では無い。憂うべきは人心が正しくない事である。)
●「怒りを蔵さず、怨みを宿めず」。此の二句、尤も善し。君子の心は天の如し。怨怒する所あれば雷霆の怒を発することもあれども、其の事解くるに至りて、又天晴日明なる如く、一毫も心中に残す所なし。(「怒りを心中に抱き続けず、怨みを心に留めない」との言葉がとても良い。君子の心は天の様に、怒れば雷が落ちるが、氷解すれば雨後の晴天の如く後にしこりを全く残さない。)
陽明学に相応しい言葉である。天地の如き爽やかな心を表している。松陰は怒りもしたが、決して後を引かなかった。
●師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず、必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。(教師の道を興す為には、妄りに人の先生に成るべきでは無いし、人を先生にしてもいけない。本当に教えるべき事があって先生となり、本当に学ぶべき事があって先生とすべきだ。)
●道を興すには、狂者に非ざれば興すこと能はず。(理想に突き進む「狂者」でなければ人倫を興す事は出来ない。)
十月十五日に、病気保養を名目に野山獄を出て杉家の幽室に入る。松陰の父・叔父・兄達は、自分達を相手に孟子の講義を続行する様に勧めた。家族の愛情に支えられ、遂に安政三年六月十八日に孟子講義は終了した。噂を聞いて兵学の弟子や近隣の子弟達が松陰の下に集まり出した。松陰は山鹿素行『武教全書』の講義を始める。行動の自由を失った松陰は、志を継承してくれる同志を切実に求めた。
●若し僕幽囚の身にて死なば、吾れ必ず一人の吾が志を継ぐの士をば後世に残し置くなり。子々孫々に至り候はばいつか時なきことは之なく候。(このまま幽閉されたまま死ぬ様な事になれば、私は必ずわが志を受け継ぐ人材を後世に残したいと思う。それが子々孫々迄受け継がれれば、何時かは私の志が成就する時が来るであろう。)
松下村塾での教育期間は安政三年八月から五年十二月迄の二年間で、実質的には塾舎が完成した安政四年十一月からの一年に過ぎない。安政四年から入門者が増え、安政五年三月には塾舎の増築が完了する。松陰は優しく、共に学びましょうと青年達に呼びかけた。一人一人の学力に応じたテキストを選び、字義の解釈から、如何に行動すべきか迄、自らの体験と信念を元に熱く語っていった。時代を知り、国の為に役立てる力を培う事を目的としていた。
塾には決まった時間割など無く、塾生が来ると松陰は何時でも教えた。塾生は九十二名に及び、年齢の解る入塾生の平均年齢は十八・五歳だった。松陰は青年達の志を励まし、長所を伸ばそうとした。そして、励ましの言葉は後に文章にして一人一人に与えられた。松陰の至誠は言動に表れ、文章として表現され、青年達の胸に刻み込まれて行った。
風雲急を告げる中で燃え上る憂国の至情
松下村塾での平穏な学びは長くは続かなかった。安政五年になると幕府と米国領事ハリスとの間の日米修好通商条約締結が大詰めを迎えた。しかし朝廷は、条約締結を了承されなかった。四月に大老に就任した井伊直弼は、幕府先決の旧習に戻り独断で条約を調印、同時に将軍継嗣問題にも血筋を重視する決断を行った。孝明天皇は幕府の措置を憂えられ譲位の意向を側近にもらされる。松陰は京都や江戸に上った塾生から天下の情勢について逐一報告を受け、対策を考えていく。「飛耳長目」である。飛脚として江戸と萩を往復する入江杉蔵に松陰は次の言葉を送って励ました。
●杉蔵往け、月白く風清し、飄然馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし。詩も賦すべし、今日の事誠に急なり。然れども天下は大物なり、一朝奮激の能く動かす所に非ず、其れ唯だ積誠之れを動かし、然る後動くあるのみ。(杉蔵よ、爽やかな月風の下、馬に跨る早駆けの旅、酒も飲み詩も作り乍ら行け。天下の形勢は急を要している。しかし、天下を動かすには一時の憤激では難しいぞ。日々誠を積み重ねる事によってのみ動かす事が出来るのである。)
●六十四国は墨になり候とも二国にて守返し候。(日本中が米国に屈すとも、わが防長二国だけで必ず盛り返す。)
松陰は幕府の過ちを指摘し、已むに已まれぬ思いで藩政府に対する建言を続けて行く。朝廷からは勤皇篤い水戸藩に密勅を下されるが、逆に幕府は尊皇攘夷の志士達への弾圧を開始する。安政の大獄である。対抗すべく松陰は十一月、同志十七名と血盟し、老中間部詮勝要撃を計画する。
藩政府は松陰の言動を危ぶみ、十一月二十九日に一室厳囚の措置を執る。松陰の罪状を問い質しに行った塾生八名も自宅謹慎処分を受ける。更に十二月二十六日には野山獄に再入獄させられる。安政六年正月、日本の行く末を憂えられる孝明天皇の大御心をお偲び申し上げて松陰は歌う。「九重」とは宮中のこと、天皇陛下の事である。
●九重の悩む御心思ほへば手にとる屠蘇も呑みえざるなり
この頃、久坂玄瑞や高杉晋作等は江戸に居た。江戸で大獄の厳しさを肌身に感じていた彼らは、師の行動に対して自重を呼びかけて来た。一月十一日、金子重輔の命日を迎えた松陰は、孤立感の中で先駆けの死を欲する様になる。
●吾が輩皆に先駆けて死んでみせたら観感して起るものもあらん。(略)忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし。(略)江戸居の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積り。(私が先駆けて死ねば、弟子達も感じて動くかもしれない。(略)忠義と言うのは困難から逃避して行うものではない。(略)江戸に居る久坂玄瑞・中谷正亮・高杉晋作なども私と見方が違っている。その分かれる所は、彼らは功業を為そうと考えており、私は忠義を尽そうと考えているのだ。)
一月二十四日、松陰は絶食を開始する。だが、母の慈愛あふれる手紙と門下生の謹慎処分が解けた事で翌日中止する。この間、松陰が信頼していた門下生達が志を捨てて「俗吏」になると言って離れて行く。特に松陰が最も信頼し期待していた吉田栄太郎(字は無逸)が全く音信を絶った事は非常な嘆きを生んだ。だが松陰は、門下生達を信じた。
●さればとて無逸を無理に吾が流儀へ引き付けうと云ふにはあらず。只々天地間不朽の人に成りて呉れたら、我れに叛くも可なり。我れを罵るも可なり。(中略)一見知己として死生を同じうせんと思ひ心事を吐露した無逸、天地間無名の男児にて死んで呉れるが残念なと云ふことなり。(だからと言って吉田栄太郎を無理に私のやり方に従わせ様と考えているのではない。只この世の中で立派な人物に成ってくれたなら、私に背き私を罵っても構わない。一旦知り合って死生を共にしようと心根を語り合った栄太郎が、志の無い無名の男児として死んでしまう事が残念なのだ。)
品川彌二郎(字が思父)に対しては次の言葉を投げかけた。
●思父よ思父、他人は欺くべきも、松陰は其れ欺くべけんや。松陰は欺くべきも、自心其れ欺くべけんや。(彌二郎よ、他の人は欺く事が出来ても、この松陰はだませないぞ。松陰はだませても、お前の本心は決して欺けないぞ。)
自己の本心は欺けないとの言葉は陽明学の真髄である。
孤立する松陰の死生観は揺らぎ、そして深まって行く。四月十四日の野村和作宛の書簡は、「先駆の死」から転じて、国家の行く末を思うが故の「生への執着」を記している。
●併し命が惜しい。(略)吾が目中には吾が輩程に志を篤くし、時勢を洞観したる人はなし。然ればうぬぼれながら吉田義卿神州の為めに自愛すべし。(生命が惜しい。(略)私が見る限り、私ほど志が篤く時勢を洞察している者は居ない。それ故、うぬぼれかもしれないが、吉田松陰よ、日本の為に自愛して生命を大切にすべきである。)
そして四月二十二日、遂に「死を求めもせず、死を辞しもせ」ぬ「自然説」に到達する。この間、松陰は獄中で明末の陽明学者李卓吾の『焚書』に大きな影響を受けている。死生超脱の境地は七月の高杉宛書簡によく表されている。
●死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、道尽き心安んずる、便ち是れ死所。」世に身生きて心死する者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり。」(略)死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。」僕が所見にては生死は度外に措きて唯だ言ふべきを言ふのみ。(死はあえて好むべきでも悪むべきでもない。人の道が尽き果て心安んじた所が死に場所である。世の中には肉体は生きても心が死んでいる者がいる。肉体が滅んでも魂が生き続ける者もいる。心が死んでしまえば生きていても益はない。魂が残り続けるならば身が滅んでも損は無い。(略)死んで魂が生き続ける見込みがあればいつでも死ぬが良いし、生きて大きな業を為し遂げる見込みがあるならいつまでも生きたが良い。私は生死を度外視して唯言うべき事を言うだけである。)
至誠を試す江戸行と留魂
五月二十五日、松陰は江戸へ護送される為に萩を発った。
●至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり
吾れ学問二十年、齢而立なり。然れども未だ能く斯の一語を解する能はず。今茲に関左の行、願はくは身を以て之れを験さん、乃ち死生の大事の若きは、姑くこれを置く。(「誠を尽したなら心が動かない者は未だかつていない」 私は学問を始めて二十年が経ち三十歳になった。然し、私が信條として来た「孟子」のこの言葉を真に理解出来ている訳では無い。今回の江戸行きでは、私の身を賭してこの言葉の真義を試そうと思う、死生の大事は度外視している。)
松陰は自らの至誠を試しに江戸に向ったのである。江戸の評定所で松陰は、憂国の思いを余す所無く語った。判決は遠島処分だったが、井伊大老自ら死罪に直したと言われている。死が確定した松陰、気がかりな事は祖国の行末だった。だが、松陰には祖国に対する絶対の信仰があった。
●天照の神勅に「日嗣の隆えまさんこと、天壌と窮りなかるべし。」と之れあり候所、神勅相違なければ日本は未だ亡びず、日本未だ亡びざれば正気重ねて発生の時は必ずあるなり。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪軽からざるなり。(天照大御神の下されたお言葉(『日本書記』)に「天皇の子孫が栄えていく様は、天地が極まりないのと同様に永遠である。」とある。このお言葉に間違いがなければ日本は決して滅びる事はない。日本が滅びなければ正気が人を通じて必ず湧き起こって来る時が来る。今の時勢を見て右往左往するのは、天照大御神のお言葉を信じていない事であり、その罪は決して軽くは無い。)
十月二十五日・二十六日、冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と詠み、遺書となる『留魂録』を認めた。
十月二十七日正午頃、松陰は伝馬町の獄舎で処刑された。享年三十歳の生涯だった。辞世は次の漢詩である。
●吾れ今國の為に死す、死して君親に負かず。
悠々たり天地の事、鑑照、明神に在り。
(私は、今国の為に死のうとしている。この死は主君や両親に対し決して背くものでは無い。この悠久たる天地の様に、私の誠を貫いた生涯は神のみが照覧されるであろう。)
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