これだけは押さえておきたい日本近代史3
熊本の先達と台湾領有
日清戦争に勝利した日本は、朝鮮の独立に加えて台湾の領有を求めた。その推進の大きな力となったのは、わが熊本の先達である井上 毅先生や徳富蘇峰先生であった。
井上 毅先生は、大日本帝国憲法制定の中心人物であり、教育勅語起草にも深く関っておられるが、晩年とりわけて関心を持たれたのは、日本の将来の事であった。亡くなられる前年、日清戦争進行中の明治二七年十月には、病床の身でありながら伊藤総理に対し「世人皆朝鮮主権の必ず争ふべきを知りて、台湾領有の最も争ふべきを知らざるは何ぞや。」で始まる有名な書簡を送られて、台湾領有の喫緊性を訴えられた。
それは、朝鮮を保護国にしても国家を富ます事にはならないが、台湾を占有する者は、黄海・朝鮮海・日本海の航権を確保し東洋の門戸を確保する事となる。もし、台湾を他国に領有されれば、わが沖縄諸島も安全ではなくなる。朝鮮とは天と地の差である。この戦勝により台湾を日本の領有としなければ必ず他の大国の領有となり、日本との紛争の元となるであろう。というものであった。現代で言うシーレーン確保論である。
又、徳富蘇峰先生にも同時期、台湾を第一歩として、マレー半島・南洋諸島に進出して行く事を訴えられた「台湾占有の意見書」がある。蘇峰先生も「北を守りて南を攻めるの方針」を訴えられている。台湾と熊本は縁が深い。
(平成十五年九月号)
これだけは押さえておきたい日本近代史④
台湾は何故「親日」なのか
台湾統治五〇年(明治二八年から)朝鮮統治三五年(明治四三年から)南洋諸島の統治二七年(大正八年から)満州国一四年(昭和七年から)インドネシア等の東南アジア諸国統治四年(昭和十七年から)と見てくると、実に半世紀に及んだ台湾統治の内実の大きさが感じられる。満州国の経営に当った人が、「満州国が五〇年続いていたなら真の五族協和の理想国家が誕生していた事は間違いない」と述懐しているが、台湾ではその半世紀を日本人として生きたのだ。
日本人はどこでも、法治国家づくり・インフラ整備・教育の充実・衛生観念の涵養・労働技術の伝授などに力を尽くした。日本人は、現地の住民を「同じ人間だ」と考えて彼らの可能性を信じた。半世紀の日本時代の中で台湾人は、国家を支えるのは「日本精神」だと確信した。
日本敗戦後に大陸からやってきた新しい支配者の「国民党軍(中国人)」は、無法と賄賂が横行する前近代社会の住民だった。彼らを見て台湾の人々は、「日本はアメリカには負けたが、中国に負けたのではない」と思った。そして、自らの自治を求めた。しかし、国民党は軍隊を送り、日本統治下で育った台湾の知識人・指導者を根こそぎ弾圧・虐殺した(二・二八事件1947年)。一ヶ月余の間に約二八〇〇〇人(台湾人の二〇〇人強に一人)が殺害された。その後の国民党による独裁・強圧政治。
日本時代を経験した台湾人にとって、文明がいずこにあるかは明白であった。
(平成十五年十月号)
【新連載】台湾と熊本・第一回(「六士先生」その1)
台湾教育に勇躍応じた濟々黌の俊才・平井数馬
熊本と台湾との定期便運航へ向け、議員連盟の先生方が尽力されている。そこで、本紙では台湾を訪れる熊本県民が是非知っておくべき熊本と台湾の絆を紹介する。
先ずは、台湾教育草創の時に非命に斃れた「六士先生」、その中に熊本出身の平井数馬氏が居た。平成21年に熊本を訪れられた李登輝元台湾総統は、9月14日午前、小峰墓地にある平井数馬氏記念の碑を参拝されている。
日清戦争によって台湾の割譲を受けた日本は、台湾統治の最優先方針に教育の充実を掲げた。それを進言し推進したのが、文部省学務部長心得の伊沢修二だった。
台湾総督府は学務部を創設、その長に伊沢を任じた。伊沢は日本全国から志を抱く七人の優秀な人材を集めた。その一人が当時十八歳の平井数馬だった。
平井は濟々黌に学び、十六歳で高等文官試験に合格した俊才だった。濟々黌は創立の当初から国家を担う人材の輩出を志し、大陸に注目していた。明治十四年には課外としてシナ語・朝鮮語を教授し、その後、正課として英語・シナ語を定めた。又、有為な人材を清韓両国に派遣した。日清戦争が起こると、十九名の卒業生が陸軍通訳として従軍、戦時中にはシナ語の速成教習生を募り、戦中戦後の経営に六十余名が従事している。その中で平井は育ち、シナ語通訳官として台湾教育の任に勇躍と応じたのである。
(平成二十五年四月号)
【新連載】台湾と熊本・第二回(「六士先生」その2)
平井数馬の来歴
平井数馬は、明治十一年七月二十六日に松橋町で生まれた。六人兄弟の四男である。一家は、西南戦争の戦火に遭って熊本市から移り住んでいた。
数馬出生の翌年には熊本市の新屋敷町に移転した。数馬は手取小学校に入学し、高等科を経て、中学済々黌に入学した。成績は優秀で団長を務め、剣道・柔道・水泳が得意だった。特に柔道の腕前は師範も認めていた。後に芝山巖で非命に斃れた時も、土匪を組み伏せて戦った逸話が残っている。
済々黌は明治二十四年に他の私学四校と合併して「九州学院」となり、普通科・専門科を擁していた。二十七年には普通科が、熊本県尋常中学済々黌として再び分離し、九州学院には専門科のみが残った(明治三十年には閉校)。平井は二十八年一月にその九州学院支那語学科に進み、六月には終了した。
通訳官を目指した平井は、知人の斡旋で台湾総督府雇員民生局内務部に採用され、八月十七日に台北に到着した。二十四日には学務部に移り、学務部が置かれた芝山巖学堂の舎監に任じられた。芝山巖のある士林地区は、学問が盛んな所だった。日本語教授の呼びかけに応じて、地元の青壮年二十七名が三組に分かれて学んでいた。その殆どが平井より年長だった。平井は語学の才に優れ、九月には『軍隊憲兵用台湾語』の原稿を草しているが、発音の片仮名表記は細かく正確だった。平井はその書に「微笑生」と自らを称している。
(平成二十五年五月号)
【連載】台湾と熊本・第三回(「六士先生」その3)
六士先生の殉難
明治二十八年七月末に芝山巖に開設された学堂では、文部省学務部長の伊沢修二を中心に、六名の日本人教師が台湾人の教育に当っていた。楫取道明(39歳・山口県)関口長太郎(38歳・愛知県)中島長吉(26歳・群馬県)桂金太郎(28歳・東京府)井原順之助(25歳・山口県)平井数馬(19歳・熊本県)である。
日本軍が台湾全土を平定したのは、十一月十八日だが、その後から台湾各地でゲリラ活動が活発になり、特に十二月から翌年一月にかけて台北を奪回する勢力が出現した。事件は、伊沢学務局長が日本へ一時帰国している間に起こった。
十二月三十日、北部一帯の不穏情報が士林に齎され避難を勧められたが六人は、元より死を覚悟しての渡台であり、士林の住民達との信頼も結ばれていた為、気に介さなかった。元旦、台北での拝賀式に向かう為に下山したが、前夜来の騒擾の為、渡し船が無く、一旦芝山巖へ戻った。正午近く再び下山した際に約百名の「土匪」に襲われた。六人は教育者らしく道理を説いたが、土匪の一部は槍を持って襲い掛かり白兵戦となった。
平井と井原は活路を開いて旧街まで逃れたが、そこに屯していた匪徒に囲まれた。平井は得意の柔術で敵の首領を投げ倒し互いに上下する事六・七回に及び、遂に側に居た匪徒の槍で突かれ絶命したという。事件後、五人の遺体は発見されたが平井の遺体だけは、遂に発見されなかった。
台湾教育草創期に殉難した六士先生は、教育者の鑑として、今でも心ある台湾の人々に仰がれている。 (平成二十五年六月号)
熊本の先達と台湾領有
日清戦争に勝利した日本は、朝鮮の独立に加えて台湾の領有を求めた。その推進の大きな力となったのは、わが熊本の先達である井上 毅先生や徳富蘇峰先生であった。
井上 毅先生は、大日本帝国憲法制定の中心人物であり、教育勅語起草にも深く関っておられるが、晩年とりわけて関心を持たれたのは、日本の将来の事であった。亡くなられる前年、日清戦争進行中の明治二七年十月には、病床の身でありながら伊藤総理に対し「世人皆朝鮮主権の必ず争ふべきを知りて、台湾領有の最も争ふべきを知らざるは何ぞや。」で始まる有名な書簡を送られて、台湾領有の喫緊性を訴えられた。
それは、朝鮮を保護国にしても国家を富ます事にはならないが、台湾を占有する者は、黄海・朝鮮海・日本海の航権を確保し東洋の門戸を確保する事となる。もし、台湾を他国に領有されれば、わが沖縄諸島も安全ではなくなる。朝鮮とは天と地の差である。この戦勝により台湾を日本の領有としなければ必ず他の大国の領有となり、日本との紛争の元となるであろう。というものであった。現代で言うシーレーン確保論である。
又、徳富蘇峰先生にも同時期、台湾を第一歩として、マレー半島・南洋諸島に進出して行く事を訴えられた「台湾占有の意見書」がある。蘇峰先生も「北を守りて南を攻めるの方針」を訴えられている。台湾と熊本は縁が深い。
(平成十五年九月号)
これだけは押さえておきたい日本近代史④
台湾は何故「親日」なのか
台湾統治五〇年(明治二八年から)朝鮮統治三五年(明治四三年から)南洋諸島の統治二七年(大正八年から)満州国一四年(昭和七年から)インドネシア等の東南アジア諸国統治四年(昭和十七年から)と見てくると、実に半世紀に及んだ台湾統治の内実の大きさが感じられる。満州国の経営に当った人が、「満州国が五〇年続いていたなら真の五族協和の理想国家が誕生していた事は間違いない」と述懐しているが、台湾ではその半世紀を日本人として生きたのだ。
日本人はどこでも、法治国家づくり・インフラ整備・教育の充実・衛生観念の涵養・労働技術の伝授などに力を尽くした。日本人は、現地の住民を「同じ人間だ」と考えて彼らの可能性を信じた。半世紀の日本時代の中で台湾人は、国家を支えるのは「日本精神」だと確信した。
日本敗戦後に大陸からやってきた新しい支配者の「国民党軍(中国人)」は、無法と賄賂が横行する前近代社会の住民だった。彼らを見て台湾の人々は、「日本はアメリカには負けたが、中国に負けたのではない」と思った。そして、自らの自治を求めた。しかし、国民党は軍隊を送り、日本統治下で育った台湾の知識人・指導者を根こそぎ弾圧・虐殺した(二・二八事件1947年)。一ヶ月余の間に約二八〇〇〇人(台湾人の二〇〇人強に一人)が殺害された。その後の国民党による独裁・強圧政治。
日本時代を経験した台湾人にとって、文明がいずこにあるかは明白であった。
(平成十五年十月号)
【新連載】台湾と熊本・第一回(「六士先生」その1)
台湾教育に勇躍応じた濟々黌の俊才・平井数馬
熊本と台湾との定期便運航へ向け、議員連盟の先生方が尽力されている。そこで、本紙では台湾を訪れる熊本県民が是非知っておくべき熊本と台湾の絆を紹介する。
先ずは、台湾教育草創の時に非命に斃れた「六士先生」、その中に熊本出身の平井数馬氏が居た。平成21年に熊本を訪れられた李登輝元台湾総統は、9月14日午前、小峰墓地にある平井数馬氏記念の碑を参拝されている。
日清戦争によって台湾の割譲を受けた日本は、台湾統治の最優先方針に教育の充実を掲げた。それを進言し推進したのが、文部省学務部長心得の伊沢修二だった。
台湾総督府は学務部を創設、その長に伊沢を任じた。伊沢は日本全国から志を抱く七人の優秀な人材を集めた。その一人が当時十八歳の平井数馬だった。
平井は濟々黌に学び、十六歳で高等文官試験に合格した俊才だった。濟々黌は創立の当初から国家を担う人材の輩出を志し、大陸に注目していた。明治十四年には課外としてシナ語・朝鮮語を教授し、その後、正課として英語・シナ語を定めた。又、有為な人材を清韓両国に派遣した。日清戦争が起こると、十九名の卒業生が陸軍通訳として従軍、戦時中にはシナ語の速成教習生を募り、戦中戦後の経営に六十余名が従事している。その中で平井は育ち、シナ語通訳官として台湾教育の任に勇躍と応じたのである。
(平成二十五年四月号)
【新連載】台湾と熊本・第二回(「六士先生」その2)
平井数馬の来歴
平井数馬は、明治十一年七月二十六日に松橋町で生まれた。六人兄弟の四男である。一家は、西南戦争の戦火に遭って熊本市から移り住んでいた。
数馬出生の翌年には熊本市の新屋敷町に移転した。数馬は手取小学校に入学し、高等科を経て、中学済々黌に入学した。成績は優秀で団長を務め、剣道・柔道・水泳が得意だった。特に柔道の腕前は師範も認めていた。後に芝山巖で非命に斃れた時も、土匪を組み伏せて戦った逸話が残っている。
済々黌は明治二十四年に他の私学四校と合併して「九州学院」となり、普通科・専門科を擁していた。二十七年には普通科が、熊本県尋常中学済々黌として再び分離し、九州学院には専門科のみが残った(明治三十年には閉校)。平井は二十八年一月にその九州学院支那語学科に進み、六月には終了した。
通訳官を目指した平井は、知人の斡旋で台湾総督府雇員民生局内務部に採用され、八月十七日に台北に到着した。二十四日には学務部に移り、学務部が置かれた芝山巖学堂の舎監に任じられた。芝山巖のある士林地区は、学問が盛んな所だった。日本語教授の呼びかけに応じて、地元の青壮年二十七名が三組に分かれて学んでいた。その殆どが平井より年長だった。平井は語学の才に優れ、九月には『軍隊憲兵用台湾語』の原稿を草しているが、発音の片仮名表記は細かく正確だった。平井はその書に「微笑生」と自らを称している。
(平成二十五年五月号)
【連載】台湾と熊本・第三回(「六士先生」その3)
六士先生の殉難
明治二十八年七月末に芝山巖に開設された学堂では、文部省学務部長の伊沢修二を中心に、六名の日本人教師が台湾人の教育に当っていた。楫取道明(39歳・山口県)関口長太郎(38歳・愛知県)中島長吉(26歳・群馬県)桂金太郎(28歳・東京府)井原順之助(25歳・山口県)平井数馬(19歳・熊本県)である。
日本軍が台湾全土を平定したのは、十一月十八日だが、その後から台湾各地でゲリラ活動が活発になり、特に十二月から翌年一月にかけて台北を奪回する勢力が出現した。事件は、伊沢学務局長が日本へ一時帰国している間に起こった。
十二月三十日、北部一帯の不穏情報が士林に齎され避難を勧められたが六人は、元より死を覚悟しての渡台であり、士林の住民達との信頼も結ばれていた為、気に介さなかった。元旦、台北での拝賀式に向かう為に下山したが、前夜来の騒擾の為、渡し船が無く、一旦芝山巖へ戻った。正午近く再び下山した際に約百名の「土匪」に襲われた。六人は教育者らしく道理を説いたが、土匪の一部は槍を持って襲い掛かり白兵戦となった。
平井と井原は活路を開いて旧街まで逃れたが、そこに屯していた匪徒に囲まれた。平井は得意の柔術で敵の首領を投げ倒し互いに上下する事六・七回に及び、遂に側に居た匪徒の槍で突かれ絶命したという。事件後、五人の遺体は発見されたが平井の遺体だけは、遂に発見されなかった。
台湾教育草創期に殉難した六士先生は、教育者の鑑として、今でも心ある台湾の人々に仰がれている。 (平成二十五年六月号)
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