山鹿素行その三(『祖国と青年』平成25年4月号掲載)
態度が重々しくなければ武士と言えない。その為には常に「思い」を深く持て!
事物の間において常に思を深くし詳に慮らば、各々当然の則に近かるべし。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
今号では、四項ある「士道」の第三項「威儀を詳らかにす」第四項「日用を慎む」及び附録「先生自警」から紹介する。
十年位前からテレビの歴史ドラマを見て非常に違和感を覚えるようになった。武士を演じる役者の立ち居振る舞いが軽々しく、現代風になったのである。例えば土佐の殿様である山内容堂が酒瓶を片手に酔っ払って獄中の武市瑞山を罵りに行くシーンがあったが、当時の武士がその様な事を行うはずがない。武士たちはもっと厳しく自らを律していたはずである。私が若い頃に見た時代劇の役者達には威厳が備わり、勧善懲悪の武士の姿に畏敬の念と憧れを抱いたものだった。
現代風時代劇の軽さは、山鹿素行の言う「威儀」が脚本や演出から失われた結果生じたものだと思う。素行は、士道の三番目の柱として「威儀(重々しく作法にかなった振る舞い)を詳らかにす」を掲げている。その冒頭が、「敬せずと云ふこと毋れ(全てに敬いの心を抱け)」である。素行は言う。「何ら思う事もなく、その場その場の成り行き次第で物事を行い、情欲に任せて振舞うから礼儀を失する事が多く、武士の威儀が失われてしまうのである。威儀を失わない為には、物事に対応するに当たって、常に思いを深く持ち、物事を詳らかに慮る様にすれば、それぞれに理のかなった振る舞いが出来るはずだ。この事を『敬せずと云ふこと毋れ』と教えるのである。」と。
「敬」とは敬い・慎みの心である。自分が第一という「自己チュー」の者には「敬」の観念すら存在しない。全ゆる人や事に感謝出来るなら、自ずと敬いの心が養われ、物事への慎みも自然と身に付き「威」が備わるのである。だが、戦後教育を受けた者には生来の「軽さ」が身にこびりついている。難しいものだ。
食べ物についてとやかくいわない事が武士の最低条件
飲食においても猶ほ忍ぶことを得ざれば、何を以てか忍ぶことを得べきや。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
素行は、平和時の武士には、日常生活での「武士らしい」厳しい自制の訓練が大切だと考えていた。それ故、言語・視聴・衣食住のそれぞれに於いて武士らしい節度が必要だと説く。
「敬せずと云ふこと毋れ」に続けて「視聴を慎む」「言語を慎む」「容貌の動を慎む(いわゆるポーカーフェイス)」「飲食の用を節す」「衣服の制を明にす」「居宅の制を厳にす」「器物の用を詳にす」「総じて礼用の威儀を論ず」と、具体的な武士の生活の在り方について注意を促している。
素行は言う。「邪な色や声を見聞きする事だけを非礼と言うのではない。邪色邪声は外から来るものだからやむを得ず見聞きする事だってありうる。その場合は非礼の視聴とは言わない。一方、正色正声は非礼の色声ではないが、それを見聞きする時、当方に威儀が失われて情欲に任せて応対しているならば、それは非礼の視聴になるのだ。」と。あくまでも色声に応対する自らの在り方を問うている。
飲食について。「(生存の為の基本的な欲望である)飲食において『忍ぶ(我慢する)』事が出来なければ、他に何を忍ぶことが出来る様になるであろうか。」「世の中が衰えて、正しい風俗が廃れて、人々は皆飲食を好む事に節度を忘れ、グルメに血眼になっている。その結果、美食に耽り身体は肥え太り、大丈夫たる志は日々日々失われ空しくなって行く。」
衣服について。「サムライは身分相応に着衣すべきである。相当の位に立ってまでみすぼらしい衣服を着てそれを恥じる事がないと思っているのは、一見聖人の心の様に見えるがそうではない。それは自分の身を利している事に他ならない。公私それぞれの場に相応しい着替えを面倒がるズボラさから来ている。安逸を好む心がそうさせているのだ。衣服にお金を費やすことを嫌って、身分不相応のみすぼらしい服装をして平気なのは、利害を重んじて礼を失っているからである。」
器物について。「世に名高い大丈夫であっても、道に志が無く聖人の本意を知らないが為に、平静は聊かの利害の心が無くても、器物を以って宝としている者が多い。(珍重なる器物〔モノ〕に心を奪われてしまっているのである)尤も戒めなければならない。」
それぞれ身につまされる言葉である。
今日一日の姿に全ての人生が集約されている
大丈夫唯だ一日の用を以て極と為すべき也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
山鹿素行「士道」四番目の柱は、「日用を慎む」である。「総じて日用の事を論ず」「一日の用を論ず」「財宝授与の節を弁ず」「游会の節を慎む」から成り立っている。『葉隠』でも日々死を覚悟して奉公に励む事を説いていたが、素行も一日の大切さを強調する。素行の息遣いが伝わる様に、ここでは原文で紹介する。
「大丈夫唯だ一日の用を以て極と為すべき也。一日を積みて一月に至り、一月を積みて一年に至り、一年を積みて十年とす。十年相累りて百年たり、一日猶ほ遠し一時にあり、一時猶ほ長し一刻にあり、一刻猶ほあまれり一分にあり。ここを以て云ふ時は、千万歳のつとめも一分より出で一日に究まれり。一分の間をゆるがせにすれば、つひに一日に至り、おわりには一生の懈怠(おこたり)ともなれり。天地の生々一分の間もとどまらず、人間の血気一分もつかふることなし。―此くの如くして其の天長地久を得、此くの如くして寿命の永昌をなす。」
大丈夫たらんと思う者は、其の一日を以て、御用の極みと思い定め、全力で生きていかなければならない。覚悟を定めた一瞬一瞬の営みの積み重ねが一日となり、一年、十年、百年となるのだ。逆に一瞬の気の緩みは一生の怠りに繋がるのである。武士はかかる日々を刻んでいかねばならない。
その次に述べるのは、「財宝授与の節を弁ず」「游会の節を慎む」である。ここで注意したいのは「節」の文字である。節制の事である。武士たるものは、お金や遊び、全てにおいて節度を守らねばならない。その節度が自らの「武士らしさ」を確保するのである。素行は、「貨財は貧者を救い、賢人を招く等の効用があり用いる目的があれば宝になるが、用いる目的も無くただ、貨財の収拾が目的になってしまえば、鄙吝(どけち)の情が日々に増して、贅沢が過ぎる事による災いが生じて来る」と戒めている。素行は、爽やかな自然の下、花鳥風月を愛でる事は、「大丈夫の遊会」だと推奨している。
しかし、その場での飲食や宴会には自ずと節度が求められると言う。武士は、如何なる場においても強い自制心を忘れてはならない。それを失えば武士ではない。
自己反省力こそが感化力の原点
子弟の化せざるは身の責薄ければなり。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
大名を始め、多くの武士たちが師事した大学者の山鹿素行。その偉大さの秘密は、徹底した自己反省力にあった。「士道」の最後には、「附録」として「先生自警(自分で注意・用心する事)」十五か条、「先生子弟の警戒」十四か条、「先生僕を御するの警戒」二十五か条が記されている。全て、自らの日常の心持や態度についての深い反省と戒めの言葉である。
「自警の一」には「早く起き、夜遅く寝る、父母に仕えて、子弟を教え、親族睦まじく、従僕も養う、賓客があれば接見し、志士を貴んで、無能な者を憐れみ、行って余力があれば、学問に励む。これらは私が志すことなのだが、その実際は厚く行っている訳ではなく、只見栄を張ってその様にしているに過ぎない。だから、私が行っている事の全てが中途半端になっているのだ。この点こそ、私が最も力点をおいて省みなければならない事である。」と、記してある。
偽善者になってはならない。本物となる為に、日々自らの本心を省みよと述べているのだ。私は、これを読んで本当に驚いた。人間の力とは、自らの虚偽を許さない自省の力にある事を素行は己が姿で示している。
このページで紹介している言葉は、「自警の三」に出てくる。「私は子弟に対して、薄くしか教えていないのに効果が出る事を期待し、徳が自分には身についていないくせに、弟子たちを責める事は手厳しい。自分の身は正しくないのに、弟子たちにばかり正しさを求めてしまう、弟子たちを教化出来ないのは、私自身が自分を責めて成長していく力が希薄な事に起因している。」。
「自警の九」には「私は甚だ利害の念が強い。それ故、利口に振舞い、行動も敏捷で、何でも自分ばかり主張し、人を立てる事をしない。徳が薄いくせに志を得たいと思っている。この様な自分は、人を傷つけ辱めを与える天下の罪人である。天は決して味方されないであろう。」とある。凄まじいばかりの自己攻撃である。
ここまで、徹底的に自らの欠点を抉り出す力が、素行をして天下第一等の人物へと磨き上げていったのだ。己の弱さや性情を直視し、それに打ち勝つ戦いの中に平時の武士道が存在する。
態度が重々しくなければ武士と言えない。その為には常に「思い」を深く持て!
事物の間において常に思を深くし詳に慮らば、各々当然の則に近かるべし。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
今号では、四項ある「士道」の第三項「威儀を詳らかにす」第四項「日用を慎む」及び附録「先生自警」から紹介する。
十年位前からテレビの歴史ドラマを見て非常に違和感を覚えるようになった。武士を演じる役者の立ち居振る舞いが軽々しく、現代風になったのである。例えば土佐の殿様である山内容堂が酒瓶を片手に酔っ払って獄中の武市瑞山を罵りに行くシーンがあったが、当時の武士がその様な事を行うはずがない。武士たちはもっと厳しく自らを律していたはずである。私が若い頃に見た時代劇の役者達には威厳が備わり、勧善懲悪の武士の姿に畏敬の念と憧れを抱いたものだった。
現代風時代劇の軽さは、山鹿素行の言う「威儀」が脚本や演出から失われた結果生じたものだと思う。素行は、士道の三番目の柱として「威儀(重々しく作法にかなった振る舞い)を詳らかにす」を掲げている。その冒頭が、「敬せずと云ふこと毋れ(全てに敬いの心を抱け)」である。素行は言う。「何ら思う事もなく、その場その場の成り行き次第で物事を行い、情欲に任せて振舞うから礼儀を失する事が多く、武士の威儀が失われてしまうのである。威儀を失わない為には、物事に対応するに当たって、常に思いを深く持ち、物事を詳らかに慮る様にすれば、それぞれに理のかなった振る舞いが出来るはずだ。この事を『敬せずと云ふこと毋れ』と教えるのである。」と。
「敬」とは敬い・慎みの心である。自分が第一という「自己チュー」の者には「敬」の観念すら存在しない。全ゆる人や事に感謝出来るなら、自ずと敬いの心が養われ、物事への慎みも自然と身に付き「威」が備わるのである。だが、戦後教育を受けた者には生来の「軽さ」が身にこびりついている。難しいものだ。
食べ物についてとやかくいわない事が武士の最低条件
飲食においても猶ほ忍ぶことを得ざれば、何を以てか忍ぶことを得べきや。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
素行は、平和時の武士には、日常生活での「武士らしい」厳しい自制の訓練が大切だと考えていた。それ故、言語・視聴・衣食住のそれぞれに於いて武士らしい節度が必要だと説く。
「敬せずと云ふこと毋れ」に続けて「視聴を慎む」「言語を慎む」「容貌の動を慎む(いわゆるポーカーフェイス)」「飲食の用を節す」「衣服の制を明にす」「居宅の制を厳にす」「器物の用を詳にす」「総じて礼用の威儀を論ず」と、具体的な武士の生活の在り方について注意を促している。
素行は言う。「邪な色や声を見聞きする事だけを非礼と言うのではない。邪色邪声は外から来るものだからやむを得ず見聞きする事だってありうる。その場合は非礼の視聴とは言わない。一方、正色正声は非礼の色声ではないが、それを見聞きする時、当方に威儀が失われて情欲に任せて応対しているならば、それは非礼の視聴になるのだ。」と。あくまでも色声に応対する自らの在り方を問うている。
飲食について。「(生存の為の基本的な欲望である)飲食において『忍ぶ(我慢する)』事が出来なければ、他に何を忍ぶことが出来る様になるであろうか。」「世の中が衰えて、正しい風俗が廃れて、人々は皆飲食を好む事に節度を忘れ、グルメに血眼になっている。その結果、美食に耽り身体は肥え太り、大丈夫たる志は日々日々失われ空しくなって行く。」
衣服について。「サムライは身分相応に着衣すべきである。相当の位に立ってまでみすぼらしい衣服を着てそれを恥じる事がないと思っているのは、一見聖人の心の様に見えるがそうではない。それは自分の身を利している事に他ならない。公私それぞれの場に相応しい着替えを面倒がるズボラさから来ている。安逸を好む心がそうさせているのだ。衣服にお金を費やすことを嫌って、身分不相応のみすぼらしい服装をして平気なのは、利害を重んじて礼を失っているからである。」
器物について。「世に名高い大丈夫であっても、道に志が無く聖人の本意を知らないが為に、平静は聊かの利害の心が無くても、器物を以って宝としている者が多い。(珍重なる器物〔モノ〕に心を奪われてしまっているのである)尤も戒めなければならない。」
それぞれ身につまされる言葉である。
今日一日の姿に全ての人生が集約されている
大丈夫唯だ一日の用を以て極と為すべき也。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
山鹿素行「士道」四番目の柱は、「日用を慎む」である。「総じて日用の事を論ず」「一日の用を論ず」「財宝授与の節を弁ず」「游会の節を慎む」から成り立っている。『葉隠』でも日々死を覚悟して奉公に励む事を説いていたが、素行も一日の大切さを強調する。素行の息遣いが伝わる様に、ここでは原文で紹介する。
「大丈夫唯だ一日の用を以て極と為すべき也。一日を積みて一月に至り、一月を積みて一年に至り、一年を積みて十年とす。十年相累りて百年たり、一日猶ほ遠し一時にあり、一時猶ほ長し一刻にあり、一刻猶ほあまれり一分にあり。ここを以て云ふ時は、千万歳のつとめも一分より出で一日に究まれり。一分の間をゆるがせにすれば、つひに一日に至り、おわりには一生の懈怠(おこたり)ともなれり。天地の生々一分の間もとどまらず、人間の血気一分もつかふることなし。―此くの如くして其の天長地久を得、此くの如くして寿命の永昌をなす。」
大丈夫たらんと思う者は、其の一日を以て、御用の極みと思い定め、全力で生きていかなければならない。覚悟を定めた一瞬一瞬の営みの積み重ねが一日となり、一年、十年、百年となるのだ。逆に一瞬の気の緩みは一生の怠りに繋がるのである。武士はかかる日々を刻んでいかねばならない。
その次に述べるのは、「財宝授与の節を弁ず」「游会の節を慎む」である。ここで注意したいのは「節」の文字である。節制の事である。武士たるものは、お金や遊び、全てにおいて節度を守らねばならない。その節度が自らの「武士らしさ」を確保するのである。素行は、「貨財は貧者を救い、賢人を招く等の効用があり用いる目的があれば宝になるが、用いる目的も無くただ、貨財の収拾が目的になってしまえば、鄙吝(どけち)の情が日々に増して、贅沢が過ぎる事による災いが生じて来る」と戒めている。素行は、爽やかな自然の下、花鳥風月を愛でる事は、「大丈夫の遊会」だと推奨している。
しかし、その場での飲食や宴会には自ずと節度が求められると言う。武士は、如何なる場においても強い自制心を忘れてはならない。それを失えば武士ではない。
自己反省力こそが感化力の原点
子弟の化せざるは身の責薄ければなり。 (『山鹿語類巻第二十一「士道」』)
大名を始め、多くの武士たちが師事した大学者の山鹿素行。その偉大さの秘密は、徹底した自己反省力にあった。「士道」の最後には、「附録」として「先生自警(自分で注意・用心する事)」十五か条、「先生子弟の警戒」十四か条、「先生僕を御するの警戒」二十五か条が記されている。全て、自らの日常の心持や態度についての深い反省と戒めの言葉である。
「自警の一」には「早く起き、夜遅く寝る、父母に仕えて、子弟を教え、親族睦まじく、従僕も養う、賓客があれば接見し、志士を貴んで、無能な者を憐れみ、行って余力があれば、学問に励む。これらは私が志すことなのだが、その実際は厚く行っている訳ではなく、只見栄を張ってその様にしているに過ぎない。だから、私が行っている事の全てが中途半端になっているのだ。この点こそ、私が最も力点をおいて省みなければならない事である。」と、記してある。
偽善者になってはならない。本物となる為に、日々自らの本心を省みよと述べているのだ。私は、これを読んで本当に驚いた。人間の力とは、自らの虚偽を許さない自省の力にある事を素行は己が姿で示している。
このページで紹介している言葉は、「自警の三」に出てくる。「私は子弟に対して、薄くしか教えていないのに効果が出る事を期待し、徳が自分には身についていないくせに、弟子たちを責める事は手厳しい。自分の身は正しくないのに、弟子たちにばかり正しさを求めてしまう、弟子たちを教化出来ないのは、私自身が自分を責めて成長していく力が希薄な事に起因している。」。
「自警の九」には「私は甚だ利害の念が強い。それ故、利口に振舞い、行動も敏捷で、何でも自分ばかり主張し、人を立てる事をしない。徳が薄いくせに志を得たいと思っている。この様な自分は、人を傷つけ辱めを与える天下の罪人である。天は決して味方されないであろう。」とある。凄まじいばかりの自己攻撃である。
ここまで、徹底的に自らの欠点を抉り出す力が、素行をして天下第一等の人物へと磨き上げていったのだ。己の弱さや性情を直視し、それに打ち勝つ戦いの中に平時の武士道が存在する。
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