靖国神社への首相参拝を巡り、中国からの圧力に呼応する形で、「A級戦犯」分祀論が起こつてゐる。既に神社にお祀りした御霊に対し分祀といふ辱(はづかし)めを与へ冒瀆する事によつて、戦争の責任を明らかにせよとの主張である。だが、「死者に鞭打つ」のは中国の習俗であり、日本人は、赤坂にある楠木正成公建立の「寄手(よせて)塚」と「味方塚」の如く、「死ねば皆仏さま」と考へ敵の戦死者までも手厚く葬つて来た。
文藝春秋特別版『私が愛する日本』の中で中国人の毛丹青氏が中国人と日本人の霊魂観の違ひについて次の様に述べてゐる。「中国では人が亡くなると町の外に埋葬しに行きます。北京で有名なのは八宝山ですが、市内からかなり離れていますね。ところが日本では墓地が街の至る所にある。もっと不思議なのは、お寺の裏に墓地があって、隣に幼稚園があったりするんです。黄昏の夕日が墓地に射して、その美しい光の中で幼稚園の子どもたちが鬼ごっこをして夢中で遊んでいる、僕はそういう情景を何度も見ました。死者と生者がむつみあうようなのどかさ。亡くなった人たちは子どもたちの無邪気に遊ぶ姿を見て幸せだったんじゃないか。そこには死者と生者の会話があったんじゃないか、と思いましたね。現代の中国ではありえない光景です。子どもの時からそういう体験をすると、死生観や生命に対する考え方が違ってくるでしょうね。」と。靖国神社はこの日本人の死生観に深く関係してゐる。
「敗戦責任」などと言ふが、終戦後明らかになつてゐるだけでも、大東亜戦争敗北の責任を取り将兵五百六十八人、民間三十六人が自決してゐる。更には、連合国の戦争裁判により一千余名が処刑され生命を奪はれてゐる。合はせれば千六百余名の方々が日本国の敗戦の責を負ふて亡くなられたのである。この事を忘れてはならない。今春、北影雄幸(きたかげゆうこう)著『日本人の品格』が刊行され、購入して播(ひもと)き、改めて終戦に際して自決された方々の事蹟と御遺文に触れ、粛然身を正された。
陸軍大臣阿南惟幾(あなみこれちか)大将や特攻隊の生みの親といわれた大西瀧(たき)治郎(じろう)海軍中将の自刃は有名だが、それ以外にも多数の将官が自決して敗戦の責を取つてゐる。陸軍の最長老で開戦時陸軍参謀総長の重責にあった杉山元(はじめ)元帥は降伏調印を待つて九月十二日に自決、啓子夫人もその後を追つた。終戦時にクーデターを防いだ東部軍司令官田中静壱(しづいち)陸軍大将は、八月二十四日に『部下将兵を代表して』と記して自決した。本庄繁陸軍大将は「満州事変ハ(略)全ク当時ノ関東軍司令官タル予一個ノ責任ナリトス。」と書き残し、戦争犯罪容疑者に指名された十一月十九日に割腹自決。台湾総督安藤利吉陸軍大将は、敗戦の責と台湾に於ける戦犯事件の全責任を負ひ二十一年四月十九日に自決。
陸軍航空本部長の寺本熊市陸軍中将は終戦の大詔拝聴直後に割腹自決。陸軍きってのドイツ通であつた岡本清福陸軍中将は、参謀本部情報部長として自らのドイツ中心の情勢判断が開戦をもたらしたとその責任を取り駐在地のチューリッヒで自決。八月十七日には秋山義兌陸軍中将が北朝鮮咸興で割腹自決。島田朋三郎陸軍法務中将は法務関係の責任は全て自分にあるとして九月四日に自決。篠塚義男陸軍中将は、開戦時の軍事参議官として開戦に賛成した責を負ふて九月十七日に割腹自決。上村幹男陸軍中将は抑留先のハバロフスク収容所で上級将校としての敗戦の責を負ひ二十一年三月二十三日に自決。台湾軍第十二師団長の人見秀三陸軍中将は、引き揚げ援護を終了し、部隊が占領軍の管理下に入る前夜の二十一年四月十三日に自決。ニューギニアで第十八軍の指揮を執った安達二十三(はたぞう)陸軍中将は、戦犯問題に対処して部下将兵を救ひ、全ての戦争裁判終了後の二十二年九月十日に果物ナイフで自決した。小泉恭次陸軍中将は第百四十二師団長として復員業務に当り、業務完了後の十二月十日に割腹自決。その他、少将や佐官・尉官更には下士官兵からも多くの自決者が出てゐる。それぞれが軍人として敗戦の責を自らの生命で贖つたのである。
昭和二十年八月二十三日早朝、石川県七塚町の小高い砂丘の松林で、古式に則り日本刀で壮烈な自刃を遂げた陸軍航空工廠木津分工場長肥田武中尉の遺書には軍人の責任感と矜持とが見事に示されてゐる。父宛の遺書には「小生又爆発せんとする苦痛に耐え、目下部下の最後の整理を急いでいます。」「私は部下を故郷に帰しましてから腹を切って日本武人の面目に従います。」「私は平静にして何等弱き心より発するものではありませんから、その点ご安心下さい。」とある。母宛の遺書には、母の心情を思ひやる言葉の後に、「私も武士の子、敵に解除せらるる程の腰抜(こしぬけ)刀は持ちません。敗戦にせる最大の原因は私にあります。誠の不足せる帝国軍人でありました。残念でなりません。御心配くださいますな、武は見事に自刃します。」と記されてゐる。自刃場所に建つ「肥田様塚」の碑には、肥田中尉の辞世「身はたとえ荒磯浜に朽ちるとも我魂魄のすごみをぞ知れ」と父鎮夫氏の挽歌「名も物も何も求めず荒磯に吹く浜風とともにゆきしか」とが刻まれている。
北影氏は、「自決者は例外なく、生真面目(きまじめ)で責任感は旺盛、そして何よりもその心性は清潔潔白であり、いわば日本人の美質を一身に兼ね備えた人物」と評し、「自決者は日本的道義の殉教者であり、終戦時、少なからぬ人々がこの道義に殉じたが、彼らの純粋清冽な死があったればこそ、敗戦後の民族精神の荒廃に強力な歯止めがかかったのである。」と記してゐる。日本国に殉じた彼らは当然靖国神社に祭られてゐる。彼らの死は戦争中の戦死ではない。だが、敗戦といふ厳然たる事実に対して責任を取つた公的な「死」であつた。終戦六十年を過ぎ、大東亜戦争が歴史として振り返られ始めた。だが、「敗戦責任」を声高に叫ぶ前に、「敗戦の責」を自らに課して亡くなられた方々に先づは手を合はせ感謝の誠を捧げる事から始めるべきではないのか。少なくとも日本人であるならば。
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