会津武士道 その二(『祖国と青年』平成25年8月号掲載)
民の安寧を第一と考えよ
官庫の貯蓄は此の如き変に当りて、士民を救助安堵せしめんが為なり。若し救はずんば、貯蓄せざるに如かず。
(『会津松平家譜』巻一)
武士道は、主君に対する忠義を基礎に成り立っている。それ故、主君の仁徳が大きな意味を持ってくる。葉隠の項でも記したが、佐賀藩歴代の殿様は仁慈深い名君だった。だから、死を厭わない葉隠武士が誕生した。戦前の日本軍が強かったのも、国民を常に思われる天皇の大御心への感激と、それを体現する部下思いの上官が多数存在したからである。
会津藩で、全国を凌駕する純粋な武士道が育まれたのは、歴代藩主の人徳、特に初代藩主、保科正之の精神に由る所が大きい。保科正之は幼少より学問を好み、四十歳を過ぎてからは特に儒学(朱子学)に傾倒した。儒学は「徳治主義」を理想とし、国家を治める者の第一に備えるべき徳目として「仁」を強調した。正之は「仁」を体現する政治を志した。正之は四代将軍徳川家綱の後見人として幕府の政務に携わり、かつ会津藩主として藩を治めたが、その際最も重視したのは、治められる者達の幸福と安寧であった。
明暦三年(1657)の江戸大火後の復興の中心に立った正之は、江戸城天守閣の造営などは全く考えず、参勤交代制度を逆利用して江戸の人口を減らし、物価を安定させると共に、被災民への粥の施し、旗本や町民の屋敷再建の為に膨大な費用を投下した。更には、今後の防火対策の為の町火消の創設、大江戸復興プランの作成、玉川上水工事などを行った。「官庫に食糧を貯蓄しているのは、この様な災害に当って、人々を救助し安堵させる為にある。若し民を救う事が出来ないなら、貯蓄していても意味がない。」と正之は述べ、人々の救済の先頭に立った。
この間、会津屋敷の消火に当った次男正頼が、風邪をこじらせて肺炎で亡くなるという悲劇が襲うが、正之は屋敷に戻る事も無く、公事に奔走したのだった。
わが藩は幕府への忠誠を第一とする。他藩を見て右顧左眄する必要は無い。
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず。
(「家訓」)
保科正之は慶長十六年に二代将軍秀忠の庶子(母親はお静)として誕生した。秀忠の正室於江与の方は極めて嫉妬深く、庶子の存在など決して認めない女性だった。そこで、子供の誕生は極秘とされ、武田信玄の二女に当る見性院に預けて養育された。正之七歳の時、見性院は人物を見込み、信州高遠藩主保科正光に事情を話し、秀忠の内意も得た上で、保科家の養子とした。
寛永三年に於江与の方が亡くなった為、保科正光は秀忠の二男・忠長に異母弟に当る正之を引き会わせ、秀忠との仲介を依頼した。だが、寛永九年に秀忠は薨去、翌年、忠長も死去する。その様な中、三代将軍に就任した家光は、異母弟である保科正之に注目し、その人柄に深い信頼を寄せて行く。正之はそれ程の人物だった。後に家光は日光参詣には必ず正之を供奉させ、自らが江戸城を留守にする時は、必ず正之を留守居役に指名した。庶子として闇に葬られるかも知れなかった自分に絶大なる信頼を寄せる家光に対し正之は深く恩義を感じ、絶対の忠誠を心に刻んだのである。
慶安四年四月、家光は四十八歳で薨去。十一歳の家綱が四代将軍となった。臨終の場で家光は正之に、幼君家綱の輔佐を託した。爾来、六十歳となる寛文十年までの十九年、正之は会津に一度も戻る事無く、江戸で幕政の舵取りに全力を傾注した。文治と民政に力を注ぐ保科正之の政治によって「パクストクガワーナ」とも言うべき江戸泰平が生み出される。
寛文八年(一六六八)五十八歳を迎えた正之は、子孫の為に「家訓」を定めた。それは、幕府の第一の藩屏たらんと努めてきた正之の留魂の思いが込められたものだった。その冒頭に掲げられたのが、この言葉である。「大君」とは徳川幕府の将軍の事を指している。幕府に対する絶対の忠誠を子孫に示し、「列国」他藩の姿を見て、自らの忠誠を曲げてはならない、と固く言い残した。この藩祖正之の「家訓」によって会津藩は徳川将軍家と運命を共にする事が定まったのである。
幕末・文久二年、幕府の要請で会津藩が京都守護職を引き受けた際も、この家訓が最終決断を迫った。第九代松平容保は、保科正之の遺命を奉じて、尊王攘夷運動で混乱する京都の治安維持という「火中の栗」を、あえて拾ったのである。
心の捻じ曲がった者を採用してはならない。
一、士を選ぶに、便辟便佞の者を取るべからず。
(「家訓」)
会津藩「家訓」には十五条が記されている。全てが会津藩の中心に立つ子孫に対する戒めの言葉である。
①「大君の儀云々」に続けて、②武の備えは決して怠ってはならない。立派な士を選ぶことを基本とし、上下の分を乱してはならない。③兄を敬い、弟は愛しなければならない。④婦人や女子の言葉は一切聞いてはならない。⑤主人を重んじ、法を畏れなくてはならない。
⑥家中が風儀(行儀・作法)を励むようにしなければならない。⑦賄賂を授受したり、媚を売ってはならない。⑧依怙贔屓をしてはならない。⑨心の捻じ曲がった者を採用してはならない。⑩賞罰を定める場合、家老以外は参加させてはならない。位を乱す者には厳格に対応せよ。
⑪近侍者(お側近くで使える者)に人の善悪を告げさせてはならない。⑫政治を行う際、利害によって道理を曲げてはならないし、物事の評議を行う場合、私意をさしはさんで人の意見を拒否してはならない。思う所を隠さずに堂々と争わねばならない。いくら相争うからといって我意を通してはならない。⑬法を犯す者は許してはならない。⑭社倉は民衆の為、人々の永久の利益の為に置いてあるのだから、飢饉の年にはすぐに、放出して人々を救わねばならない。他の事に流用してはならない。⑮もし、これらの志を失って、遊びや安楽を好み、権勢に奢り贅沢に耽って士民を治める事が出来なくなってしまえば、何の面目あって封土を戴き土地を領しているか解らなくなってしまう。その時は蟄居謹慎すべきである。
これらの十五カ条は全てが、保科正之の体験から生まれた政治哲学であった。「仁」の体現者たらんとした正之の公平無私の精神が全体に漲っている。
その中でも、⑨に言う「便辟便佞の者を取るべからず。」には正之の武士観が良く表されている。便辟とは「人の嫌う事を避けて媚びる事」便佞とは「口先が巧みで人の気に入るように立ち回り、心の拗けている事」の意味である。共に「心の捻じ曲がった者」の事だ。論語に言う「巧言令色少なし仁」の徒である。その様な者達は、主君の覚え目出度い身近な中から現われて来る。それ故、正之は④で婦人・女子、⑩で位を乱す者、⑪で近侍者の、分を越えた発言を厳しく戒めている。
忠孝・武芸・礼儀が会津藩の教育理念
忠孝を専らにし、常に武芸に心懸け、礼儀を乱すべからざる事
(寛永十四年十一月布告)
『会津藩教育考』によれば、正之の教育に関する布告の初出は、会津に国替えされる前の山形藩主の時代、寛永十四年十一月の事である。その内容は「忠孝を専らにし、常に武芸に心懸け、礼儀を乱すべからざる事」という極めて簡潔なものだった。しかし、この「忠孝」「武芸」「礼儀」こそが、会津藩の武士道を形作って行く大きな三本柱に他ならない。
武士が着装する「袴」の折り目は、前が五つ、後ろが二つになっている。それは、前の五折が仁・義・礼・智・信の五常を表し、後ろの二折は忠・孝を表していると言われている。「忠」は「心+音符の中」で、「中身が充実して欠けめのない心のこと」を言い、「まごころ・偽りのない誠意・すみずみまで欠けめのないまごころ・君主に対して誠意を尽すこと」を言う(『漢字源』)。
「孝」は「老人の姿を示す老の字の上部+子」で、「子が心から親を大切にする。又、そのさま。又、親に仕える行為」を言う(同)。忠も孝も共に、真心が基礎となって表われて来る。その意味で、「忠孝を専らにする」とは、真心を尽して生きる事に他ならない。
幼い頃から自分に愛情を注いで育んでくれた、身近で大恩ある親に、真心を尽す素直な生き方が「孝」であり、社会に出て、自らが属し世話になる組織の中心者(武士にとっては藩主)に真心を尽す生き方が「忠」である。「忠臣は孝子の門から生れる」と言われるように、孝心篤い子供こそが忠臣となり得る。
正之は、忠孝に専ら励む真心の篤い人物。更には、武士としての職務とも言うべき武芸を常に心懸けて自らを磨き続ける努力家。しかも、自分の実力をひけらかす事のない、「礼儀」を決して乱さない、落ち着いた士を求めたのである。
今日の事で言えば、忠孝とは内面の真心であり、親や中心者に対するその実践を言う。武芸とは、武道を嗜み心身を鍛えると共に、現代は思想戦・言論戦であり、その闘士としての知識力・文筆力・演説力などを磨く事でもあろう。その上で、礼儀と言う「型」を身に付け、自己主張を抑えた心の慎みを持つ事である。
武士道を志す者には、「忠孝」「武芸」「礼儀」の有無が常に問われている。真心に溢れ、戦に備えて常に自らを磨き、礼儀正しい真日本人を目ざそうではないか。
民の安寧を第一と考えよ
官庫の貯蓄は此の如き変に当りて、士民を救助安堵せしめんが為なり。若し救はずんば、貯蓄せざるに如かず。
(『会津松平家譜』巻一)
武士道は、主君に対する忠義を基礎に成り立っている。それ故、主君の仁徳が大きな意味を持ってくる。葉隠の項でも記したが、佐賀藩歴代の殿様は仁慈深い名君だった。だから、死を厭わない葉隠武士が誕生した。戦前の日本軍が強かったのも、国民を常に思われる天皇の大御心への感激と、それを体現する部下思いの上官が多数存在したからである。
会津藩で、全国を凌駕する純粋な武士道が育まれたのは、歴代藩主の人徳、特に初代藩主、保科正之の精神に由る所が大きい。保科正之は幼少より学問を好み、四十歳を過ぎてからは特に儒学(朱子学)に傾倒した。儒学は「徳治主義」を理想とし、国家を治める者の第一に備えるべき徳目として「仁」を強調した。正之は「仁」を体現する政治を志した。正之は四代将軍徳川家綱の後見人として幕府の政務に携わり、かつ会津藩主として藩を治めたが、その際最も重視したのは、治められる者達の幸福と安寧であった。
明暦三年(1657)の江戸大火後の復興の中心に立った正之は、江戸城天守閣の造営などは全く考えず、参勤交代制度を逆利用して江戸の人口を減らし、物価を安定させると共に、被災民への粥の施し、旗本や町民の屋敷再建の為に膨大な費用を投下した。更には、今後の防火対策の為の町火消の創設、大江戸復興プランの作成、玉川上水工事などを行った。「官庫に食糧を貯蓄しているのは、この様な災害に当って、人々を救助し安堵させる為にある。若し民を救う事が出来ないなら、貯蓄していても意味がない。」と正之は述べ、人々の救済の先頭に立った。
この間、会津屋敷の消火に当った次男正頼が、風邪をこじらせて肺炎で亡くなるという悲劇が襲うが、正之は屋敷に戻る事も無く、公事に奔走したのだった。
わが藩は幕府への忠誠を第一とする。他藩を見て右顧左眄する必要は無い。
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず。
(「家訓」)
保科正之は慶長十六年に二代将軍秀忠の庶子(母親はお静)として誕生した。秀忠の正室於江与の方は極めて嫉妬深く、庶子の存在など決して認めない女性だった。そこで、子供の誕生は極秘とされ、武田信玄の二女に当る見性院に預けて養育された。正之七歳の時、見性院は人物を見込み、信州高遠藩主保科正光に事情を話し、秀忠の内意も得た上で、保科家の養子とした。
寛永三年に於江与の方が亡くなった為、保科正光は秀忠の二男・忠長に異母弟に当る正之を引き会わせ、秀忠との仲介を依頼した。だが、寛永九年に秀忠は薨去、翌年、忠長も死去する。その様な中、三代将軍に就任した家光は、異母弟である保科正之に注目し、その人柄に深い信頼を寄せて行く。正之はそれ程の人物だった。後に家光は日光参詣には必ず正之を供奉させ、自らが江戸城を留守にする時は、必ず正之を留守居役に指名した。庶子として闇に葬られるかも知れなかった自分に絶大なる信頼を寄せる家光に対し正之は深く恩義を感じ、絶対の忠誠を心に刻んだのである。
慶安四年四月、家光は四十八歳で薨去。十一歳の家綱が四代将軍となった。臨終の場で家光は正之に、幼君家綱の輔佐を託した。爾来、六十歳となる寛文十年までの十九年、正之は会津に一度も戻る事無く、江戸で幕政の舵取りに全力を傾注した。文治と民政に力を注ぐ保科正之の政治によって「パクストクガワーナ」とも言うべき江戸泰平が生み出される。
寛文八年(一六六八)五十八歳を迎えた正之は、子孫の為に「家訓」を定めた。それは、幕府の第一の藩屏たらんと努めてきた正之の留魂の思いが込められたものだった。その冒頭に掲げられたのが、この言葉である。「大君」とは徳川幕府の将軍の事を指している。幕府に対する絶対の忠誠を子孫に示し、「列国」他藩の姿を見て、自らの忠誠を曲げてはならない、と固く言い残した。この藩祖正之の「家訓」によって会津藩は徳川将軍家と運命を共にする事が定まったのである。
幕末・文久二年、幕府の要請で会津藩が京都守護職を引き受けた際も、この家訓が最終決断を迫った。第九代松平容保は、保科正之の遺命を奉じて、尊王攘夷運動で混乱する京都の治安維持という「火中の栗」を、あえて拾ったのである。
心の捻じ曲がった者を採用してはならない。
一、士を選ぶに、便辟便佞の者を取るべからず。
(「家訓」)
会津藩「家訓」には十五条が記されている。全てが会津藩の中心に立つ子孫に対する戒めの言葉である。
①「大君の儀云々」に続けて、②武の備えは決して怠ってはならない。立派な士を選ぶことを基本とし、上下の分を乱してはならない。③兄を敬い、弟は愛しなければならない。④婦人や女子の言葉は一切聞いてはならない。⑤主人を重んじ、法を畏れなくてはならない。
⑥家中が風儀(行儀・作法)を励むようにしなければならない。⑦賄賂を授受したり、媚を売ってはならない。⑧依怙贔屓をしてはならない。⑨心の捻じ曲がった者を採用してはならない。⑩賞罰を定める場合、家老以外は参加させてはならない。位を乱す者には厳格に対応せよ。
⑪近侍者(お側近くで使える者)に人の善悪を告げさせてはならない。⑫政治を行う際、利害によって道理を曲げてはならないし、物事の評議を行う場合、私意をさしはさんで人の意見を拒否してはならない。思う所を隠さずに堂々と争わねばならない。いくら相争うからといって我意を通してはならない。⑬法を犯す者は許してはならない。⑭社倉は民衆の為、人々の永久の利益の為に置いてあるのだから、飢饉の年にはすぐに、放出して人々を救わねばならない。他の事に流用してはならない。⑮もし、これらの志を失って、遊びや安楽を好み、権勢に奢り贅沢に耽って士民を治める事が出来なくなってしまえば、何の面目あって封土を戴き土地を領しているか解らなくなってしまう。その時は蟄居謹慎すべきである。
これらの十五カ条は全てが、保科正之の体験から生まれた政治哲学であった。「仁」の体現者たらんとした正之の公平無私の精神が全体に漲っている。
その中でも、⑨に言う「便辟便佞の者を取るべからず。」には正之の武士観が良く表されている。便辟とは「人の嫌う事を避けて媚びる事」便佞とは「口先が巧みで人の気に入るように立ち回り、心の拗けている事」の意味である。共に「心の捻じ曲がった者」の事だ。論語に言う「巧言令色少なし仁」の徒である。その様な者達は、主君の覚え目出度い身近な中から現われて来る。それ故、正之は④で婦人・女子、⑩で位を乱す者、⑪で近侍者の、分を越えた発言を厳しく戒めている。
忠孝・武芸・礼儀が会津藩の教育理念
忠孝を専らにし、常に武芸に心懸け、礼儀を乱すべからざる事
(寛永十四年十一月布告)
『会津藩教育考』によれば、正之の教育に関する布告の初出は、会津に国替えされる前の山形藩主の時代、寛永十四年十一月の事である。その内容は「忠孝を専らにし、常に武芸に心懸け、礼儀を乱すべからざる事」という極めて簡潔なものだった。しかし、この「忠孝」「武芸」「礼儀」こそが、会津藩の武士道を形作って行く大きな三本柱に他ならない。
武士が着装する「袴」の折り目は、前が五つ、後ろが二つになっている。それは、前の五折が仁・義・礼・智・信の五常を表し、後ろの二折は忠・孝を表していると言われている。「忠」は「心+音符の中」で、「中身が充実して欠けめのない心のこと」を言い、「まごころ・偽りのない誠意・すみずみまで欠けめのないまごころ・君主に対して誠意を尽すこと」を言う(『漢字源』)。
「孝」は「老人の姿を示す老の字の上部+子」で、「子が心から親を大切にする。又、そのさま。又、親に仕える行為」を言う(同)。忠も孝も共に、真心が基礎となって表われて来る。その意味で、「忠孝を専らにする」とは、真心を尽して生きる事に他ならない。
幼い頃から自分に愛情を注いで育んでくれた、身近で大恩ある親に、真心を尽す素直な生き方が「孝」であり、社会に出て、自らが属し世話になる組織の中心者(武士にとっては藩主)に真心を尽す生き方が「忠」である。「忠臣は孝子の門から生れる」と言われるように、孝心篤い子供こそが忠臣となり得る。
正之は、忠孝に専ら励む真心の篤い人物。更には、武士としての職務とも言うべき武芸を常に心懸けて自らを磨き続ける努力家。しかも、自分の実力をひけらかす事のない、「礼儀」を決して乱さない、落ち着いた士を求めたのである。
今日の事で言えば、忠孝とは内面の真心であり、親や中心者に対するその実践を言う。武芸とは、武道を嗜み心身を鍛えると共に、現代は思想戦・言論戦であり、その闘士としての知識力・文筆力・演説力などを磨く事でもあろう。その上で、礼儀と言う「型」を身に付け、自己主張を抑えた心の慎みを持つ事である。
武士道を志す者には、「忠孝」「武芸」「礼儀」の有無が常に問われている。真心に溢れ、戦に備えて常に自らを磨き、礼儀正しい真日本人を目ざそうではないか。
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