「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

武士道の言葉 その18 「薩摩武士道」その2

2014-08-04 17:13:31 | 【連載】武士道の言葉
薩摩武士道 その二(『祖国と青年』平成26年1月号掲載)

平和な時でも、乱れた世の中にあっても、勇断の出来ない人間は役に立たない。
勇断なき人は事を為すこと能はざるなり、治乱共に勇断なき人は用に立たざるなり。(『島津斉彬言行録』巻之五)

 幕末期に薩摩がリーダーシップを発揮できたのは、時代の先を読み、それに対応すべく藩を方向付けた名君・第二十八代藩主島津斉彬が居たからに他ならない。斉彬は、その先見性、構想力、実行力に於てずば抜けた人物だった。

嘉永四年(1851)に藩主となった斉彬は、西欧列強の圧迫により、わが国は数年の後には必ず乱世になると予見し、藩の富国強兵に着手する。斉彬は安政五年(1858)七月に急逝するが、この間、西欧の軍事・技術力の積極的な摂取に尽力した。

精錬所・反射炉の建設、写真、電信機、電気、ガス灯、紅色ガラス精錬、綿火薬、鉱山調査開堀等を行い、様々な物産の開発に取り組んだ。西洋の軍事力の根元は、軍艦に有りとして、蒸気船雛形を創建し、オランダ人から蒸気船製造等の伝習、更には琉球を仲介として仏国から軍艦と小銃製造機械を購入せんとした。もし、仏国が売らないなら、支那の福建まで藩士を派遣して他の外国から購入する事まで考えた。軍制も改革し、洋式砲を採用、鹿児島湾の堡塁建設、水軍建設も志した。琉球と奄美大島と山川港を対外貿易の拠点として対外貿易に着手する事も考え、藩士の英米仏への留学迄企画した。

 現在我々が飲んでいる芋焼酎も斉彬の考案による。元々は軍事上の要請で、鉄砲の発火に必要な雷粉製造に多量のアルコールが必要だった為、食糧として不足がちな米に代って甘藷(芋)からの製造を命じた。それが芋焼酎を生んだ。

欧米文明の積極的摂取には膨大な財源が必要だった。心配する家臣に斉彬は、琉球貨幣の鋳造権を幕府から承認してもらっている、とその手の内を示し、更には最新式の銃を自力生産出来れば、国内諸藩のみならず支那でも需要があり、販売で利益が上がると答えている。総てが、斉彬の「勇断」力が為した業である。





正義のある所だけを見定めて立ち、信念を持って動かない
義を以て立ち確乎として動かず
(西郷隆盛 慶応元年十一月十一日書簡)

 斉彬によって抜擢され、教を受けて成長し、後に薩摩の支柱となったのが西郷隆盛である。

二度の島流しを経た西郷が、薩摩藩を背負い京都の政局の中心に立ったのが、元治元年(1864)三月十四日である。西郷は藩の軍賦役(軍の責任者)に就任する。その四か月後に禁門の変が起つた。

長州藩が無罪を訴えて軍隊を京都周辺に集結、幕府は長州征討を薩摩に要請するが、西郷は、「この戦は、会津と長州の私闘である」として中立の立場を主張、但し、朝廷が危くなった時は、断乎守護するとの立場を取った。実際、御所に長州藩が攻め入った際に反撃して打ち破った。

幕府は長州の残兵掃蕩を薩摩に要求するが、西郷は断った。その後、勅許によって長州の罪を糺す征討軍が編成され、西郷は参謀となる。西郷は、長州藩の親戚筋である岩国藩を通じて長州藩の謝罪恭順を実現し、戦火を交える事無く征討軍を解兵した。

 慶応元年(1865)三月、幕府は帰順降伏した水戸天狗党の志士達の多くを斬罪に処し、残りを流罪・追放処分として、薩摩藩にも三十五人を受け取る様に通告してきた。

西郷は「古来より降人を苛酷に扱う事は聞いたことが無い。」「わが藩に於ては降人を厳しく扱う事は出来かねるので断乎お断りする。」とその申し出を拒絶している。西郷は幕府の姿勢に非道を感じ取ったのである。

更に幕府は自らの力を誇示す可く、再び長州征討を発令する。幕府の私心と慢心とを見取った西郷は、幕府の征討軍出兵要請も断固はねのける。もはや幕府にはわが国を動かす資格は無いと判断した西郷は、斉彬公の遺訓とも言うべき「列藩会議」によるわが国の舵取りを構想推進する。

ここで紹介した言葉は、京都の西郷が鹿児島に居る側役の蓑田伝兵衛に送った手紙の一節である。西郷は、幕府の衰亡の予兆を記し、「この時に当っては理を尽して進み、勢いを詳らかにして動くべきと思っています。当分の所、一言発するには大義名分を明かにして、義を以て立ち確乎として動かずに諸藩を圧倒している姿にあります」と述べて居る。

西郷の面目は、正義正論を断固として主張し、決して曲げない所にある。その姿が人を惹きつけ、維新の主導権を生み出した。我々の運動もかくありたいものである。





因循姑息な議論を述べられたので、幾度も繰返して反論し、遂にご了解頂いた
因循の御論相立居り候に付、反復御議論申上げ、数刻に及び候処、御了解あらせられ
(「大久保利通日記」慶応三年十二月一日)

 西郷と表裏一体となって維新を為し遂げたのが三歳年下の大久保利通である。

大久保利通というと、権力至上主義の冷酷な才子のイメージが強いが、実際は薩摩武士らしい胆力ある人物であった。

明治維新に向う時の西郷と大久保は分身の様に志を共にして薩摩藩を引っ張って行く。島津久光の側近となった大久保は藩論を固め、その間西郷が京都で他藩との折衝に当った。西郷が鹿児島に戻れば入れ代り大久保が京都に入った。二人の間には状況を報告し合う手紙が頻繁にやり取りされている。重大な事態の生じた時には二人共京都に詰めてそれぞれの役割を担った。見事な連携である。

二人が頻繁に京都と鹿児島を行き来出来たのは薩摩藩が蒸気船を持っていたからである。

慶応二年以降は、大久保も京都での政治工作に従事する事が多くなる。大久保は幕府の老中を相手にしても、朝廷の関白や公家を相手にしても、全く臆する事もなく、持論を曲げずに相手を説得する迫力と意志の強さを備えていた。

 慶応三年(1867)十月十五日徳川慶喜は大政を奉還する。その結果十三日に出された倒幕の密勅は効力を失い、薩摩藩の工作はじり貧となって慶喜が主導権を握る。

そこで大久保は岩倉具視と計り、十二月八日の王政復古を計画した。だが、この間、同意したはずの公家達に動揺が走る。

十二月一日の大久保日記には「中山卿(忠能)の所に伺った。ご意見をお聞きした所、因循の論を立てられるので、反復して議論を申し上げ数刻に及んだ結果、漸くご了解戴く事が出来た。」とある。大久保の説得の力が公家達の動揺を抑え、王政復古まで持って行く。土佐藩の後藤象二郎は「大久保と議論を上下するときは、丸で巌石にでもぶつかるような心地がし」たと、述べている。

明治維新後の話だが、東京遷都を実現する為に大久保が東京に先行した所、京都では公家達が反対運動を起し混乱が生じた。そこで大久保は直ぐに京都に戻った。大久保が現われただけで、反対論は萎み、翌日には東京遷都が実行されたという。大久保の人物力、言論力を物語るエピソードである。

 大久保は決して弁舌爽やかな方ではなかった。だが、信念に裏打ちされた言論は遂に国家を動かしたのである。





一筋の道を貫いて年を重ねてきた生き方は、青柳の細い枝葉が風に乱れない様に、か細くとも決して他に乱される事はない
一筋の道に年ふる青柳の糸は風にも乱れざりけり(山田歌子)

 鹿児島のジャーナリストの日高旺は、薩摩の女性の生き方を「勁節」という言葉で表現している。それは、精神的にしなやかだが、少々の事では折れない内面的な勁さをもった女性という意味である。

 島津斉彬が藩主になる前に薩摩藩では内争があり、斉彬派が大量に弾圧される事件があった。その時首謀者の一人の山田清安は切腹に処せられ、妻の歌子は種子島に流された。歌子は和歌を良くし、歌子を迎えた種子島では歌壇の歌風が変ったという。種子島で生涯を終えた歌子のこの歌には「勁節」が良く表されている。

 桜田門外の変に加わり、井伊大老の首級を挙げた薩摩藩士・有村次左衛門の母・れんが次左衛門に宛てた手紙と和歌も有名である。れんは次左衛門に「江戸表が何かと難しくなり、事に臨んでは一歩も引かない申されたことは、良く解りました、嬉しく思います」と励まし、次の歌を詠んだ。

 雄々しくも君に仕ふるもののふの母てふものはあはれなりけり

 明治十年、西南戦争が勃発し、薩摩の男たちは西郷隆盛に従って多数が出陣し、その内の多くが戦場に倒れた。自分の夫や肉親の所在が解らない薩摩の女性達は、戦場まで歩いて探し回り、遺骨を故郷の地に連れ帰っている。その中でも種子島から熊本まで夫を捜しに赴いた武田ツルの話は壮絶である。

夫・精一の戦死の報を伝え聞いたツルは、周囲の反対を押し切り、老父母と子供を実家に預け、生後六か月の四男を背に負って種子島を出発した。船に乗って鹿児島まで渡り、更に熊本郊外の古戦場までは徒歩で向かった。長嶺の戦場に到達したツルは、おびただしい遺骨を葬った穴を一つ一つ人夫を雇って掘り起して行った。唯一の手掛かりは夫が家を出る時に身に付けた木綿の綿入れの柄であった。

そして、遂に見つけ出し、遺骨を持ち帰ったのである。種子島に戻るまで三十七日の行程であった。ツルの歌が残されている。

 打ちむれて蛙鳴くさへ恨めしや君に離れし我身と思へば

 ぬば玉の今宵も月は澄みぬれど露と消えにし君は帰らず

 この様な薩摩女性の情愛の深さと内面の強さが、薩摩武士の魂を育み、維新を主導する立派な人材を生み出したのだ。

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