日本浪漫派
蓮田 善明(はすだ ぜんめい)T12卒
「敗戦後ジョホーバルにて、上官の「日本精神の壊滅」発言が許せずに射殺し、自らも自決する」
蓮田善明は明治37年に鹿本郡植木町(現・熊本市北区)に生まれる。大正6年に済々黌に入学、級友等と回覧雑誌を作り、短歌・俳句・詩を発表する。肋膜炎の為半年休学。大正14年に広島高等師範学校文科第一部(国語漢文専攻)に進学。校友会誌の編集に携わり詩や小説、評論等を発表し、文名を謳われる。卒業後の昭和2年、鹿児島の歩兵第45連隊に幹部候補生として入隊。翌年除隊し、岐阜県立第二中学校の国語教員として赴任する。4年には長野県立諏訪中学校に転任。7年、広島文理科大学国語国文科に入学。在学中評論活動に勤しむ。10年に卒業し台中商業学校に赴任。13年4月には成城高等学校に転任。清水文雄等と「日本文学の会」を結成し、同人月刊誌を発刊。10月には熊本歩兵第13連隊に入隊する。翌年には中支戦線に出征し湖南省洞庭湖東部で従軍する。15年9月の渡河作戦で右腕前膊貫通銃創を負い、12月に除隊し熊本に帰還する。
16年2月に上京し文芸活動を行う。当時学習院中等科の学生だった平岡公威(三島由紀夫)の才能に注目し『文藝文化』に平岡の作品「花ざかりの森」の連載を決定する。17年には日本文学報国会の発会式で「古典の精神による皇国文学理念の確立」のテーマで提言を行い獅子吼する。各誌で旺盛な執筆活動を行う。18年には『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事記学抄』等を刊行する。
この年の10月に第二次召集となり、陸軍中尉として熊本の西部第十六部隊に配属、濠北派遣第四十六師団の歩兵第一二三聯隊、第三中隊第一小隊長に任じられた。中隊長の鳥越大尉はかつての中支戦線での上官であり、蓮田の人格と国学の知識を買っており、今回も部隊の教育関係を任せる為に蓮田を自隊の所属に希望したのだった。19年1月にインド洋小スンダ列島のスンバ島に上陸し約1年3か月駐屯する。20年3月にシンガポールに転進、マレー半島に移り、新たに編成された迫撃砲兵一個大隊の中隊長に就任。ここで終戦を迎えた。
しかし不敗を誇る士気旺盛な熊本歩兵部隊は、一旦は矛を収めるも、連合軍により天皇に戦争責任が負わされる場合を危惧し、軍独自の行動として板垣征四郎大将をいただき最後の一兵まで抗戦すべしと意気に燃えていた。極秘に鳥越大尉により抵抗部隊が編成されつつあり、蓮田はその抵抗部隊の大隊長に擬せられていた。この不穏な動きを察知した連隊長の中条豊馬大佐は、抵抗部隊編成を制止する為、下士官以上を集め、8月18日に軍旗告別式を決行し、訓示をした。その時に「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。
中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、あまりの豹変と変節ぶりに多くの青年将校は憤った。中でも蓮田中尉の激昂は凄まじく、その集会の直後にくずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱いて、「大尉殿!無念であります」と哭泣した。その上、中条大佐の日頃の言動には不審な所が多かったため、蓮田は中条大佐を国賊と判断した。そして、中条を斃して自らも「護国の鬼」となって死ぬことを決意した。
8月19日の昼、鳥越大尉の副官室での昼食時、連隊長の言を支持し、生きて帰れる為には天皇や日本精神など不要だと極言する高木大尉と口論になった。蓮田は「生きて帰ろうと、死んで帰ろうと、我々は日本精神だけは断じて忘れてはならん!」と声を荒げた。
その後、中条連隊長が連隊本部から出かける為に車に乗車するのを待っていた蓮田は、背後に躍り出て「国賊!」と叫んで拳銃を二発連発して中条を射殺した。そして、築山まで身を避け自らのこめかみに銃を当てて自決した。享年41歳だった。その時、左手には〈日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる〉という文意の遺歌と、「国に遺した妻子のことを思わぬでもないが、これが自分の行く道だから」という意味のことを記した一枚の葉書を握りしめていた。
蓮田の遺体は戦友たちにより、現地ジョホールバルで荼毘にふされた。英国軍が遺骨の持ち帰りを禁止したため、やむなく遺骨はシンガポールのゴム林の中に葬られた。
蓮田が死んだ日は朝から曇りで、夕方から雨が降り出した。本部付の下士官が就寝前に外庭に出ると、玄関前から飛び立つ火の玉があったという。後藤軍曹は、「蓮田中隊長の魂が祖国日本に向かって昇天した」と綴っている。ちょうどその日あたり、植木町にいる敏子夫人が夜、庭の方を眺めていると、阿蘇の方角から両手に抱えるほどの大きさの火の玉が飛んで来た。また、ある日夫人は不思議な夢を見た。それは明け方、ふと気づくと枕元に軍装の夫が佇んでいたので「お帰りなさい」と挨拶すると、蓮田の姿は崩折れるようにその身を沈めて消え、その瞬間に夢から覚めたというものだったと言う。
【遺詩歌・遺文より】
〈皇居を拝してかへるさ〉(二回目の召集に際し)
妻よ この大前に敷かれたる
さゞれ石のうるはしからずや
汝が手に一にぎり拾ひて
われと汝と分たん
汝が手なるは稚子(わくご)らにも分てよ
さゞれ石
あゝ 大前のさゞれ石
円(つぶ)らかに 静かに
ありがたきかな
わがいたゞきもちて
行く 三粒四粒
〈南方への船中や赴任地で詠んだ歌〉
いでてゆく車の窓をやゝさけて父を送りし子の頬(ほ)忘れず
子の母も知らぬ隅までこれも彼も父に似たりし子をば忘れず
頑(かたく)なのわが性(さが)に似てわが父の性にまた似し子をば忘れず
すめ神のしらせる国は思ふ毎に尊くうれしくおらび泣くべし
ふるさとの駅に下りたちながめたるかの薄紅葉忘らえなくに
※この歌の歌碑が植木町の田原坂公園に建てられている。
田に畑にみのり足らへるふるさとの秋のけしきの忘らえなくに
たまさかに帰りしわれをなさけあるふるさとびとは迎へたまへり
海のごとしづみてくろき山なみにかゝりて大き星の空かも
あかぼしのかげさす道をたどりつゝうたへどひとのとがめせぬかも
〈戦地から子供達への手紙〉
●晶一が読んできかせて下さい。
みんな元気ですか、寒い寒いといつてゐることでせうね。泣いたりしてはだめですよ。強い人になりなさい。お父さんのゐる近所の植物園にはお猿さんが勝手にあそんでゐます。おいしい果物があります。バナナ、パイナップル、マンゴー、マンゴスチン、ドリアン、そのほかいろいろ、皆たべてみました。西瓜は日本のやうにおいしくありません。おまへたちに山ほど送つてあげたいといつもお父さんは思つてゐますが、残念です。おまへたちも大きくなつてお父さんの行つてゐる所にきて下さい。晶一は一番に来れるかもしれませんね。体をしつかり鍛へて、勉強しなさい。日本がもつともつと強くなるために皆でがんばりませう。先日プールに行きました。海水プールで水がきれいです。お父さんも兵隊さんと高い所から飛び込みをしました。晶一がゐたらどんなに喜ぶだらうと思ひました。さやうなら、お母さんを大事になさい。 十二月十二日(昭和十八年)
●太二君も二年生になつて元気でゐるここと思ひます。新夫君はあひかはらずわるん坊でせうね。兄さんと三人で心をあはせてお母さんを守つて、お父さんがゐなくてもりつぱな人になりなさい。兄弟三人で心と力を合せたらほんとうに強くなれます。四十七士もうち入りの時は三人ぐみになつてたゝかつたさうですよ。お父さんは元気です。家のまはりの林にはお猿さんが一杯ゐます。豚さんも時々歩いてゐます。一メートルばかりの大とかげも。太二君の好きな河馬さんはゐません。さやうなら。 昭和十九年八月二十六日
蓮田 善明(はすだ ぜんめい)T12卒
「敗戦後ジョホーバルにて、上官の「日本精神の壊滅」発言が許せずに射殺し、自らも自決する」
蓮田善明は明治37年に鹿本郡植木町(現・熊本市北区)に生まれる。大正6年に済々黌に入学、級友等と回覧雑誌を作り、短歌・俳句・詩を発表する。肋膜炎の為半年休学。大正14年に広島高等師範学校文科第一部(国語漢文専攻)に進学。校友会誌の編集に携わり詩や小説、評論等を発表し、文名を謳われる。卒業後の昭和2年、鹿児島の歩兵第45連隊に幹部候補生として入隊。翌年除隊し、岐阜県立第二中学校の国語教員として赴任する。4年には長野県立諏訪中学校に転任。7年、広島文理科大学国語国文科に入学。在学中評論活動に勤しむ。10年に卒業し台中商業学校に赴任。13年4月には成城高等学校に転任。清水文雄等と「日本文学の会」を結成し、同人月刊誌を発刊。10月には熊本歩兵第13連隊に入隊する。翌年には中支戦線に出征し湖南省洞庭湖東部で従軍する。15年9月の渡河作戦で右腕前膊貫通銃創を負い、12月に除隊し熊本に帰還する。
16年2月に上京し文芸活動を行う。当時学習院中等科の学生だった平岡公威(三島由紀夫)の才能に注目し『文藝文化』に平岡の作品「花ざかりの森」の連載を決定する。17年には日本文学報国会の発会式で「古典の精神による皇国文学理念の確立」のテーマで提言を行い獅子吼する。各誌で旺盛な執筆活動を行う。18年には『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事記学抄』等を刊行する。
この年の10月に第二次召集となり、陸軍中尉として熊本の西部第十六部隊に配属、濠北派遣第四十六師団の歩兵第一二三聯隊、第三中隊第一小隊長に任じられた。中隊長の鳥越大尉はかつての中支戦線での上官であり、蓮田の人格と国学の知識を買っており、今回も部隊の教育関係を任せる為に蓮田を自隊の所属に希望したのだった。19年1月にインド洋小スンダ列島のスンバ島に上陸し約1年3か月駐屯する。20年3月にシンガポールに転進、マレー半島に移り、新たに編成された迫撃砲兵一個大隊の中隊長に就任。ここで終戦を迎えた。
しかし不敗を誇る士気旺盛な熊本歩兵部隊は、一旦は矛を収めるも、連合軍により天皇に戦争責任が負わされる場合を危惧し、軍独自の行動として板垣征四郎大将をいただき最後の一兵まで抗戦すべしと意気に燃えていた。極秘に鳥越大尉により抵抗部隊が編成されつつあり、蓮田はその抵抗部隊の大隊長に擬せられていた。この不穏な動きを察知した連隊長の中条豊馬大佐は、抵抗部隊編成を制止する為、下士官以上を集め、8月18日に軍旗告別式を決行し、訓示をした。その時に「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。
中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、あまりの豹変と変節ぶりに多くの青年将校は憤った。中でも蓮田中尉の激昂は凄まじく、その集会の直後にくずれて膝を床につき、両腕で大隊長・秋岡隆穂大尉の足を抱いて、「大尉殿!無念であります」と哭泣した。その上、中条大佐の日頃の言動には不審な所が多かったため、蓮田は中条大佐を国賊と判断した。そして、中条を斃して自らも「護国の鬼」となって死ぬことを決意した。
8月19日の昼、鳥越大尉の副官室での昼食時、連隊長の言を支持し、生きて帰れる為には天皇や日本精神など不要だと極言する高木大尉と口論になった。蓮田は「生きて帰ろうと、死んで帰ろうと、我々は日本精神だけは断じて忘れてはならん!」と声を荒げた。
その後、中条連隊長が連隊本部から出かける為に車に乗車するのを待っていた蓮田は、背後に躍り出て「国賊!」と叫んで拳銃を二発連発して中条を射殺した。そして、築山まで身を避け自らのこめかみに銃を当てて自決した。享年41歳だった。その時、左手には〈日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる〉という文意の遺歌と、「国に遺した妻子のことを思わぬでもないが、これが自分の行く道だから」という意味のことを記した一枚の葉書を握りしめていた。
蓮田の遺体は戦友たちにより、現地ジョホールバルで荼毘にふされた。英国軍が遺骨の持ち帰りを禁止したため、やむなく遺骨はシンガポールのゴム林の中に葬られた。
蓮田が死んだ日は朝から曇りで、夕方から雨が降り出した。本部付の下士官が就寝前に外庭に出ると、玄関前から飛び立つ火の玉があったという。後藤軍曹は、「蓮田中隊長の魂が祖国日本に向かって昇天した」と綴っている。ちょうどその日あたり、植木町にいる敏子夫人が夜、庭の方を眺めていると、阿蘇の方角から両手に抱えるほどの大きさの火の玉が飛んで来た。また、ある日夫人は不思議な夢を見た。それは明け方、ふと気づくと枕元に軍装の夫が佇んでいたので「お帰りなさい」と挨拶すると、蓮田の姿は崩折れるようにその身を沈めて消え、その瞬間に夢から覚めたというものだったと言う。
【遺詩歌・遺文より】
〈皇居を拝してかへるさ〉(二回目の召集に際し)
妻よ この大前に敷かれたる
さゞれ石のうるはしからずや
汝が手に一にぎり拾ひて
われと汝と分たん
汝が手なるは稚子(わくご)らにも分てよ
さゞれ石
あゝ 大前のさゞれ石
円(つぶ)らかに 静かに
ありがたきかな
わがいたゞきもちて
行く 三粒四粒
〈南方への船中や赴任地で詠んだ歌〉
いでてゆく車の窓をやゝさけて父を送りし子の頬(ほ)忘れず
子の母も知らぬ隅までこれも彼も父に似たりし子をば忘れず
頑(かたく)なのわが性(さが)に似てわが父の性にまた似し子をば忘れず
すめ神のしらせる国は思ふ毎に尊くうれしくおらび泣くべし
ふるさとの駅に下りたちながめたるかの薄紅葉忘らえなくに
※この歌の歌碑が植木町の田原坂公園に建てられている。
田に畑にみのり足らへるふるさとの秋のけしきの忘らえなくに
たまさかに帰りしわれをなさけあるふるさとびとは迎へたまへり
海のごとしづみてくろき山なみにかゝりて大き星の空かも
あかぼしのかげさす道をたどりつゝうたへどひとのとがめせぬかも
〈戦地から子供達への手紙〉
●晶一が読んできかせて下さい。
みんな元気ですか、寒い寒いといつてゐることでせうね。泣いたりしてはだめですよ。強い人になりなさい。お父さんのゐる近所の植物園にはお猿さんが勝手にあそんでゐます。おいしい果物があります。バナナ、パイナップル、マンゴー、マンゴスチン、ドリアン、そのほかいろいろ、皆たべてみました。西瓜は日本のやうにおいしくありません。おまへたちに山ほど送つてあげたいといつもお父さんは思つてゐますが、残念です。おまへたちも大きくなつてお父さんの行つてゐる所にきて下さい。晶一は一番に来れるかもしれませんね。体をしつかり鍛へて、勉強しなさい。日本がもつともつと強くなるために皆でがんばりませう。先日プールに行きました。海水プールで水がきれいです。お父さんも兵隊さんと高い所から飛び込みをしました。晶一がゐたらどんなに喜ぶだらうと思ひました。さやうなら、お母さんを大事になさい。 十二月十二日(昭和十八年)
●太二君も二年生になつて元気でゐるここと思ひます。新夫君はあひかはらずわるん坊でせうね。兄さんと三人で心をあはせてお母さんを守つて、お父さんがゐなくてもりつぱな人になりなさい。兄弟三人で心と力を合せたらほんとうに強くなれます。四十七士もうち入りの時は三人ぐみになつてたゝかつたさうですよ。お父さんは元気です。家のまはりの林にはお猿さんが一杯ゐます。豚さんも時々歩いてゐます。一メートルばかりの大とかげも。太二君の好きな河馬さんはゐません。さやうなら。 昭和十九年八月二十六日
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