「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

何故、陽明学は日本人の行動哲学になったのか

2010-03-15 10:13:46 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第十一回(『祖国と青年』22年3月号掲載)

陽明学と日本人 
何故、陽明学は日本人の行動哲学になったのか

 四月号からは明治維新の人物を取り上げて行く。今回はその事前学習として、陽明学が日本人の行動哲学として広く浸透した要因について考えて行きたい。
 
   日本歴史の特性

 坂本太郎氏は、「日本歴史の特性」として「連綿性」「躍進性」「中和性」を上げられている。日本では万世一系の皇室を始めとして各地の神社や仏閣、律令的な政治制度、文化財など、長い歴史を有するものが「連綿」として存続している。その一方で、飛鳥・奈良時代(遣隋使・遣唐使)、安土・桃山時代(南蛮文化・鉄砲)、明治・大正時代(文明開化)など、自分より優れていると見做した外来文化を積極的に学び吸収して行く「躍進」の時が現れる。だが異国から吸収した文明は時間をかけて取捨選択されて日本に相応しい内容へと「中和」化されて行く。唐風文化摂取後の平安時代の国風文化、南蛮文化吸収後の鎖国政策下での江戸国風文化が生まれている。

陽明学が日本に定着し、日本人の行動哲学となったのは、この江戸時代の国風文化興隆の流れの中で行われた。「中和」化の中に民族の土着的なものが顕れて来るのである。キリスト教でもギリシャやロシアの「正教」と温暖なイタリアやフランスに定着した「カソリック」とアルプス以北の寒冷の地に花開いた「プロテスタント」では、異なってくる。イスラム教でもアラビア民族の「スンニ派」とペルシャ民族の「シーア派」は対立し、東南アジアのイスラム教になると中東の如き過激さが薄れ日本人にも身近に感じられるという。普遍宗教と言っても、熊沢蕃山の言う「水土」、和辻哲郎博士の言う「風土」への適応なくしては定着できないのである。

陽明学は、日本へ伝来すると共に、日本の風土、日本人の心性に合わせた形で受用されて行ったのである。支那大陸と日本では陽明学の展開に異同が生じて来る。

 国史学の泰斗・平泉澄博士は、日本人は長い歴史の中で様々な外来文化との接触により重層的な価値観を培って来たとして、太古から順に「純」(古代・自然)「美」(上代・芸術)「聖」(中世・仏教)「善」(近世・儒教)「真」(近現代・科学)の価値観を指摘されている。これらの価値観が日本人の血の中に積み重ねとして稀有な感性を先天的に与えている。日本では、仏教の日本化が先行して「聖」なる感性が庶民まで広がる。その基盤の上で江戸時代に、武士から庶民に至る迄「善」なる価値の深化が行われた。今日に至る日本人の道徳観念には、江戸時代の儒学の影響が大きく作用している。

    外来思想の日本化

 仏教の日本化は、平安時代の山岳仏教(比叡山延暦寺・高野山金剛峰寺等)、鎌倉時代の禅宗(臨済宗・曹洞宗等)と念仏宗(浄土宗・浄土真宗等)題目宗(日蓮宗)によって行われ、庶民に迄浸透して行った。その特長は「自然との融合」と「簡略化・実践化」である。これらは、簡易さを好み行を好む日本人の心性に適合した。

 儒学の日本伝来も仏教と時を同じくしていたが、儒学は宗教としてではなく、仏教を補佐する学問として朝廷や寺院の知識人の間で学ばれていた。支那大陸に於ても儒学は漢代に国教化し知識人や官僚の必須教養となったが、後漢以降は仏教や道教が人々の心を摑んで行く。仏教の深い哲理に対抗して、儒学に哲学的な要素を加えて形而上学化したのが宋代の新儒学・朱子学である。更には、朱子学の知性偏重に警鐘を鳴らし、心の活力を説いた明代の陽明学が誕生する。陽明学には禅の影響が伺われる。朱子学・陽明学共に仏教を乗り越える学問として教えが説かれた。

朱子学が日本に入って来たのは鎌倉末期である。建武の中興の立役者達は朱子学の大義名分論を学んだと言われている。陽明学は、戦国時代に入って来る。だが、新儒学が日本人に深く浸透して行くには江戸太平の世を待たねばならなかった。儒学は江戸時代に、日本の統治機構を担う武士の倫理規範として修己治人の学問として実践されて行く。朱子学は藤原惺窩(京学)や谷時中(南学)等の指導者によって多くの門人を生み出し、陽明学は中江藤樹を祖とし、熊沢蕃山や淵岡山(江西学派)によって受け継がれて行く。朱子学も陽明学も同じ儒学であり、相補う形で学ばれて行った。

当初、支那の聖人を理想と仰ぐ儒学は、支那文明への憧れと自国を蔑する「慕夏主義」を生んだ。だが、支那大陸で蛮族の女真が明を滅ぼし清が誕生した(一六六二年)事は、日本人の自己認識に大きな影響を与えた。聖人君子が統治する王道の国は支那大陸には存在せず、万世一系の天皇を戴くわが国こそが中華(世界の中心の国)であるとの自覚が生まれて来る。儒学教義の中和化・日本化である。朱子学の山崎闇斎は日本の自主性に立ち帰って神道を極め(垂加神道)崎門学派を起した。伊藤仁斎は朱子学に文献的批判を加えて、孔子・孟子に直接学ぶ「古学」を唱えた。

同じ古学派の山鹿素行は『聖教要録』で朱子学を否定し、更には『中朝事実』を著して「日本国こそが歴史事実に於いて中華の国である」と主張した。陽明学では熊沢蕃山が水土論に基づく日本主義を唱えた。又、儒学から倫理的要素を捨象して、政治思想として扱う荻生徂徠の古文辞学迄生まれた。更には、朱子学を中心に神儒仏の教えを総合して庶民に心の在り方を説く「心学」が石田梅岩・手島堵庵の手によって生み出されて行く。江戸期の儒学は日本的な展開を持って、武士から庶民迄広がり、日本人の倫理観の基礎を確立して行く。正に、日本文明の持つ多様性と中和力が発揮されて行く。お隣の李氏朝鮮では、明の滅亡が「小中華」意識を生み出し、朱子学一辺倒になって行った。その硬直性が明治維新期の両国の差を生み出したのである。

   神道と陽明学

 この様な中、日本陽明学の特徴として上るのは、決して朱子学を否定せずに、聖人に至る為にその長所を学ぶという柔軟性・寛容性である。陽明学一辺倒ではなく、自らの求道の導きの人物として王陽明を位置付けている。更に顕著なのは、陽明学を学ぶ人々には神道に対する共感が強い事である。陽明学の説く教義と神道の考え方には共通の世界観が伺われる。

神道では、神々に相対するに際し、何よりも祓い清めを大切にする。日本国の中心神である天照大御神は、父親であるイザナギノミコトの徹底した祓い清めの後に誕生される。自らを清め尽した後に太陽の如き光り輝く神が誕生するのである。人間も元来神の生命と繋がり、光り輝く生命を与えられている。だが、その神の生命は世俗の罪や穢れによって覆われている。それ故、禊ぎ祓いを積み重ねる事によって、神の子たる本来の自己に帰する事が出来るという人間観である。神道では「清らかさ」「明るさ」を重んじ、古来から日本人は「清明心」の伝統に生きて来た。

一方、陽明学は、人間の本性を良知と称し、良知は宇宙の真理と繋がる万能知であり、その良知に従って生きる事、則ち「致良知」を説いた。人間の本性を宇宙の生命と繋がる完全なものである、と捉える点で神道と近い人間把握をしている。更に、陽明学は良知を覆う人欲を去る事を修養の中心に置き、「人欲を去って天理を存する」事を強調する。慎独や克己によって人欲を心の中から取り払った心には天理が現れ、良知そのものとなると言うのである。良知を覆う人欲を払えと強調する陽明学は、罪穢れを祓い清めれば神の子の実相が現成するという神道の考え方と一致している。又、聖人に致る究極の道を「致良知」の三文字で言い表し、「知行合一」を説く陽明学は、日本人の簡潔化志向、実践重視の心性に強く訴えかけるものであった。

  「致良知」を包含する「至誠」の哲学へ

 儒学の経典である『大学』には、格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八条目が修己治人の指針として記されている。陽明学では、八条目の基礎たる「格物致知」を重視する。そして「格物」を「物を格す」と読み、関係する物事の真実を窮めて行く事とし、「致知」は、「知を致す」と呼んで、良知を致して真実を体現して行く事と捉える。「致良知」こそが陽明学の真髄である。

だが、日本陽明学に連なる人々、特に明治維新期に活躍した志士達の間では、「良知」より「誠」の文字に力点が置かれる様になって行く。何故なのだろうか。吉田松陰や西郷南洲は若き日に陽明学と出会い、強く共感している。だが、彼らの思想信条の表明の中に「致良知」は使用されていない。松陰は、「至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり。」を、南洲は、「敬天愛人」「天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」を信條とした様に、「誠」こそが生き方の中核となっている。他の志士たちも「至誠惻怛」や「至誠通天」など、殆んどが「至誠」に生きる事を自らの信條として表明している。佐幕派の新撰組も「誠」の旗を掲げて行動した。陽明学の「天理」に繋がる「良知」は、「天」に通じる「至誠」へと昇華されて行った。

「良知」は自らに潜在する本性を指し、その良知を表す事、則ち「致す」事を陽明学は説いた。「致良知」である。一方「至誠」には「誠を尽す」能動的な働きが自ずと含まれている。「良知」というより、「良知を致す」行為そのものが「至誠」の一言で表現されているのである。則ち、幕末の至誠哲学には、致良知哲学の全てが包含されているのである。又、「誠」は「真言=真の言葉」であり、「裏表の無い心の告白」である。わが国では古来、「真心」を人間の価値評価の基準に置いて来た。その伝統的な心性が陽明学的な要素と重なり合って、儒学的な教養社会である江戸に於いて「至誠」哲学として結実し、明治維新を生み出す行動哲学になったのである。

次回から吉田松陰を取り上げ、その後、高杉晋作、山田方谷、河井継之助、西郷南洲の順に、その生き方と言葉に学んで行きたいと思う。

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