メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No25
プリングルが採取したサルビア・プルケラの命名者はDCだ。
理科の時間に乾電池を直列でつないだものをDC(direct current)と呼んだが、植物学では略してもいいほど有名なスイスの植物学者ドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)を指す。
彼は、メキシコに探検に出かけなかったはずなのに、多くのメキシコ原産の植物に命名している。どこからか植物標本を手に入れているはずだが、謎として残っていた。
この謎に多少の光りが見えてきた。
18. Salvia pulchella DC. (1813). サルビア・プルケラ
(出典) wikimedia
(出典) annie’s annuals
プリングルは、草丈40-60㎝、小太りで愛嬌のある朱色の花が咲くサルビア・プルケラを1902年10月7日にメヒコ州で採取した。“pulchella”は、prettyと同じでありラテン語で“愛らしい”を意味する。確かに小太りで愛らしいサルビアだ。
記録されている最初の採取者は、フンボルトとボンプランであって1800年代の初期に採取しているが、それ以前に誰かが採取している。
というのは、フンボルト探検隊が採取した植物の多くはクンチ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)により命名されその発表は1818年だが、スイスの植物学者ドゥ・カンドールが1813年に命名している。
ドゥ・カンドール(de Candolle)とモシニョー(Mociño)の接点
ドゥ・カンドールにメキシコの植物標本を提供し、自分の名前を隠さなければならなかった人物がいるのだが誰だかわからなかった。
おおよその見当では、1787年から1803年までメキシコの植物相を調査したセッセ探検隊に参加した植物学者・プラントハンターのうちの誰かで、1803年にセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)と一緒にスペインに戻ったニュースペイン(=メキシコ)生れのモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)ではないか?
ということがわかった。
ドゥ・カンドールは、1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をし、
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。
レリティエール自身1800年に暗殺されていて、彼が友人から預かった植物標本などをスペイン政府が返還を求めていたので、これが原因で暗殺されたという説もある。
というように、ドゥ・カンドールは、国家機密として取り扱われていたメキシコの植物情報に接するルートがあった。
スペインに行ったモシニョーは、ナポレオンのスペイン統治を支持したためフランス軍の撤退後に逮捕され、何とかフランスに逃亡した。
モンペリエ大学の植物園で数年過ごし、ここの医学部で植物学教授を1808-1816年までしていたドゥ・カンドールに出会い、モシニョーがマドリッドから隠し持って行った植物標本・植物画などをドゥ・カンドールに見せたという。
ドゥ・カンドールは、その貴重な価値に気づき真剣に学び、彼の著作Prodromusにメキシコの植物を記載したという。
こんな経緯があるから、誰が採取したか記述できなかったのだろう。
セッセとモシニョーの植物コレクションと原稿は、一世紀以上も忘れられ、後に変なところから出てくる。
改めて、1787年からのセッセのメキシコ植物相の調査探検隊を調べなおすことにした。
学術といえども政治と無縁でいられなかった時代の学者・文化人は大変だった。
政治の安定による平和を切に望みたい昨今であり、ナショナリズムというエゴ・我儘を生のままで出さない賢明さをもちたいものだ。
また、これまで私益を追及してきた人々が、国益を声高に叫んでいるのもナショナリズムを鼓舞するようでいただけない。
せめて調理するスキルと素材を料理するというクリエイティブな時間の余裕を持ちましょう!
そして、目の前にサルビア・プルケアがあると、ささくれだった心も微笑んでしまうだろう。
プリングルが採取したサルビア・プルケラの命名者はDCだ。
理科の時間に乾電池を直列でつないだものをDC(direct current)と呼んだが、植物学では略してもいいほど有名なスイスの植物学者ドゥ・カンドール(de Candolle, Augustin Pyramus 1778-1841)を指す。
彼は、メキシコに探検に出かけなかったはずなのに、多くのメキシコ原産の植物に命名している。どこからか植物標本を手に入れているはずだが、謎として残っていた。
この謎に多少の光りが見えてきた。
18. Salvia pulchella DC. (1813). サルビア・プルケラ
(出典) wikimedia
(出典) annie’s annuals
プリングルは、草丈40-60㎝、小太りで愛嬌のある朱色の花が咲くサルビア・プルケラを1902年10月7日にメヒコ州で採取した。“pulchella”は、prettyと同じでありラテン語で“愛らしい”を意味する。確かに小太りで愛らしいサルビアだ。
記録されている最初の採取者は、フンボルトとボンプランであって1800年代の初期に採取しているが、それ以前に誰かが採取している。
というのは、フンボルト探検隊が採取した植物の多くはクンチ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)により命名されその発表は1818年だが、スイスの植物学者ドゥ・カンドールが1813年に命名している。
ドゥ・カンドール(de Candolle)とモシニョー(Mociño)の接点
ドゥ・カンドールにメキシコの植物標本を提供し、自分の名前を隠さなければならなかった人物がいるのだが誰だかわからなかった。
おおよその見当では、1787年から1803年までメキシコの植物相を調査したセッセ探検隊に参加した植物学者・プラントハンターのうちの誰かで、1803年にセッセ(Sessé y Lacasta, Martín 1751-1808)と一緒にスペインに戻ったニュースペイン(=メキシコ)生れのモシニョー(Mociño, José Mariano 1757-1820)ではないか?
ということがわかった。
ドゥ・カンドールは、1796年、彼が18歳の時にパリに来て、医学・植物学の勉強をし、
このパリでフランスの植物学者で裁判官のレリティエール(L'Héritier de Brutelle, Charles Louis 1746-1800)、美しいバラの版画などを残した版画家のルドゥーテ(Redouté Pierre-Joseph 1759-1840)と出会い、編者レリティエール、植物画ルドゥーテ、コピーライター、ドゥ・カンドールといった関係が出来上がった。
レリティエール自身1800年に暗殺されていて、彼が友人から預かった植物標本などをスペイン政府が返還を求めていたので、これが原因で暗殺されたという説もある。
というように、ドゥ・カンドールは、国家機密として取り扱われていたメキシコの植物情報に接するルートがあった。
スペインに行ったモシニョーは、ナポレオンのスペイン統治を支持したためフランス軍の撤退後に逮捕され、何とかフランスに逃亡した。
モンペリエ大学の植物園で数年過ごし、ここの医学部で植物学教授を1808-1816年までしていたドゥ・カンドールに出会い、モシニョーがマドリッドから隠し持って行った植物標本・植物画などをドゥ・カンドールに見せたという。
ドゥ・カンドールは、その貴重な価値に気づき真剣に学び、彼の著作Prodromusにメキシコの植物を記載したという。
こんな経緯があるから、誰が採取したか記述できなかったのだろう。
セッセとモシニョーの植物コレクションと原稿は、一世紀以上も忘れられ、後に変なところから出てくる。
改めて、1787年からのセッセのメキシコ植物相の調査探検隊を調べなおすことにした。
学術といえども政治と無縁でいられなかった時代の学者・文化人は大変だった。
政治の安定による平和を切に望みたい昨今であり、ナショナリズムというエゴ・我儘を生のままで出さない賢明さをもちたいものだ。
また、これまで私益を追及してきた人々が、国益を声高に叫んでいるのもナショナリズムを鼓舞するようでいただけない。
せめて調理するスキルと素材を料理するというクリエイティブな時間の余裕を持ちましょう!
そして、目の前にサルビア・プルケアがあると、ささくれだった心も微笑んでしまうだろう。