モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No26:プリングルが採取したサルビアとチア(Chia) その8

2010-11-19 10:58:06 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No26 
メキシコのサルビアには、見てくれだけでなく中身が優れているのもあった。チアといわれる種でその物語でもある。

19. Salvia rhyacophila (Fernald) Epling (1939). サルビア・リアコフィラ


(出典) flickr

サルビア・リアコフィラは、耐寒性がある一年草のハーブで、草丈1m、ブルーの花は10cmと大きい。葉はサラダで食べられ、タネはケシの実のようにサクサクとしておいしいという。
しかも体内で作れない必須脂肪酸が多く含まれるというからありがたいサルビアだ。
こんな素晴らしいサルビアだが、最初の発見は、1900年10月17日と大分遅くにメキシコ、モレーロス州クエルナバカでプリングルが発見・採取している。
新種としての命名は、それよりも遅れて1939年にアメリカの植物学者・プラントハンターのエプリング(Epling, Carl Clawson 1894-1968)がしている。

ところで、このサルビア・リアコフィラは、No15:パーマーが採取したサルビアの(7)に記載したサルビア・ヒスパニカ(Salvia hispanica L.(1753))に姿・形からハーブとしての性質まで良く似ている。

(写真) Salvia hispanica

(出典)Robin’s Salvias

ハーブとしての性質でどこが似ているかというと、必須脂肪酸が豊富なところだ。
体内で作られないので食物として摂取しなければならないものを必須脂肪酸と言うが、その中でも特に作りにくいのがリノール酸とリノレン酸というものだそうだ。

サルビア・ヒスパニカは、リノレン酸を64%も含んでいて、エゴマ、キウィフルーツを上回り食物の中で最高の含有量という。
このサルビア・ヒスパニカは、アステカ時代はチア(Chia)と呼ばれていた。正確にはタネのことを指しているが。
サルビア・リアコフィラも同じくチア(Chia)と呼ばれている。

アステカ文明を支えた四大食物
スペイン人が侵略する以前のアステカには、食糧となる重要な栽培植物があった。
スペイン人が記載している重要な食物として、トウモロコシ(maize or corn)、豆(beans)、チア(Chia)、アマランス(amaranth)があげられている。

人間にとって必要な栄養として、炭水化物(糖質)、たんぱく質、脂質を栄養の三大要素といい、ミネラル、ビタミンを加えて栄養の五大要素というが、。アステカ人の栄養として、トウモロコシ、豆、チア、アマランスはバランスが取れていたという。
しかし、チアとアマランスは、コロンブス以降の世界に伝播・普及しなかった。それにはわけがあった。

アマランスは別途説明するとして、チアの起源と歴史でこれを垣間見てみよう。

文字を持たなかったアステカ

(地図)首都テノチティトラン(Tenochtitlan)

(出典) wikipedia

アステカ王国の首都テノチティトラン(Tenochtitlan)は、テスココ湖に浮かぶ島に最盛期で30万人が居住する当時のヨーロッパにもない大都市であり、湖周辺の都市と橋で結びその中核としてまるでネットワークのハブとして高度な文明を誇っていた。

このような都市を作れるくらいなので、土木・建築そして天文学に基づく暦に優れた才能を発揮したが、アステカの文明は文字を持たなかった。
文化・歴史は、絵と文字が一体となり記録か記憶されたメディアによって伝承されるが、文字を持たなかったために、そして、コルテスの征服による虐殺と伝染病によりアステカの人口が激減したために、記録と記憶が消され謎を持った文明となってしまった。

唯一例外は、“絵文字”を持っていたことだ。

この絵文字を編集し、アステカの人々から聞き取り調査をして著述された作品が残っている。1500年代はまだ印字と印刷機がなかったので手書き原稿とこのコピーである写本コデックス(Codex ,Codices)だった。

スペイン征服以前のメキシコがわかるコデックス(Florentine Codex)

(出典)wikipedia

スペインのフランシスコ会の宣教師 Bernardino de Sahagun(1499 –1590)が、原住民からのヒアリングを行い、現地生まれの改宗者に教えるテキストとしてナワ語・スペイン語・ラテン語で1540-1585年の間に著作したのが“Florentine Codex”といわれるもので、タイトル名は英訳で「General History of the Things of New Spain」というようにスペイン征服以前のメキシコのことがわかる唯一に近い百科事典でもあるという。

原本はスペイン政府が破棄して存在しないようだが、またそのコピー(写本)も公開されたのは1979年であり、よほど知らしめたくなかったのだろう。
Florentine Codexは、主要なところはナワ語で書かれている。フィレンツェの図書館に現存しているのでフィレンツェ・コデックスと呼ばれている。
この写本にチア(Chia)を始めとしてトウモロコシなどアステカの重要な農産物に関して記述されていた。

チア(Chia)の歴史
ところで、1521年にアステカ王国を亡ぼしたコルテス(Hernán Cortés, 1485-1547)は、チアとアマランスの栽培を禁止した。その理由は、宗教的な儀式に使われていたためであり、この儀式自体を禁じたためである。
ローマカトリック教を普及するためという大義名分もあるが、コルテスの目の前で捕虜になったスペインの兵士が、ピラミッド上の神殿で人身御供として虐殺としかいえないような儀式をする宗教を許すことは出来なかったのだろう。
この儀式にチアとアマランスが使われていたので栽培の禁止となり、耕作面積が減り品種改良どころか雑草化するだけとなった。

確かに、切腹という儀式も日本の美意識から生れたものだろうが、異なものかもわからない。他殺でもなく自殺でもない死は摩訶不思議と思う。これを文化摩擦というのだろう。

フィレンツェ・コデックスよると、チアの歴史は相当に古いことがわかった。
食物として最初に利用されたのは、紀元前3500年で、紀元前1500年から紀元前900年の頃には貨幣の代わりとして利用されたという。また、征服した支配地から租税としてチアが納められていたようだ。
そして、生贄をささげる儀式で神に奉げられもした。

コルテスが攻め亡ぼした頃の首都テノチティトランには、大人口を支える大きな市場があり、そこではココアの豆が貨幣のかわりに使われていたという。重要な植物が媒介となり交換されていたが、チアは生贄の儀式に使われていたために栽培禁止となり、ヨーロッパの世界に伝播することもなかった。

征服者のスペイン人は、かわりにヨーロッパの野菜を持ち込み栽培させたという。

チアの食物としての評価研究をした米国の大学の結果では、大さじスプーン1杯のチアと水で24時間のエネルギー消費をまかなえるというレポートがあった。
征服者コルテスは、チア(Chia)、アマランス(amaranth)のこんな能力を直感して栽培禁止にしたのかもわからない。
元気で抵抗されたのではたまらない。これが統治者の本音だろう。

当事者にもこの気持ちはわかる。ネ!
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