モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その48:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相②

2008-08-14 08:28:02 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~喜望峰が注目されたのは

喜望峰が発見されてから164年後の1652年に、
オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがやってきて、喜望峰に補給基地を建設した。

アジア貿易の中継基地として航海上の重要な拠点として注目されただけでなく、
ポルトガルをアジアとの中継貿易から締め出すための重要な布石として
東インド会社はここに要塞を建設し新鮮な食料などをも供給する補給基地とした。

以後、1814年に最終的にイギリスがケープ植民地を600万ポンドで買収するまで、
オランダ移民が増えオランダの植民地となった。

17世紀末には、フランスを追われた新教徒ユグノーが大量に移住した。

言うまでもないが、この子孫達が人種差別のアパルトヘイト政策を実行したが
この点について触れるとわき道に行き過ぎるので触れないこととする。

ポルトガルはどうしたのだろうか? という疑問に答えておくと、
16世紀の100年間は、インドの胡椒・綿、インドネシアの香料・香辛料、中国の絹・磁器などが
リスボンの王立取引所に集まり、巨額の利益が王室国庫を潤した。

これらの利益を守るために、1530年にゴアをインド植民地の首都とし、
1557年に中国のマカオに永久居留権を「明」から取得し、鎖国まで日本との貿易拠点で繁栄した。
1595年には東アフリカ・ケニアのモンバサに巨大な要塞フォート・ジーザスを建設した。

しかし、1581年にスペインに統合されたポルトガルのアジア胡椒帝国は、1640年代以降斜陽化する。
原因は、1580年代にスペインから独立したオランダ
および1602年に設立された世界初の株式会社、オランダ東インド会社で、
旧教徒国家の中でポルトガルを狙い撃ちして攻撃し、その勢力圏を奪っていったためでもある。

ポルトガルが狙い撃ちされたのは、
根底では、ユダヤ人を追い出したつけがポルトガル、スペインに帰ってきたともいえる。

リスボンの海運業者の多くは、ユダヤ教からやむなく改宗した新教徒が多く、
ポルトガルから亡命したアムステルダムのユダヤ人社会と手を結んでいて、ポルトガルという国家の枠を超えていた。

ポルトガルを狙い撃ちしたオランダの流れをまとめておくと
・1630年 ブラジル北東部の砂糖生産地をポルトガルから奪取。
・1637年 西アフリカの金貿易の拠点エルミナ要塞を侵略。
・1641年 アフリカの奴隷貿易の拠点アンゴラの港ルワンダを占領。
・1652年 喜望峰を攻撃し要塞を建設し植民地化する

1650年代までにアフリカにあるポルトガルの主要利権を奪い、
インド、インドネシア、中国、日本などのアジア貿易でオランダ東インド会社帝国が出現した。

17世紀はオランダの黄金時代となり、
ケンペル、ツンベルグ、シーボルトなどは、オランダ人に成りすまして日本に来ているが
ケープタウンの植民地がこれにかかわっている。

このケープタウンのメインストリートには、
喜望峰の発見者ディアス、ケープ植民地を建設したリーベックとその夫人のクエイレーリェの銅像が
呉越同舟的に建っているという。

西洋の歴史に登場させた人たちであることは間違いないが、
地球の歴史では、南アフリカは人類誕生の地でもあり、植物相も独特なものがある。
やっと喜望峰の植物との係わり合いに近づいてきた


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