モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その47:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相①

2008-08-12 08:02:22 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~喜望峰の発見まで

オリンピックはほぼ終わってしまった。
次の関心は、南アフリカで開催されるワールドカップサッカー。
その南アフリカのある時期についての植物をめぐる話をまとめてみようかと思う。


ヨーロッパ人としてはじめてアフリカの最南端、喜望峰に到達したのは、
ポルトガル人のバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias, 1450頃 - 1500年)で、
1488年のことであった。

(写真)アフリカの地図by Google


彼らは、アフリカ西岸を南下し、現在の南アフリカ西岸にあるポート・ノロスで嵐にあい漂流した。
陸地に近づくために東進したが陸地がないので、引き戻るために北上していたら
西側に陸地があったという。
アフリカ大陸最南端を回り、アフリカ大陸東岸にたどり着き、
目的のインドにいたる航路の開拓が半分なされた瞬間でもあった。

この時までの世界地図観では、アフリカ大陸は何処までも南に広がっているので回航出来るとは考えられていなかった。

二世紀に作られたプトレマイオス(90年頃 - 168年頃)の世界地図ではそうなっており、
ルネッサンス時代の1406年にこの地図がヤコブス・アンゲルスによってラテン語訳がなされ復権した。

プトレマイオスの地図は、ローマ時代2世紀の頃の世界認識を表しており、世界の1/4が円錐図法により描かれている。
近代地理学の芽を持ってはいたが、2世紀の世界地理観が復権するほど
中世ヨーロッパは、植物学だけでなく地理学でも停滞していた。

南アフリカの喜望峰は、こうして歴史に登場してきたが、
何故、ポルトガルだけがプトレマイオスの地図から離れてインドに至る航路を妄想していたのだろう?

最大の要因は、イベリア半島は、科学先進国のイスラムに8世紀以来支配されており、
科学的な思考と先端技術に触れる機会を持ちえたことがあげられる。

ポルトガルは、イスラム勢力を駆逐し独立国家をいち早く樹立したが、国家としての成長政策を考えるに
アフリカ西海岸あたりから来ているアラブの隊商の動向を観察していて、
この利権を奪うことがヴェネチアやエジプトの商人の既存利権に挑戦するよりも容易であることを理解していた。

その中心人物として、エンリケ航海王子(1394-1460)というリーダーがおり、アフリカ西海岸沿いに利権を拡大していった。

その拡大の手口は非常に論理的で、
アフリカ探検隊を組織化し、探検・略奪は儲かるという実績とビジネスにのせる仕組みを作り、
これを再生産するための航海・天文・地理などの技術開発をする有能な人材をも集めた。

ポルトガル人がギニア湾あたりまで進出するようになると、アフリカ大陸東海岸の様子が入るようになり、
アフリカ大陸を西から東に海路で迂回できるのではないかと考えられるようになった。

妄想ではなく、情報を積み上げていった先にディアスなどの探検航海が計画されており、
偶然の産物とは異なる。

コロンブスの航海のほうがはるかに偶然に恵まれたと思う。


コメント    この記事についてブログを書く
« ローズマリー(rosemary)の花 | トップ | その48:西洋と東洋をつなぐ... »

コメントを投稿

プラントハンターのパイオニア、マッソン」カテゴリの最新記事