京都、東山に清閑寺(せいかんじ)という小さなお寺があります。 その横には高倉天皇の御陵があります。
年寄り仲間と行ってきました。
五条通、国道1号線を山科に向かってトンネルの手前にあるバス停で降りて坂をあがると、清閑寺という石碑と左には高倉天皇陵の石碑がありました。 この道を少し行くと
六条天皇と高倉天皇の御陵がありました。
その横の道を上がると
清閑寺がありました。 小さな寺で、拝観の人は箱に100円入れてくださいとあります。
小さな庭ですがとてもきれいです。 小督局(こごうのつぼね)供養塔と書いてあります。
お寺の建物はこれだけです。 お堂です。
横には鐘楼がありました。 この近くには郭公亭という茶室があったそうで、そこで西郷隆盛たちが密談をしたと言う話はあります。
でも、この清閑寺を知るには、高倉天皇と小督局の話を知らないとわかりません。
高倉天皇は平清盛の時代です。 高倉天皇の中宮(正室)は清盛の娘の徳子でした。 小督局は徳子に仕える女官でしたが、美人で有名で高倉天皇に寵愛されて、それに対して清盛は怒ったわけです。 実はこれ以外にも小督局は清盛を怒らせることをしていたわけですが、小督局に子供が生まれると次の天皇に関係するわけで、徳子の子供が天皇になって貰わないと清盛には都合が悪い。 しかも徳子が中宮だし。
なにか、今のNHK大河の一条天皇と定子、彰子と藤原道長の話に似ています。
そして、清盛は怒って宮中から追い出そうとしましたが、小督局は自ら嵯峨野に隠れたそうですが、その後も高倉天皇と会い、子供を産んだ。 そこで清盛はさらに怒って、小督局をここ清閑寺で尼にしたそうです。
小督剃髪の本堂
高倉天皇は21歳のときに亡くなったのですが、「小督のもとで葬ってほしい」との遺言で、高倉天皇陵は清閑寺のすぐ横に建てられたそうです。
この話を聞いてピンとこないかもしれませんが、高倉天皇の中宮は徳子です。 徳子の子は安徳天皇です。 壇ノ浦の戦いで、源氏に敗れて海に沈んだのですが、徳子は助けられて、そのあと京都の大原に隠蔽されて、建礼門院という名前で余生を過ごした。 後白河法皇が見舞いに行ったとかの話もあり、今も建礼門院のいたお寺は観光客で賑わっています。
というような歴史があるのですが、小督局のことはほとんどの日本人が知らないと思います。
ところが、この小さな寺には外国人が次々にやってくるのです。
要石という言われがある石ですが、説明は英語です。 後ろには海外の人がいます。
ここからは京都の街が見えるというのが売りですが、海外の人がこれだけでくるとは思えないし、まして小督局の話を知っている人はいないと思います。
この寺は、清水寺から小道が続いていて、10分ほどで来られます。
清閑寺から高倉天皇陵を見たところですが、この寺から清水寺に帰る外国人が見えます。
清水寺から続く道は清閑寺で突き当たりになり、どこかに抜けられることはありません。 それなのに、日本人は来ないのに外国人が次々にこの寺に来る、何でだろう?
人が写らない様に写真を撮ったのですが、ほんとうに次々に外国人が来るのです、清閑寺の不思議です。