鉄道模型のある生活ブログ

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中世史 院政の都市

2023年05月17日 | 雑談

中世史で院政の都市を習いましたが、院のあった場所だけ覚えたのでそれを少し。

まずは京の都、平安京です。

平安京は碁盤の目のようになっていて、入り口として羅生門がありそこから朱雀大路が御所まで続いていた。

羅生門の両側には東寺と西寺があったそうですが、先日のブラタモリで、残っているのは東寺だけで、西寺も羅生門も無くなったと言っていました。 そして、西寺が焼けて無くなったそうですが再建されなかったのは、この地域は湿地で人が住みにくいからだったそうです。 そして、左京の方(東側)がどんどん発展していったとのこと。

講義でも平安京はこういう風に作るつもりだったが、完成しなかった。 だから地図でも右京の部分は点線で書かれています。 これはブラタモリを見たのですぐに理解できました。 なお現在の御所はこの地図とは全く違う場所です。

 

さて、院政が始まりました。後三条天皇がその土台を作って、実際には白河上皇から院政が始まったそうです。

その白河院が院政を行った場所は

鴨川を渡った東です。

 

すごくわかりにくい図ですが、法勝寺という高い塔、五重塔どころではなく十三重かもっと高い塔があったお寺だそうですが、その場所が現在の京都動物園があるあたり。 院の建物はこの辺りにあって、現在の平安神宮や美術館などがある場所が、白河殿の場所だそうです。 今度、美術館に行ったらそのつもりで、その辺りを見てみよう、と思っても何も痕跡はないと思います。

 

その次の鳥羽院

こちらは鳥羽離宮です。 

ずっと南の鳥羽です。 ここは先日私が行ったので日記にも書いたと思いますが、現在は城南宮や鳥羽天皇陵、白川天皇陵、近衛天皇陵があります。

 

これまた、わかりにくい地図ですが、大きな池があってその周りに建物があり、船で行き来していた。 池があるのは景観のためです。 場所的には名神高速道路の京都南インターチェンジ付近。

 

次は後白河院、この人は平清盛をもり立てたが、その後頼朝の肩を持って平家を滅ぼしたややこしい人で、先日の鎌倉殿の十三人でも西田敏行さんが演じていた癖の強そうな人です。

後白河院は七条通の東、法住寺と言う所にありました。 今の国立博物館から今熊野あたりです。

そのすぐ北が六波羅で平家の屋敷があり、後白河と蜜月だった時には清盛が後白河に三十三間堂を送ったので、三十三間堂は現在の国立博物館の近くにあるのはなるほどです。 後白河院の御陵はこのそばにあるそうです。

 

後鳥羽院は、鎌倉殿のテレビでは尾上松也さんが演じていましたが、

白河殿や鳥羽殿も使ったようですが、新たな院の場所として水無瀬殿を作りました。 阪急京都線に駅がありますが、京都から大阪に向かう途中です。

何故こんな場所かと言うと、風光明媚だからそうです。 今考えると風光明媚な場所とは思えませんが、住宅や高い建物がなかった時代、南を見ると遠くに生駒山が見えて、近くには石清水八幡のある男山、手前には淀川が見えるので風光明媚だったと思います。 そういえば、これよりもっと昔に貴族たちがこの場所に来て船遊などをしたとは古典で習ったことがあります。

後鳥羽院は北条義時、小栗さんから隠岐に島流しにされて、隠岐で亡くなっています。 天皇になった時にはまだ安徳天皇が生きていて、天皇が二人という事で即位させられ、三種の神器の宝剣も海に沈んだままというコンプレックスを持っていたそうですが、天皇から19歳で院になり、和歌、蹴鞠、武術、水泳など文武両道ですごい人だったようですが、41歳で隠岐に流されそのまま都に帰れずに大波乱の人生を送った人です。 なお、後白河院と系統が違い、自分が正当な系統だということで、白河殿や鳥羽殿を使って、後白河殿は使っていないとのこと、ややこしいことで。

水無瀬を通ったら後鳥羽上皇を思い出してください。

ということで、院の都市と言っても私が興味を持ったのはその場所だけで、今のどの辺りかな?ということでした。

 

 


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