鉄道模型のある生活ブログ

鉄道模型にかぎらす、なんでも書いてしまいます。

阪急電車 PRiVACE に乗る。

2025年01月23日 | 実物の鉄道

阪急電車の座席指定車、PRiVACE に乗りたくなった。

京都河原町駅から乗ります。

四条河原町の、この建物、今はいろいろな店が入っていますが、昔は阪急デパートだった。

 

昔に作ったNのレイアウトです。 ホームは梅田なんですが、後ろの建物は京都の阪急デパートを真似したのです。 上の階の出窓の形が同じでしょう?  そして「Hankyu」とは書かずに「Harrods」と書いた。 この訳はHankyu の字体が、イギリスのデパートのHarrodsを真似しているようだったので、わかる人にわわかるはずだとHarrodsにしました。 Harrodsのデパートは、このブログに書いているイギリス旅行の最後の頃に書くつもりです。

閑話休題

この地下に阪急電車の駅があるのですが、駅でPRiVACEの指定席を買おうと思ったら、ネットでの予約専用で駅では売っていない。 ではどうしたら良いかと聞くと、電車に乗ってPRiVACEのアテンダントから買ってください、席が空いていれば売ってもらえます、との事。 駅のホームに席の空き状態が表示されていて、乗りたい電車に○印があったので、大丈夫だ。

 

特急が入ってきました。 レギュラーの特急に一両だけ指定席車両PRiVACEが連結されている。 京阪電車のプレミアムカーと同じだ。

 

指定席車は車体中央にドアがある。 かなり高級な感じ

 

窓が小さくて他の車両とは雰囲気が違う。

 

乗り込んでアテンダントから指定席券を買った、500円だ。 席は1Aだった。 1とは嫌だなととは思ったけれど、自分の席に向かうことに。

がら空きだ。 白い服を着た人が、私と同じようにアテンダントから指定席券を買っているのが見える。

片側1列、反対側2列の3列シートだ。

 

私の席だ。 案の定1Aなので、車体の端で目の前は壁。

 

席に座って、テーブルが出せるので出してみた。 狭いしカップの凹みもないので飲み物は置けない。

カップフォルダーがないかと探したら、この席にはない。 カップフォルダーは前の席の後ろについているので、一番前のこの席にはないのだ。 せっかく飲み物を買ってきたのに、

 

この席からだと、目の前は壁で圧迫感がすごいし、表示版も見にくい。

 

椅子の横には大きな枕があり、ただでさえ小さな窓を隠して外が見にくい。

さらに文句を言うと、車両の端なので、台車よりも外、連結器のすぐ横なので、揺れが大きい。電車で一番揺れる場所だ。

 

反対側の2人席を写した。 窓が小さくて、座って外を見ようとしても柱ばかりでしかも枕も邪魔で、狭苦しくて鬱陶しい。

これは、一番前の席が問題なので、この席を売ったアテンダントが憎らしい。 他もガラガラなのに。

 

この席は一番前ではない。少し後ろの席ですが、やはり窓が小さいので狭苦しい。 頭の位置を想像してください。顔は柱の横ぐらいになる。 しかも隣の席との境に大きな板があり、この板は外れないので、2人づれで座っていても鬱陶しいだろう。

早い話、外を見ないで一人でスマホを触っている人のために作ったような車両だと思った。

 

と言いつつ、新幹線の横を通ったので、狭い窓から新幹線を撮影。 あっと言う間に追い抜かれるのでシャッターを切るのが難しい。

 

先頭をかろうじて写すことができた。

 

高槻を過ぎると、大きな会社が並ぶあたりを通る。 これはサンスターだ。 小学校の頃遠足で見学に来た覚えがある。

 

茨木まで1Aで我慢していたが、もう乗って来る人はいないだろうと、少し後ろの右側2人席に移動した。

この後、止まる駅は淡路と十三だけで、私は十三で降りるつもりだ。

 

すると、アテンダントが来て、こちらの席に変える指定券を発行しましょうかというので、もうすぐなのでいらないと言ったのですが、発行しますと席を変えてくれた。 空いているのに端から売るのは良くないと、いちおう苦情を言っておいたが、自分でもしまったと思っていたのかもしれない。 優しい人だったことを付け加えておこう。

 

あい川と神崎川を渡るとすぐに淡路。 ここは地下鉄の堺筋線の延長で北千里にゆく線との交点だが、家がたくさんあり狭苦しい土地だ。 そこで、阪急の線路を高架にする工事をしていたが、その高さが半端ではない。 

 

十三で下車。

ここで、神戸線に乗りに行きます。

 

十三駅の跨線橋からですが、京都線、宝塚線、神戸線の車両が次々に行ったり来たりしているのですごい駅です。

 

さて、PRiVACEをボロクソに書いたけれど、基本的には私がネットで切符を買わなかったのがいけない。

自分で席を選ばなかったことが、失敗。  車内で買う時にもアテンダントに、希望の席を言わなかったのも失敗

車両の真ん中あたりであれば、きっと快適だったと書いたかもしれない。

でもね、車両の窓が小さいのは良くないです。 外観は良い感じなんだけれど、内側からは窓桟ばかり目立って、狭苦しい。

 

他の車両の窓は大きいんだけれどね。 

 

 

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トランプ大統領

2025年01月22日 | 雑談

政治のことはよくわからないのだけれど、アメリカで、トランプ氏が大統領になりました。

 

ホワイトハウス 長年のうちには私もここまで行ったことがあるんだと、写真を探し出しました。

 

まあ、すごいねの一言です。 就任式には歴代の大統領が出席している中で行われ、前大統領への批判なども平気で言うし。 

方針は単純明快、「アメリカ・ファースト」である。

そして、40ほどあった大統領令にサイン、 その中でもパリ協定の離脱、WHOからの脱退はあっという間にサインした。

そして、がんがん燃料を燃やせと強調している。 自動車の排気ガス規制も緩めるようですし風力発電のリースもやめる。

バイデン大統領が出した78の大統領令を撤回していますし、ここまで一気にやるかという感じ。

政府職員も1000人ほど首を切り、自分の政策に賛成している人を雇用するという。 これは、バイデン大統領の時でも4000人ほど首を切っているらしくて、新しい政策をするのに反対する人がいると進まないので、アメリカでは大統領が変わると当たり前のように行われているらしい。 そのために、改革が早く進む。 日本の官僚が政治家を支配しているのとはかなり様子が違いますね。 まあ、取り巻きがイエスマンばかりになると問題があるのですが、国民からの支持が多かったので大統領になったからで、その政策には国民が納得しているということでしょう。 公約をすぐ実行させるために、そのための人材を集める、考えたら当たり前のような気がします。

大統領令にサインしている時に、メディアからの質問に対して、明確に答えを出している。 「それはする」「それもする」「それは検討していない」など一言で済ましている。「その件に関しては、持ち帰って深く検討したいと思っています」などダラダラした返事はない。

私が気に入ったのは「政府が認める性別は男性と女性の2つの性のみとする」である。 この当た前のことが変に動き回っていて気持ち悪かったが、これですっきりした。 まあ、政府が認める性別ということなので、民間ではどうするかの猶予は与えてあるような気がしますけれど。

なにせ、何事も答えがシンプル。  基本がアメリカ・ファーストなので、 この人と対応してゆくには難しいでしょう。

年齢から考えて、多分4年だけでしょう。 その間にアメリカが、世界がどう変わるのか、恐ろしいかもしれない。

 

遠くに就任式が行われた連邦議会議事堂が見える。

ホワイトハウスは手前のワシントン記念塔から左の方向で、画面に写っていないが、すぐ近くである。

大昔1984年に飛行機から写した。

 

 

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ペンデルツーク

2025年01月21日 | レイアウト

私のレイアウトです。

なぜか、ペンデルツークを走らせたくなりました。 ペンデルツークとは機関車の推進運転です。

この電気機関車は客車を押して走っています。 後ろなんです。

 

前はこちら、電車ではありません。 客車に運転台がついている、制御車と呼ばれる客車です。 今はこちらが前。 終点に着くと反対側の電気機関車が前になって、こちらは後ろになります。

 

初めてドイツでペンデルツークを見た時には、驚きでした。 だって機関車が後ろから押している、それも入れ替えとかヤードではなく、普通の線路を高速で客車を押している。

 

模型でも推進運転は面白いです。 まあ、日本の模型なら必ず脱線するでしょうけれど、ヨーロッパ物でもスリルはあるけれど、脱線したことはない。 そのためにフランジが大きかったり、伸縮式の連結器がついているのですから。

 

駅に到着です。 昔の客車は懐かしいです。

 

ついでに、横に止まっていた蒸気機関車も走らせました。 

やはり家にレイアウトがあると手軽に走らせられます。 無理やり用地確保をしてよかった。

 

 

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行った模型店、などなど  その18  ホビスタと銀座パノラマ その2

2025年01月20日 | 鉄道模型全般

尼崎に大きな鉄道模型の店があった。 前回はホビダスのレイアウトを書いたが、

 

この大きなレイアウトがホビダスのレイアウトで、関西合運の時にある人と話していたら、これを作ったという。 多分、プロデュースをした人だとは思っているのだが、電気ドリルを持って下に潜ったとか。 

さて、この写真の左後ろに見えているのが、レイアウト製作のDDFの店舗で、レイアウト用品やレイアウトそのものも売っていた。 この手前にはタムタムという大きな模型店があり鉄道模型も置いてあった。

そして、銀座パノラマという喫茶店もあり、大きなNゲージのレイアウトがあった。

 

銀座パノラマです。この大きなレイアウトの周りにテーブルがあり、そこで喫茶やお酒が飲める。

 

雄大なレイアウトです。

 

ここはいつも列車が走っている。 見ていて気持ちが良い。

 

見入っているのは、我がHNモジュールの仲間だ。

 

私だって、カメラを片手にお茶を飲むどころではない。 あれっ? 黒いカメラが写っている。 ベッサRだ。 この頃はこんなフィルムカメラを持っていたんだ。 2007年頃です。

 

雪景色もあった。

 

良い感じの田舎の風景が作られていました。

 

ここで、買ってきたHOの機関車を眺めているのは、HNモジュール仲間のNさん、 タムタムで買ったのか、モデルバーンで買ってきたのか、尼崎は芦屋のモデルバーンに行った帰りに寄ることが多かったので、けっこう何度も行っていたのです。

 

私であります。 この日はコーヒーではないようです。

 

上の写真のつづきにこの写真があったので、載せておきましょう。

機関車と客車群です。 ほぼ全てドイツ型です。 これはたしかNさんの自宅だと思います。

 

さて、これは2013年の銀座パノラマです。 店は無くなっていました。 でもレイアウトは置いてありましたが、動いていないようです。 そして、ホビダスもタムタムも無くなっていて、はたして、今はどうなっているのでしょう?

2007年頃は、鉄道模型が全盛期のようだったのですね。 それは団塊の世代が定年になって、定年後に何か趣味をと、テレビでもレイアウトの作り方などやっていた時代でした。 その後、それも冷めて〜

 

行った模型店 つづく

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足利義昭

2025年01月19日 | 雑談

NHKの知恵いずで足利義昭をやっていました。 室町幕府最後の将軍ですが、なかなか面白かった。

歴史に弱い私は、鎌倉幕府から室町幕府にどう変わったのかを知らなくて、中世をすこし勉強したのですが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を恨んでいて、足利尊氏や新田義貞に鎌倉幕府を打たせてその後、足利尊氏が後醍醐天皇と仲違い。 後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を作り、足利尊氏は京都で北朝をつくり、第1代の足利幕府=室町幕府を作った。 その後、3代の足利義満は南北朝を合体させたり金閣寺を作ったりで、室町時代が栄えていた。 その後、応仁の乱で無茶苦茶になり、13代将軍の足利義輝が三好長慶に殺され、義輝の弟の義昭は仏門に入っていたのですが、自分が将軍を継ごうと、家来数人と近江や越前に逃亡生活をしていた。

 

この辺りから、知恵いずの話が始まったのですが、足利義昭は上杉謙信や武田信玄、遠くは薩摩の島津にまで書簡を送って、自分を将軍にしろ、と上から目線で命令していた。 もともと足利将軍は自分で軍を持っていないので諸国の大名に命令文を出し将軍の権威で統治をしていたのであるが、落ちぶれて逃げ回りながら、全国に命令文を出していた。 今と違って郵便の仕組みがないので、だれかが手紙を持ってとんでもない国までいったのだろうが、少ない家来で旅費も無いのにどうやっていたのだろうと不思議だ。 その時の家来に明智光秀がいた。 

そして、織田信長が足利義昭の要請に応じて、都に上がり、足利義昭を代15代の将軍に押し上げたのだった。

しばらくは信長と良い関係だったのだが、相変わらずいろいろの手紙を信長の敵対国にも出していた。 

そこで、信長は怒り心頭で、義昭を京都から追放して、足利幕府が消滅したのである。

普通はここで話が終わりなのであるが、知恵いずでは、ここからが本格的な話だった。 それは目に鱗だったので、今日ここに書いているのですが、面白い話です。

足利義昭が堺に着いて、そこで、全国に信長を追放せよと命令文を出している。 京都を追放されたのに上から目線で命令している。 ここが義昭の性格で、自分の立場はあくまでも将軍であるとの目線である。 そしてさらに西国、毛利の地域まで行きかけているので、毛利も義昭に来られたら信長と本当に敵対することになってしまうので困る。 信長もこれ以上義昭にいろいろなことをされたら困る。

そこで、毛利からは安国寺恵瓊、信長からは羽柴秀吉が堺に行って、義昭と3人の話し合いで、義昭にもうおとなしくしていて欲しいと頼んだそうな。 ところが義昭は言うことを聞かずに話し合いは決裂。 秀吉も参ったとか。 面白いのが、信長も義昭を殺さずに、どうしようもないと放っておく事になったようです。 信長は案外世間体を気にする人だったようですね。

その後、義昭は毛利の土地である、鞆の浦に来た、広島県福山市ですね。

毛利も困ったのであるけれど、来てしまったものは仕方がない。 将軍の位は剥奪されていなかったので、無碍にするわけにはゆかない。ですから立派な屋敷を立てて義昭は鞆の浦で暮らしながら、相変わらず、諸国の大名に信長を倒してわしを京都に戻せと手紙を出していた。

 

鞆の浦です。 この建物が義昭がいたところかもしれない。

 

ここは、瀬戸内海の真ん中あたりで、海上交通の要所だった。だから、ここから全国に手紙を出すのには都合が良かったようだ。

ここに義昭がいる間に織田信長が本能寺で討たれた。そこで、自分の命令で光秀が信長を討ったと言うようなことを書いたかどうか知らないが、光秀はもともと義昭の家臣だったので、そんな趣旨のことを書いて自分を将軍にしろとまたまた手紙攻勢をしたようです。 柴田勝頼と手を握って秀吉を倒したかったようだが、秀吉が天下をとってしまった。

その後、義昭はどうしたかと言うと自分から将軍職を辞任して、秀吉から一万石の大名にしてもらったとのこと。

 

京都宇治の槙島城跡。 足利義昭が京都を追われた時に一時的に住んでいて信長軍に攻撃されて、河内の国に逃げたとある。

後日秀吉から貰った槙島城はこことは違うかもしれないが、足利ゆかりの場所だ。

 

そして秀吉に付いて朝鮮出兵のために肥後名護屋に行ったりしている。

秀吉が天下を取ってしまったので、他の大名にけし掛けても無理なので、諦めてその後の人生を送ったようである。

ということで、何があっても「上から目線で」生きてきた足利義昭の話でした。

 

エヴァンゲリオン。 鞆の浦に行った時に乗ったんだよ。

 

 

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