日本語の授業は、どうして「読む」「聞く」「話す」「書く」をバラバラに行うのでしょうか。「精読」の授業で扱った内容を、「聴解」の授業で聴くことはありませんし、「聴解」の授業で扱った内容を、「会話」の授業で話してみることもありません。「会話」の授業で話したことを、「作文」の授業で書いてみることもありません。
これがどれだけ効率の悪い勉強方法か、ということは、一度でも学生が受けている授業を一巡してみると良く分かります。あるいは、学生が持っている教科書を見せてもらうといいかもしれません。
また、自分が受け持っている教科の各単元も、有機的に繋がっているかどうか、確認する必要があるように思います。
東京都で初任者研修を担当している先生にお聞きしたのですが、物事は関連付けられた方が憶えやすいということです。例えば、前の学期で「スピーチの仕方・ポイント」について話をしてあったのなら、新学期の最初の「冬休みにしたこと」のスピーチへのフィードバックに、先学期のポイントを使うことは必要ですし、社会の時間に習った大豆のことを、国語の時間の豆を扱った文章を読むときに思い出してもらうと、記憶がより鮮明になるということです。
タレントのタモリさんの記憶力は抜群で、まったく関連のないように見えるいくつかの言葉をきちんと覚えることができます。その秘密も同じ事で、「そのキーワードを使い、自分で勝手にストーリを作る」のだそうです。
それぞれの科目間も、科目内の各単元同士、毎回の授業もバラバラの状態では、学生が教えるそばから忘れていっても、仕方が無いのではないでしょうか。中には自分で関連性を見つけることができる学生もいますが、昨日学習したことと、今学習していることは関係がなく、明日学習することもまた今日学習した内容とつながっていかない、これで全てを憶えていることを期待するのは無理なのではないでしょうか。
そして、このバラバラには、学生同士(学生と教師も?)の関係も含まれます。話し合ったり、協力し合う事は極力抑えられて、競争させられる場面が普通かもしれません。あるいは、ペアを組む相手がいつも同じで、他の学生との関係が薄いということも含まれるかもしれません。
わたしがびっくりしたのは、同じクラスで勉強している学生同士でも、名前がとっさに出てこない学生がいるということです。みんなが寮生活をし、ほとんど同じカリキュラムで勉強していて、人数も20人足らずにも関わらずです。また、他の学年の学生と一緒になると、横を向いて口も利かないということも目にします。これも、普段の教育の成果であるといったら、皮肉に過ぎますでしょうか。
「行動主義」の考えに基づいた教え方
さて、このような、関連付けも無く、自分の適性や好みとも関係が無いことを、他の人と一律に詰め込まれる勉強が楽しいはずはありません。残る手段は、「テストと成績」で無理やりやらせるということですが、そういう勉強は、テストが終わって数日で忘れてしまうということは、私たちはみんな経験していることではないでしょうか。
テストが終わるたびに忘れていく、それを4年間繰り返すことでいったい何が残るのか、想像に難くありません。
ある学生は、日本語以外の単位が必要ということで、数学の授業も選択しました。授業が重なっているため出席はできず、試験直前の授業で発表される試験の内容を丸暗記するのが、通常の単位の取り方だそうです。つまり、登録したら一番最後の授業に出て、一夜漬けで単位を取っていくということです。
そんなことで大丈夫かと思っていましたら、案の定、単位を落としてしまったそうです。「そんなやり方で、数学の力は伸びるのですか」と聞くと、「それは難しいです、普段は勉強しませんから、試験が終わったら忘れます」とのこと。
「そもそも、それだったら、はじめから授業を1回だけにして、そこで範囲を発表すればいいじゃないですか」と言ってしまいましたが、試験だけが目的になった勉強というのは、どれほどモチベーションに影響を与えるのか、私たち教師は知っておく必要があるのではないでしょうか。
一度そういう考え方で授業に臨むようになると、授業がとてもつまらなくなる理由は、この考え方がどこから出てきたのかを知ると、よく分かります。「行動主義」の教育法は、「ネズミやサルやハトなどの動物実験」で培われたノウハウを、人間に応用している教育学なのです。
越えてはいけない線に触れると電気が流れるというのは、「教師の言うこと聞かないと成績を下げる」といったことに繋がりますし、ある行動をとると美味しいジュースが流れるというのは、「賞品で行動を促す」という発想に繋がります。それを無意識に感じた学生が、拒否反応を示すのではないでしょうか。
これがどれだけ効率の悪い勉強方法か、ということは、一度でも学生が受けている授業を一巡してみると良く分かります。あるいは、学生が持っている教科書を見せてもらうといいかもしれません。
また、自分が受け持っている教科の各単元も、有機的に繋がっているかどうか、確認する必要があるように思います。
東京都で初任者研修を担当している先生にお聞きしたのですが、物事は関連付けられた方が憶えやすいということです。例えば、前の学期で「スピーチの仕方・ポイント」について話をしてあったのなら、新学期の最初の「冬休みにしたこと」のスピーチへのフィードバックに、先学期のポイントを使うことは必要ですし、社会の時間に習った大豆のことを、国語の時間の豆を扱った文章を読むときに思い出してもらうと、記憶がより鮮明になるということです。
タレントのタモリさんの記憶力は抜群で、まったく関連のないように見えるいくつかの言葉をきちんと覚えることができます。その秘密も同じ事で、「そのキーワードを使い、自分で勝手にストーリを作る」のだそうです。
それぞれの科目間も、科目内の各単元同士、毎回の授業もバラバラの状態では、学生が教えるそばから忘れていっても、仕方が無いのではないでしょうか。中には自分で関連性を見つけることができる学生もいますが、昨日学習したことと、今学習していることは関係がなく、明日学習することもまた今日学習した内容とつながっていかない、これで全てを憶えていることを期待するのは無理なのではないでしょうか。
そして、このバラバラには、学生同士(学生と教師も?)の関係も含まれます。話し合ったり、協力し合う事は極力抑えられて、競争させられる場面が普通かもしれません。あるいは、ペアを組む相手がいつも同じで、他の学生との関係が薄いということも含まれるかもしれません。
わたしがびっくりしたのは、同じクラスで勉強している学生同士でも、名前がとっさに出てこない学生がいるということです。みんなが寮生活をし、ほとんど同じカリキュラムで勉強していて、人数も20人足らずにも関わらずです。また、他の学年の学生と一緒になると、横を向いて口も利かないということも目にします。これも、普段の教育の成果であるといったら、皮肉に過ぎますでしょうか。
「行動主義」の考えに基づいた教え方
さて、このような、関連付けも無く、自分の適性や好みとも関係が無いことを、他の人と一律に詰め込まれる勉強が楽しいはずはありません。残る手段は、「テストと成績」で無理やりやらせるということですが、そういう勉強は、テストが終わって数日で忘れてしまうということは、私たちはみんな経験していることではないでしょうか。
テストが終わるたびに忘れていく、それを4年間繰り返すことでいったい何が残るのか、想像に難くありません。
ある学生は、日本語以外の単位が必要ということで、数学の授業も選択しました。授業が重なっているため出席はできず、試験直前の授業で発表される試験の内容を丸暗記するのが、通常の単位の取り方だそうです。つまり、登録したら一番最後の授業に出て、一夜漬けで単位を取っていくということです。
そんなことで大丈夫かと思っていましたら、案の定、単位を落としてしまったそうです。「そんなやり方で、数学の力は伸びるのですか」と聞くと、「それは難しいです、普段は勉強しませんから、試験が終わったら忘れます」とのこと。
「そもそも、それだったら、はじめから授業を1回だけにして、そこで範囲を発表すればいいじゃないですか」と言ってしまいましたが、試験だけが目的になった勉強というのは、どれほどモチベーションに影響を与えるのか、私たち教師は知っておく必要があるのではないでしょうか。
一度そういう考え方で授業に臨むようになると、授業がとてもつまらなくなる理由は、この考え方がどこから出てきたのかを知ると、よく分かります。「行動主義」の教育法は、「ネズミやサルやハトなどの動物実験」で培われたノウハウを、人間に応用している教育学なのです。
越えてはいけない線に触れると電気が流れるというのは、「教師の言うこと聞かないと成績を下げる」といったことに繋がりますし、ある行動をとると美味しいジュースが流れるというのは、「賞品で行動を促す」という発想に繋がります。それを無意識に感じた学生が、拒否反応を示すのではないでしょうか。