幼稚園のとき、私は歌が好きでした。
老人ホームなどに遊びに行ったときも、ウルトラマンの主題歌を歌い、拍手をもらったことを覚えています。
小学生のとき、流行歌を歌うことを禁じられ、歌うことが少なくなりました。
中学生のとき、はじめて友達とバンドを組み、文化祭でアリスの歌を披露しました。そこで何人かのクラスメートに笑われてから、自信を失い始めました。
高校生のとき、私のクラスは合唱コンクールで優勝しましたが、私は音痴なので歌わないほうがいいと言われていました。もちろん歌ったのですが、優勝しても全くうれしくなく、大学でもカラオケなどには行きませんでした。
就職してからもカラオケなどは絶対に行かなかったのですが、どうしても歌が歌いたくなって、音楽の専門の先生にマンツーマンで教えてもらいました。中国に来るまでの1年間、毎週その先生の教えてくれたとおりに練習をしていました。
はじめは恥ずかしくて声もほとんど出ていなかったのですが、あるとき自分の声が部屋に響いているのを感じてから、自信がつき、練習も楽しくなってきました。
そして、今では学生の前で歌うことも時々あります。まあ、聞いている学生は迷惑でしょうけれど、私は気持ちがいいので、気にしないことにしています。
歌の専門の先生に出会うまで、多くの人が私に「お前は音痴だ」といい続けました。そして、私も自分は音痴だと思っていました。でも、専門の人にいわせると、本当の音痴というのはごくわずかしか存在しないそうです。
ギリシャ哲学にソクラテスという人がいるのですが、「あなたは体育を習うときに、体育の専門家以外の意見を参考にしますか?それとも、その分野に関してはその専門家の言うことを聞きますか?」という問いを発しています。
私に「音痴だ」といい続けた人たちは、本当に音楽の専門家だったのでしょうか。あるいは、歌を教える専門家だったのでしょうか。
それからも私はたくさんの「できない理由」を聞いてきました。
「どうせ天津だから北京には適わない」
「ドーナツなんて無理」
「1年生にスピーチは無理」
「学生主体のコンテストなんて、学校が協力してくれない」
「国際交流基金の先生が天津に来るはずがない」
「ドーナツなんて組織のコンテストを、誰も支持するはずがない」
「清華大学などの北京の有名大学の先生が天津に来るはずがない」
「三流大学の学生は、日本語が上手にならない」
「入試の成績が悪かった学生は能力が低い、卒業後もたいしたことはない」
「日本企業が学生のサークルを応援するなんてただの夢だ」
「天津の大学同士が協力して日本語教育に取り組むなんてありえない」
「天津の学生は、北京や大連、上海、西安にはかなわない」
「日本語の発音、聴解、会話力は、中国にいたら上達しない」
「日本語と英語の勉強の両立は無理だ」
「能力試験の勉強は退屈だ」
「語学の勉強は辛いだけだ」
「日本語は勉強すればするほど難しくなる」
さて、ここまで書いたことは、いったい誰が言ったのでしょうか。
本当にそれぞれの分野(日本語教育、教育心理学、社会学、チームマネジメントなど)の専門家が十分に調査した上で言っていることなのでしょうか。
私が河南省で教えた大学も、いわゆる「三本大学」で、学生たちは自信を失っていました。その学生たちに言い続けたのは、「入試の成績が卒業時の成績だと誰が言ったんですか?いつ証明されたんですか?」ということです。さらに、「卒業時の成績が一生の成績というのは、どういう根拠があるのですか」ということも言い続けました。
今年、天津ではドーナツが誕生し、いくつものコンテストを実施しました。計画段階でも準備段階でも、多くの「諦めようとするもっともらしい声」が聞こえてきましたが、そのたびに、「それは誰が言っているんですか、その人はその分野の専門家ですか」と言い聞かせながら進めてきました。
もちろん、意思決定者との関係作り、ネットワークで仕事をするなどの現実的な解決策は必要でしたが、特に多くの学生たちが持っている、根拠のない固定観念を変えることにじかんをつかってきました。
「天津でも、北京や大連、吉林などに負けないいい日本語の人材を育てることができる」
これは、先日のドーナツ会議にご出席くださった天津日本人会代表の方がおっしゃっていたことです。
自分の成長を止める根拠のない意見には、「谁说的?」と心の中で言い返しましょう。
誰が何を言おうと、自分がそれを認めない限り、誰かの意見が自分を左右することはないのです。
そんなことを気にするより、自分の目標がどうしたら達成できるのかを、その方法を本当に知っている、経験者や成功した人たちに聞いてください。
「今、あなたを否定している人たちは、本当にその分野の専門家ですか?」
老人ホームなどに遊びに行ったときも、ウルトラマンの主題歌を歌い、拍手をもらったことを覚えています。
小学生のとき、流行歌を歌うことを禁じられ、歌うことが少なくなりました。
中学生のとき、はじめて友達とバンドを組み、文化祭でアリスの歌を披露しました。そこで何人かのクラスメートに笑われてから、自信を失い始めました。
高校生のとき、私のクラスは合唱コンクールで優勝しましたが、私は音痴なので歌わないほうがいいと言われていました。もちろん歌ったのですが、優勝しても全くうれしくなく、大学でもカラオケなどには行きませんでした。
就職してからもカラオケなどは絶対に行かなかったのですが、どうしても歌が歌いたくなって、音楽の専門の先生にマンツーマンで教えてもらいました。中国に来るまでの1年間、毎週その先生の教えてくれたとおりに練習をしていました。
はじめは恥ずかしくて声もほとんど出ていなかったのですが、あるとき自分の声が部屋に響いているのを感じてから、自信がつき、練習も楽しくなってきました。
そして、今では学生の前で歌うことも時々あります。まあ、聞いている学生は迷惑でしょうけれど、私は気持ちがいいので、気にしないことにしています。
歌の専門の先生に出会うまで、多くの人が私に「お前は音痴だ」といい続けました。そして、私も自分は音痴だと思っていました。でも、専門の人にいわせると、本当の音痴というのはごくわずかしか存在しないそうです。
ギリシャ哲学にソクラテスという人がいるのですが、「あなたは体育を習うときに、体育の専門家以外の意見を参考にしますか?それとも、その分野に関してはその専門家の言うことを聞きますか?」という問いを発しています。
私に「音痴だ」といい続けた人たちは、本当に音楽の専門家だったのでしょうか。あるいは、歌を教える専門家だったのでしょうか。
それからも私はたくさんの「できない理由」を聞いてきました。
「どうせ天津だから北京には適わない」
「ドーナツなんて無理」
「1年生にスピーチは無理」
「学生主体のコンテストなんて、学校が協力してくれない」
「国際交流基金の先生が天津に来るはずがない」
「ドーナツなんて組織のコンテストを、誰も支持するはずがない」
「清華大学などの北京の有名大学の先生が天津に来るはずがない」
「三流大学の学生は、日本語が上手にならない」
「入試の成績が悪かった学生は能力が低い、卒業後もたいしたことはない」
「日本企業が学生のサークルを応援するなんてただの夢だ」
「天津の大学同士が協力して日本語教育に取り組むなんてありえない」
「天津の学生は、北京や大連、上海、西安にはかなわない」
「日本語の発音、聴解、会話力は、中国にいたら上達しない」
「日本語と英語の勉強の両立は無理だ」
「能力試験の勉強は退屈だ」
「語学の勉強は辛いだけだ」
「日本語は勉強すればするほど難しくなる」
さて、ここまで書いたことは、いったい誰が言ったのでしょうか。
本当にそれぞれの分野(日本語教育、教育心理学、社会学、チームマネジメントなど)の専門家が十分に調査した上で言っていることなのでしょうか。
私が河南省で教えた大学も、いわゆる「三本大学」で、学生たちは自信を失っていました。その学生たちに言い続けたのは、「入試の成績が卒業時の成績だと誰が言ったんですか?いつ証明されたんですか?」ということです。さらに、「卒業時の成績が一生の成績というのは、どういう根拠があるのですか」ということも言い続けました。
今年、天津ではドーナツが誕生し、いくつものコンテストを実施しました。計画段階でも準備段階でも、多くの「諦めようとするもっともらしい声」が聞こえてきましたが、そのたびに、「それは誰が言っているんですか、その人はその分野の専門家ですか」と言い聞かせながら進めてきました。
もちろん、意思決定者との関係作り、ネットワークで仕事をするなどの現実的な解決策は必要でしたが、特に多くの学生たちが持っている、根拠のない固定観念を変えることにじかんをつかってきました。
「天津でも、北京や大連、吉林などに負けないいい日本語の人材を育てることができる」
これは、先日のドーナツ会議にご出席くださった天津日本人会代表の方がおっしゃっていたことです。
自分の成長を止める根拠のない意見には、「谁说的?」と心の中で言い返しましょう。
誰が何を言おうと、自分がそれを認めない限り、誰かの意見が自分を左右することはないのです。
そんなことを気にするより、自分の目標がどうしたら達成できるのかを、その方法を本当に知っている、経験者や成功した人たちに聞いてください。
「今、あなたを否定している人たちは、本当にその分野の専門家ですか?」