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改札を出て右に曲がり第二京浜の高架をくぐって歩道を走行。
橋を渡るとすぐ左手に明治天皇六郷渡御碑があり、並んで『長十郎梨のふるさと』の看板や『史跡 六郷の渡し』の解説板があります。
川崎方面に目を向けますと旧東海道への方向表示の看板があり、高架の下を通って行く方向が旧東海道だという事がわかります。
方向表示の先の角のマンション脇に石の道標が建っているので近寄って見てみると『万年横町 大師道』と書かれた道標。
旧東海道方向に曲がらず万年横町へ左折してしばらく走りましたが、史跡らしいものが見つからなかったので来た道を戻り、改めて高架をくぐって旧東海道へ。
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六郷(現在の多摩川)に架けた橋はたびたび洪水で流され、200年近く渡し舟の時代が続いたとの事です。
舟をおりて川崎宿に入ると街道筋は賑やかな旅籠街。
川崎宿には旅籠62軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕篭屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計368軒あったそうです。
案内板を読んでからどちらの道へ進もうと考えましたが道路脇に道標の旧東海道という石柱がありましたので、安心して進む事にしました。
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地図によると『万年跡』を見落としたようですが、今回は神奈川宿まで行きますので先は長く見落とした場所はまたの機会として先に進む事にしました。(今回はかなり見落としたポイントがあります。
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川崎の町は史跡めぐりのため交差点に旧東海道の石柱を設置してあったりしているので迷わずに歩く事が出来てます。
商店街を進むと電柱に田中本陣跡と矢印付きで書かれているので矢印の方向の家を見ると個人医院横に解説板建てられていました。民家が建っており、本陣の跡形はありません。
更に進むと駐車場横に宝暦の大火の説明板があります。
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寺内にはかっての宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今も残ってあるそうです。
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慶長六年(1601)徳川家康が東海道を新たに整備して、39宿を定めたが川崎宿は品川宿と神奈川宿の合の宿で、元和九年(1623)家光の時に宿駅に追加制定されいわゆる東海道五十三次になった。
川崎宿は宝暦や文久の大火、安政大地震、また昭和二十年四月(1945)の米軍B29の大空襲のため江戸を物語る面影は全て焼失し今では浮世絵や沿道の古寺の石造物からわずかに往時の川崎を偲ぶのみとなっているそうです。
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本日は休館日だったので資料館の展示物は未確認。
資料館を過ぎてすぐの信号のある交差点のこちら側には川崎宿解説板があり、道路の反対側のセブンイレブンの横に問屋場跡の碑があります。
川崎駅に向かう大きな通りを渡り川崎信用金庫横の商店街を更に進みます。
ひたすら道なりに進みましたが、『佐藤本陣跡』や『小土呂橋』、『京口土居跡』等は見落としてしまったようです。
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ただ、写真を後で確認したところ、このプレートも町内会館の名称の『麦の穂』の由来が芭蕉の句であることを記述しているわけで『芭蕉句碑』も見落としてしまってました。
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ここら辺から旧東海道といった案内表示はなくなっており、たぶんこの道だろうと思いながら進んでいます。
しばらく、進むと京急八丁畷駅が見えてきました。
八丁畷駅の踏切を渡って線路に沿った道が旧東海道らしく表示があり確認できました。
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川崎宿を過ぎてから隣の市場村までの区間が八丁(約870メートル)あり、畷(なわて)といって道が田畑の中をまっすぐのびていたのでこの地を八丁畷と呼ぶようになったそうです。
更に住宅街を進みます。
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今回のルートで始めての一里塚です。
川崎宿の江戸方/上方見附跡は見当たらなかったのですが、東海道らしくやっと一里塚がありました。
ただし、一里塚というより神社みたいな雰囲気でした。
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鶴見川橋を渡るとすぐ左手に『鶴見橋関門旧跡の碑』開港とともに外国人に危害を加えるのを防ぐため設けられた関門跡の碑です。
さて、ひたすら交差点などは曲がらず進んで鶴見駅近くの商店街を通り名主佐久間家の史跡案内等を見つけながら進んで来たのですが、鶴見駅前のロータリーでどちらの道が旧東海道か判らなくなってしましました。
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正面には京急の鶴見駅があります。たぶん線路の右か左の道が旧東海道であるとは思うのですが、案内表示はどこにもありません。
どちらにしようかと悩みましたが、線路左手の道は急角度で曲がっているようなので線路右手の道を進む事にしました。結局突き当たりで左に曲がり線路左側の道に出て来てしましました。
道なりに進み国道を渡り、生麦の魚河岸通りを進み国道15号から大黒ふ頭へ向かう大通りの手前にありました。
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民家の駐車場の横に設置されていました。
今回の川崎宿-神奈川宿の間の史跡のポイントとして『生麦事件』は歴史的事件として是非とも確認しておきたい場所でした。
ただ、事件の碑があるのでそこを目的としていたのですが、事件現場と書かれているとよりリアルな気がします。
史跡ではこの辺りで・・・。といった記述が多い中、現場です。ここから次のポイント『生麦事件の碑』へ。
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この場所は先ほどの事件発生現場から逃れたイギリス商人リチャードソンが落命した場所に建てられたそうです。
当時の模様は良く判りませんが、かなり現場から離れておりちょっと驚きです。
生麦を過ぎ子安から神奈川宿までは特に史跡もなくひたすら走るだけ。
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出発してから2時間掛かって神奈川宿到着。
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神奈川宿で開国時に各寺院が外国の領事館として利用された時に屋根を外して改修中と幕府の依頼を断ったそうです。
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社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちることから笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神と称された。後に笠䅣稲荷神社と改称され現在の地に遷座。
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海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(1299)内海新四郎光善というこの地の漁師が海中より霊像を拾い上げ、娘に託して建てたのがこの寺であるという伝承がある。本尊は高さ15センチの木造座像の虚空蔵菩薩です。神明宮の別当寺で同一境内地にあったが神仏分離令で分かれて今日に至っている。
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かって境内に流れていた上無川に牛頭天王のご神体は現れ、洲崎神社およびこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷には若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。
本日の写真撮影は神奈川宿まで終了。
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