坂を下り切ると先程、橋を渡って右折した交差点の反対側に出てきました。先程と進んだ方向と反対の方向へ右折して、次の目的地である鯖神社を探して進みます。
鯖神社です。
間違いなく鯖と書かれています。環状4号線で隔てられていますが、密蔵院という真言宗のお寺の関連らしいですが、なぜ鯖なのかは不明です。源義朝の官位の左馬から左馬神社としていたのを鎌倉北条の時代に偽って鯖としたとも伝えられているそうですが他の左馬神社はなぜ変えなかったのか納得できません。
鯖神社を確認した後はもとの道のもどり四ッ谷交差点を目指して歩きます。
四ッ谷交差点の4-50メートル手前の右側に第六天神社の鳥居が見えて来ます。
鳥居脇の第六天神社・酒湧池の解説によると鎌倉幕府以前からこの地に祀られているといわれる古い神社。
祭神は『面足能命(おもたるのみこと)と惶根能命(かしこねのみこと』の二柱。
境内の隣には池があり、弁天様が祀られ、弁天池と呼ばれています。親孝行の息子がこの池の水を樽に汲んで病気の酒好きの父に飲ませたところ酒になり、それを知った村人が一儲けしようと池の水をくんだところ、ただの水になったという孝子伝説が残っています、だそうです。
階段を登り切ると小さな社がありますが酒湧池への道というか池が見当たりません。
解説に書いてあったので近くにある事は間違いないと思い社の後ろにある坂道を登ると酒湧の池という看板が出ていたので竹に覆われた狭い下りの道を降りて行き酒湧池を確認。
半径1メートル位の円形の場所の奥に小さな祠があり周りを囲むように幅1メートルくらいの池があります。(ドーナッツ型の池)
残念ながら、現在はとても飲みたいとは思えない状態となっています。
池に来た道を戻り神社裏の道をそのまま登り、四ッ谷湧き水を探しますが見つからないので、民家の点在する脇道をとおり、市営地下鉄の高架下の通路を通り和泉川の測道を上流方向に向かって歩いて行きました。
和泉高校の手前の橋を渡り、奥へと進む道を30メートルほど進むと中之宮左馬(サバ)神社があります。
この左馬神社の祭神は源満仲だそうです。源義朝の官位説はどうなったんでしょう?
謎が謎呼ぶサバ神社。
境内脇からもとの道に戻り再び和泉川を渡る橋を目指して進みます。
基本的に同じ道を戻る事なく常に歩いていない道を歩くのが私の散歩のお約束。
桜川公園を右手に見ながら和泉川に架かる石橋という橋を渡り、正面のこんもりした山が泉中央公園らしいので登って行く道を探しながら適当に道を曲がり公園へ。
公園の中を進み、一段下がったところにある池は泉小次郎親衝(平)の馬洗いの池と伝えられており横浜市地域史跡となっています。
公園のこの場所から100メートルほど歩いた場所に泉小次郎が創建した道場といわれている長福寺と築いた城の鎮守神を祭った須賀神社があります。
境内の泉小次郎親衝縁起によれば、泉小次郎親衝は信濃の国(上田市小泉)の住人にして信濃源氏の嫡流なり。
建暦三年(1213年)二代将軍源頼家の遺児千寿を擁して執権北条打倒(源家再興)を企てるも事前に発覚し追手を討ちて行方を晦ます。
小次郎と意を同じくする越後・伊勢・下総の衆330余名に及ぶ。
この衆親衝の乱が口火となり侍所別当和田義盛の乱起り北条体制に不満を持つ相模武士団が挙兵する(吾妻鏡より)だそうです。
和田稲荷(和田義盛)や二俣川鶴ヶ峰合戦(畠山重忠)、富士塚城(飯田家義)とこのお寺や池の泉小次郎の話など教科書では習った記憶のない鎌倉時代のお話が横浜には結構あるものだと感心しました。
と、感心したところで最終目的地蚕御霊神塔へ出発。
ほぼ、道なりに進んで行くと長後街道に出る手前の二股に分かれるところにある神明社の道路脇に蚕御霊神塔はあります。
蚕御霊神塔(かいこごりょうしんとう)横浜市地域有形民俗文化財
泉区和泉町3696番地に所在する本塔は、明治11年(1878年)に造立された角柱で、その規格は高さ70.5センチ、幅33センチ、厚さ31センチを測ります。
塔の背面には、慶応二年(1866年)三月に霜害のため桑が枯れてしまい蚕を育てことができなくなり、蚕を地中に埋めてしまったことが記されているとともに、台石には六十余名の連名が見られる事から、一村あげて、その時の蚕の慰霊を行なった事を知る貴重な資料です。と解説板には書かれています。
糸を取るために蚕の命をうばうことよりも無駄に殺してしまった事に対し蚕の慰霊をしたということでしょうか?
以上で3時間の蚕と歴史を辿る散歩は終了。
では。
鯖神社です。
間違いなく鯖と書かれています。環状4号線で隔てられていますが、密蔵院という真言宗のお寺の関連らしいですが、なぜ鯖なのかは不明です。源義朝の官位の左馬から左馬神社としていたのを鎌倉北条の時代に偽って鯖としたとも伝えられているそうですが他の左馬神社はなぜ変えなかったのか納得できません。
鯖神社を確認した後はもとの道のもどり四ッ谷交差点を目指して歩きます。
四ッ谷交差点の4-50メートル手前の右側に第六天神社の鳥居が見えて来ます。
鳥居脇の第六天神社・酒湧池の解説によると鎌倉幕府以前からこの地に祀られているといわれる古い神社。
祭神は『面足能命(おもたるのみこと)と惶根能命(かしこねのみこと』の二柱。
境内の隣には池があり、弁天様が祀られ、弁天池と呼ばれています。親孝行の息子がこの池の水を樽に汲んで病気の酒好きの父に飲ませたところ酒になり、それを知った村人が一儲けしようと池の水をくんだところ、ただの水になったという孝子伝説が残っています、だそうです。
階段を登り切ると小さな社がありますが酒湧池への道というか池が見当たりません。
解説に書いてあったので近くにある事は間違いないと思い社の後ろにある坂道を登ると酒湧の池という看板が出ていたので竹に覆われた狭い下りの道を降りて行き酒湧池を確認。
半径1メートル位の円形の場所の奥に小さな祠があり周りを囲むように幅1メートルくらいの池があります。(ドーナッツ型の池)
残念ながら、現在はとても飲みたいとは思えない状態となっています。
池に来た道を戻り神社裏の道をそのまま登り、四ッ谷湧き水を探しますが見つからないので、民家の点在する脇道をとおり、市営地下鉄の高架下の通路を通り和泉川の測道を上流方向に向かって歩いて行きました。
和泉高校の手前の橋を渡り、奥へと進む道を30メートルほど進むと中之宮左馬(サバ)神社があります。
この左馬神社の祭神は源満仲だそうです。源義朝の官位説はどうなったんでしょう?
謎が謎呼ぶサバ神社。
境内脇からもとの道に戻り再び和泉川を渡る橋を目指して進みます。
基本的に同じ道を戻る事なく常に歩いていない道を歩くのが私の散歩のお約束。
桜川公園を右手に見ながら和泉川に架かる石橋という橋を渡り、正面のこんもりした山が泉中央公園らしいので登って行く道を探しながら適当に道を曲がり公園へ。
公園の中を進み、一段下がったところにある池は泉小次郎親衝(平)の馬洗いの池と伝えられており横浜市地域史跡となっています。
公園のこの場所から100メートルほど歩いた場所に泉小次郎が創建した道場といわれている長福寺と築いた城の鎮守神を祭った須賀神社があります。
境内の泉小次郎親衝縁起によれば、泉小次郎親衝は信濃の国(上田市小泉)の住人にして信濃源氏の嫡流なり。
建暦三年(1213年)二代将軍源頼家の遺児千寿を擁して執権北条打倒(源家再興)を企てるも事前に発覚し追手を討ちて行方を晦ます。
小次郎と意を同じくする越後・伊勢・下総の衆330余名に及ぶ。
この衆親衝の乱が口火となり侍所別当和田義盛の乱起り北条体制に不満を持つ相模武士団が挙兵する(吾妻鏡より)だそうです。
和田稲荷(和田義盛)や二俣川鶴ヶ峰合戦(畠山重忠)、富士塚城(飯田家義)とこのお寺や池の泉小次郎の話など教科書では習った記憶のない鎌倉時代のお話が横浜には結構あるものだと感心しました。
と、感心したところで最終目的地蚕御霊神塔へ出発。
ほぼ、道なりに進んで行くと長後街道に出る手前の二股に分かれるところにある神明社の道路脇に蚕御霊神塔はあります。
蚕御霊神塔(かいこごりょうしんとう)横浜市地域有形民俗文化財
泉区和泉町3696番地に所在する本塔は、明治11年(1878年)に造立された角柱で、その規格は高さ70.5センチ、幅33センチ、厚さ31センチを測ります。
塔の背面には、慶応二年(1866年)三月に霜害のため桑が枯れてしまい蚕を育てことができなくなり、蚕を地中に埋めてしまったことが記されているとともに、台石には六十余名の連名が見られる事から、一村あげて、その時の蚕の慰霊を行なった事を知る貴重な資料です。と解説板には書かれています。
糸を取るために蚕の命をうばうことよりも無駄に殺してしまった事に対し蚕の慰霊をしたということでしょうか?
以上で3時間の蚕と歴史を辿る散歩は終了。
では。