散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

パク森

2007-12-26 12:09:26 | 昼飯
パク森カレー中盛、千円。
ドライカレーがご飯の上に乗っているので、カレーとご飯のバランスを考えなく良くて結構お気に入りです!
注文してから出てくるまでが早く、さっさと食べられるのも移動途中の食事に最適!
ここの所、昼時の小田原の定番となっています。
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杜記

2007-12-25 13:06:45 | 昼飯
エビと玉子炒め680円漬け物、ご飯、スープ、デザート付き。
ご飯はおかわり自由!
値段は安く、ボリューム満点でアンニン豆腐も旨い!
場所が伊勢佐木町モールのハズレのせいか混雑してなく穴場です!
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年末の雰囲気がして来ましたね。

2007-12-24 23:42:35 | 日記
テレビを見ても、新聞を読んでも年末の雰囲気を漂わせて来ましたね。
今年一年を振り返りやり残しはないかと考えたら、東海道五十三次(神奈川)は大磯までで先に進んでいない事や帷子川の源流に行っていない事に気付いてしまった。
大磯から小田原までは距離もあるし、途中に史跡があまりないのでこの寒い中行く気にもなれないので、取りあえず相鉄鶴ヶ峰駅から源流の若葉台(ここ辺りと記載されているサイトはよく見るが実際の場所は不明)まで歩いてみる事にしました。
鶴ヶ峰駅を降りて厚木街道方面に商店街を抜けて行き厚木街道と交差した先になにやら標柱があり、読んで見ると「吾妻鏡 鶴ヶ峰・二俣川合戦の地」「畠山重忠公終焉の地」と書いてあります。

畠山重忠公終焉の地碑


帷子川の源流を辿る旅なのでちょっとだけ寄って進む事にしました。
近くには首塚等もあるようです。

水道道に出てすぐ左の脇道に入ると川沿いの道に出ます。
ちょうど畠山重忠公の石碑の裏の下辺りで二俣川が帷子川に合流しています。

二俣川合流

この画像は上流方向に向かって撮影しており、右側から二俣川が合流しています。
正面のトンネルの上辺りが先程の畠山重忠公の石碑があるところです。
坂道を下って行くとすぐある橋が『今川橋』で、ここから上流に見える橋が『今川親水橋』。まだ、整備中なのでしょう河川沿いにここから先は歩けなくなっており少し川から離れ住宅街を歩きます。
途中、脇道で作っている最中の橋がありましたが、まだ通行できないようでフェンスで塞がれていました。
次の橋は『公園橋』で突き当たりに鶴ヶ峰本町公園があるので公園橋と名付けられたのだと思います。
しばらく川の右側を歩き『腰巻橋』を渡って今度は上流に向かって川の左側を歩きます。少し歩くと左側から帷子川に合流する川がありますのでその川に架かる『上今川橋』を渡りしばらく左側を進みます。
『今宿東橋』を渡って今度は右側を通行。『高山橋』は渡り切らずに橋の中腹で撮影だけして、そのまま川の右側をひたすら歩きます。
帷子川の右側の道は水道道で車の通りがある割と広い道なのですが、左手に見ている帷子川と水道道を挟んで反対側にも川が流れているのが気になり、道路の反対側に橋が見えたので道路を渡って撮影。
橋の名前は『清来橋』帷子川の支流か河川整備工事の途中の帷子川旧流かもしれません。
道路を渡って再びもとの道に戻り、すぐ先に見える橋は『清来寺橋』です。
橋を渡り下流方向に進んだ坂の上に清来寺がありそこへ渡る橋なので清来寺橋なのでしょう。
地図で見ると左側の道は一旦川から遠のくようでしたが左側にも川に沿って道があったので左側を進む事にしました。
清来橋から見えていました『今宿新橋』でも上流下流とそれぞれの方面を撮影して左側を通行。
『用地橋』ですが、ここら辺までくると段々川幅が狭くなって来たような気がします。
左手には団地が川に面して建ち並んでいます。
数えたら6棟ほどあり途中の棟に住む人が川を渡るためでしょうか、橋が架かっており橋の名前も『団地橋』そのままの名前です。
そのまま川の左手を歩いて行くと川の上から釣り糸を垂れている小学生がいました。『日影橋』の手前で少し川の流れを塞き止めたり、右に支流を作ったりしているので魚がいるのでしょうか?
帷子川には鮎がいるらしいのですが、どうも信じられません。
ところどころ川の水量が減っています。
『今宿南橋』では橋を渡った先の建設現場の車が橋に停まっており上流の撮影がし難かったです。
橋を渡りましたが、乗用車がすれ違うのは出来ない状態でそれだけ車の通りも少ないという事でしょうか?
橋の上流に『矢指川が左から合流』しているのが見えました。
合流地点から先の帷子川は更に川の流れは細くなり始め『都岡橋』の下を流れる川幅は狭く、浅くなっていました。水辺の小鳥が歩いて渡っていた位!?
帷子川を跨ぐ中原街道の橋は『御殿橋』といい片側2車線道路となっています。横断歩道は遠かったので車の流れが切れたところで横断!
橋の反対側で川幅は更に狭くなっており、右手の『スーパーへ渡る橋』から見た川は深さはあるのですが幅は小川並みに狭くなっていました。
上流方向を見ると真っすぐな流れと右側に急に曲がった流れがありましたが、恐らくここも河川改修工事によって流れを変えられた部分だと思います。
取りあえず新しく作られた河川の方が左に道がありましたので進む事にしました。
しばらく歩くと『下川井橋』いう新しい橋がありましたので渡りながら撮影。
国道16号に出て先程右に分かれた帷子川の流れが気になったので地図で確認して見ると川の流れがあるハズの場所が右の画像のようにせきとめられていました。
新たに流れを変えたところには『吹上橋』という橋が架かっていました。
ただ、橋を渡った先は川に沿って道がないようなので、再び川と交差するまで国道16号を歩く事にしました。
川井本町の交差点の先で左に入れる道があったので入ってみると帷子川が流れており『三家橋』という小さい橋が架かっていました。(奥は駐車場と会社敷地になっているので通り抜け不可でした)
帷子川は『川井橋』というところで国道16号(八王子街道)をくぐって住宅街へ。民家の間を川が通ってますので橋を探してしばらく歩きました。
横浜ドライというクリニーング工場の先を左に(八王子街道)に向けて歩くと『大栗橋』という幅はあるけど短い橋を渡って再び八王子街道を歩きます。
トヨタカローラの先で『橋らしき物はないのですが』八王子街道を再び帷子川がくぐって反対側に流れていったので八王子街道と平行する道へ行きました。
車の通りがあまりない裏通り?を歩き『五反田橋』を通過。
『私有地へ渡る橋』『病院へ渡る私的な橋』を左手に見ながらほぼ直線の道をのんびりと歩き『明神橋』『徒橋』を渡り再び八尾王子街道へ。
200メートル歩いた位でしょうか、また『橋らしき物がない』ところで帷子川が八王子街道をくぐります。
そのまま道路左側を歩いて100メートルほどの歩道橋の手前で『左側からの小川』が帷子川の方に流れて行きます。
取りあえず、道路の反対側に渡って川の流れを確認する事にしようと進むと『学校橋』という非常に短い橋が架かっているので渡ります。(段々、川に架かる橋が短くなって来ているので途中で消えてしまうのではないかとちょっと不安になり始めました)
地図に寄ると橋がまだ、あるはずなので左に曲がれそうな道を探して見つけたのが『日向根橋』車1台分の幅と長さでしょうかかなり小さい橋です。
八王子街道に出て再び川を渡れる橋を探して歩き、橋の上で洗車している人に『橋の先はどこかに通じていますか?』と尋ねたら『行き止まり!』
よく考えてみれば、橋の上で洗車しているようであれば通り抜けできるわけなないんですよね。
上川井の交差点で右の細い道に入り『中井橋』を渡り突き当たりを右に曲がって若葉台団地入口交差点を直進してコンビニ手前の『大貫橋』で帷子川を確認。
食べ物屋さんの裏(駐車場)を抜けて若葉台団地へ向けて進みます。
ほとんど川幅もなく(1メートル以下?)の川に沿って歩き途中の『会館橋』の上から流れを確認。
いきなりですが、道路に向かって『暗渠』となりました。
道路の反対側に渡って見ましたが、川の流れが途切れてしまいました。
ここまで来て流れが消えてしまうなんてショックです!
取りあえず、先に進めばどこかからか流れが出て来るかと思い先に進みます。
Y字路の赤枝病院近くの左手に上川井小川アメニティー入口の標柱がありましたのでこの先が帷子川の水源である事を願いつつ歩いて更に数十分。
老人ホームの裏手に『上川井小川アメニティー』の水源はありました。
石から湧き出る水。
よく見ると中に金属パイプが通っており、そこから水が溢れています。
天然の地下水?
それとも水道水?
どちらか判りません。
この先はフェンスで塞がれており進む事はできません。
フェンス越しには汚い小川が見えます。
ここまで来て帷子川の水源は未確認のままとなりました。
では。
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赤レンガ倉庫(1号倉庫及び2号倉庫)

2007-12-23 10:17:45 | 横浜歴史的建造物
正式名称は新港埠頭保税倉庫
1号倉庫は大正2年(1913)竣工
2号倉庫は明治44年(1911)竣工

全長約150メートル、鉄骨造ベランダを持ち、日本初のエレベーターや避雷針、消火栓を備えており、当時の保税倉庫の模範となる。
昭和20年(1945)連合国軍に接収され、連合国軍に接収されて使用不能となる。
昭和31年(1956)接収が解除。貿易の増加により取扱貨物量増大。
昭和51年(1976)貨物のコンテナ化が進展して他の埠頭に主役が移り、取扱貨物量が激減。
平成元年(1989)倉庫としての役割を終える。
平成4年(1992)横浜市が赤レンガ倉庫を国から取得。修復保全工事開始。
平成14年(2002)商業施設赤レンガパークとしてオープン。
横浜3塔が見える場所 So-net buzzmap
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横浜市開港記念会館

2007-12-22 20:01:19 | 横浜歴史的建造物
旧開港記念横浜会館
大正6年(1917)竣工
国指定重要文化財

・大正12(1923)年の関東大震災により、時計塔と壁体だけを残し、内部は焼失し、屋根ドーム群は欠落。
・昭和2(1927)年に震災復旧工事が竣工し屋根ドーム群以外は復元。
・昭和20(1945)年から、昭和33(1958)年まで米軍に接収され「メモリアルホール」と呼ばれ、進駐軍兵士向けの映画の上映館として利用される。
・昭和34(1959)年6月に中区の公会堂として、名称を「横浜市開港記念会館」と変更。
・平成元年(1988)にドームの復元工事が終了して、大正時代そのままの姿に復元。
横浜市開港記念会館 So-net buzzmap
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鉄道時計

2007-12-21 22:30:11 | どうでもいい話
腕時計の鎖が切れてから1年くらい腕時計なしで生活していたんですが、時間の確認でいちいち携帯を見るのも面倒臭くなって来たので時計をひさしぶりに買いました。
腕時計も今更な気がしたので懐中時計にしてみました。
画像で見て頂ければ判るように文字が書かれてしっかりと時間が確認しやすく、また余計な飾りのないシンプルな文字盤となっています。
買ったと書きましたが正確にいうと量販店のポイントが貯まっていたので交換というかもらって来たようなものです。
ポイント貯めてお金を払わず商品を受け取るのは非常に得した気分になります。

では。
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ジェラール水屋敷地下貯水槽

2007-12-21 21:55:23 | 横浜歴史的建造物
明治10年代竣工
国登録有形文化財

幕末に櫐に下フランス人実業家アルフレッド・ジェラールは、山手居留地77番・78番の地を得ると、谷戸に湧き出る豊富な湧水を利用して横浜港に出入りする船舶への給水事業を開始しました。『水屋敷』の名前はここに由来しています。また、ヘラールは蒸気機関を導入した工場を建設し、フランス瓦や煉瓦・土管・タイルなど建設資材の製造・販売もてがけていました。
この煉瓦造貯水槽は工場の入口部分に位置しており、元町公園一帯が当時のジェラール工場の敷地でした。現存するジェラール工場の遺構としては、この貯水槽のほか、元町公園内にもう一つの煉瓦造地下貯水槽(上部貯水槽)の存在が確認されています。(以上解説プレート記載記事)
ジェラール水屋敷地下貯水槽: Tigerの地図帳 So-net buzzmap
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ねぎや

2007-12-21 12:34:23 | 昼飯
本日は御殿場まで来ています。
ドライブイン風です。
味噌炒めねぎラーメン735円大盛105円増し。
こってり味噌味、炒めたネギの香ばしい匂いが食欲をそそります!
アンニン豆腐とコーヒーはサービスでおかわり自由!
食後は体が温まり汗だく?
店の駐車場から見える富士山が雄大です!

ラーメンねぎや本店

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敦煌

2007-12-20 12:50:43 | 昼飯
海老とイカの塩味炒め750円。
ちょっとおかずが少なくなったようです。
味は落ちていません。
食べ放題1980円が魅力です。
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象の鼻

2007-12-20 00:42:59 | 横浜歴史的建造物
象の鼻: Tigerの地図帳 So-net buzzmap
慶応年間創建

象の鼻地区の変遷

安政6年(1859)頃 直線状二ヶ所の波止場設置
明治元年(1867)頃 直線状の波止場形状を湾曲した形に変更
明治29年(1896)頃 象の鼻防波堤の内外形状変更、先端に鉄桟橋築造(大桟橋原型)
大正6年(1917)頃 新港埠頭の築造
昭和6年(1931)頃 関東大震災被災後、やや直線的な形態に復旧
昭和40年(1965)頃 現在の形状となる
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