学生の頃、お世話になった教授からの年賀に、「この3月で退官です」。
との添え書きがあった。私の所属した学科は、幾度か看板名をかえて今日
まで至る。学部も3度変更となった。
教授は、その大学の卒業生でもあったためか、学生の面倒見もよく、
「さっちゃん」という愛称で親しまれていた。
ぼんくらな私は、卒業まで7年かかった。20歳、22歳、23歳と幾
度か節目があった。所属する学科の先生方はときどき、私を研究室に呼んで、
お茶をすすりながら、「そろそろ勉強の方に・・・」などど、やんわりと
声をかけてくれ続けてくれた。「さっちゃん」も、その一人だった。
数少ない女性研究者で凛とした振る舞いと津軽弁。
「まさか、卒業できるとは思いませんでした」と笑って評された。
数年前、立ち話でお会いしたときに、「大学生の引きこもりが増えた」と
十数年前の状況との変化を危ぶんでいた。
ご活躍ください、と結んだ文面を見ながら、研究者としてと同時に、教育
者としてのメッセージを感じた。
どうも。
との添え書きがあった。私の所属した学科は、幾度か看板名をかえて今日
まで至る。学部も3度変更となった。
教授は、その大学の卒業生でもあったためか、学生の面倒見もよく、
「さっちゃん」という愛称で親しまれていた。
ぼんくらな私は、卒業まで7年かかった。20歳、22歳、23歳と幾
度か節目があった。所属する学科の先生方はときどき、私を研究室に呼んで、
お茶をすすりながら、「そろそろ勉強の方に・・・」などど、やんわりと
声をかけてくれ続けてくれた。「さっちゃん」も、その一人だった。
数少ない女性研究者で凛とした振る舞いと津軽弁。
「まさか、卒業できるとは思いませんでした」と笑って評された。
数年前、立ち話でお会いしたときに、「大学生の引きこもりが増えた」と
十数年前の状況との変化を危ぶんでいた。
ご活躍ください、と結んだ文面を見ながら、研究者としてと同時に、教育
者としてのメッセージを感じた。
どうも。