特殊清掃「戦う男たち」コメント公開

戦友の意見交換の場として公開しています。

無花果(公開コメント版)

2007-09-29 08:06:47 | Weblog
時が経つのは早いもので、9月も明日で終わり。
もうじき、本格的な秋だ。

秋は身体だけでなく、心にも優しい季節。
〝淋しい季節〟と感じる人も多いみたいだけど、私にとってはホッと落ち着ける季節だ。
夏に過熱した心身を休めるには、少し淋しいくらいが丁度いい。

また、〝秋〟と言えば、収穫の季節。
店頭には、季節の美味しい食べ物がたくさん並び始める。
飲み食いと寝ることぐらいしか楽しみがない私は、財布と相談しながら季節の美味を買い求める。
肴が旨いと、おのずと酒の量も増える。
が、このメタ坊は、酒のついでに体重まで増やさないように気をつけなければいけない。

秋は、果物も美味しい。
梨に柿・・・ちょっとマイナーなところでは無花果も。
あの独特の外見と食感を好まない人も多そうだけど、私は結構好きである。
その野暮ったい外見とアカぬけない食感は自分と重なって親しみ深く、素朴な甘味には自然の優しさがある。
そんな地味な無花果を店頭で見かけると、ついつい買いたくなる。


ある日の午後、私は、とある病院に向かって車を走らせていた。
上着とネクタイは助手席に放り投げ、交通渋滞と到着時間ばかりを気にしながら走っていた。





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Holiday(後編)  (公開コメント版)

2007-09-26 09:01:56 | Weblog
私という人間は、もとのもとから根性なし。
ちょっとしたことにもクヨクヨするし、何事に対しても臆病。
くじけるのもやたらと早い。
努力には悲痛が、忍耐には悲哀が、挑戦には悲観がともなう。
そんな人間だからこそ、特掃をやる宿命が与えられているのかもしれない・・・そう思うようにしている。

特掃作業は過酷。
しかし、見方を変えると面白いものでもある。
もちろん、〝面白い〟と言っても〝愉快〟とか〝楽しい〟とかの類ではない。
〝普通に生きてたら、なかなか経験できないこと〟という意味での面白さだ。

そこには、人間(自分)の喜怒哀楽や苦悩、人生の悲哀が凝縮されたかたちで現れる。
そんなに長くはない作業の間に、人間(自分)の泣き笑いが色濃く映し出される。

過去に何度となく書いているけど、特掃のプロセスは、汚物を人間に戻していくプロセスでもある。
密室での孤独な作業には、恥も外聞もない。
丸裸の自分を露にして格闘することによって、汚物は人に戻る。


浴槽の中は、ホントに酷い状態だった。
故人や依頼者に失礼な表現ながら、まさに人間の○○煮。
浴槽の中はおドロおドロしく、これまた故人・依頼者に失礼な表現ながら、私にとっては超がつくぐらいの汚物でしかなかった。

「余計なことを考えずに、淡々とやろう」




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Holiday(前編)   (公開コメント版)

2007-09-23 18:09:24 | Weblog
9月も後半に入り、朝夕はだいぶ秋めいてきた。
昼間は、厳しい残暑の日もあれば、肌寒く感じるくらいに涼しい日もあり、その温度がビールの喉ゴシを左右している。

世間では、今月二回目の三連休真っ只中。
色んな行事やレジャーを楽しんでいる人も多いと思う。
しかしながら、例によって死体業の私には連休も何も関係ない。
人の死は、盆も正月も土日祝祭日も関係ないからね。

したがって、休暇予定は定まらないこともやむなし。
〝予定は未定〟
〝休めるときに休むしかない〟
そんな生活を送る私には、休暇返上も日常茶飯事。
あまりに休めないと、〝生きるために仕事をしている〟はずのものが、〝仕事をするために生きている〟みたいになってしまう。
これは、生活を負い仕事に追われている人なら誰しも抱えている課題だろう。

「仕事も大事だけど、プライベートも大事」
「どちらをどちらの犠牲にもしたくない」
その辺のバランスをとりながら人生を楽しむのはなかなか難しい。

「毎日が休暇ならいいのになぁ」
なんて、いつも思ってる私だけど、実際にそんなことになったら途端に堕落していくに決まっている。
ダラダラと過ごす時間に輝きはなくなり、人生は味気のないものに変わっていきそうだ。
その挙げ句、心と身体を持ち崩し、今以上に寿命を縮めるのだろうと思う。

ま、なんだかんだと理屈をこねても、仕事と休暇両方あるからどちらも大事に思えるわけで、私には、どちらか一方で生きていくなんてあり得ないことだ。




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花園(公開コメント版)

2007-09-20 06:31:29 | Weblog
依頼があればどこにでも出掛ける私は、あちこちの街に季節ごとの花を見かけることも多い。
仕事の中にあっても、公園や道端に咲く花を見ると気持ちが和む。
中でも、野に咲く野性花に至っては、人間にはどうすることもできない大きな摂理すら感じる。

また、仕事の用事で行くホームセンターでも、花を愛でることができる。
特に急ぐ必要のないときは、園芸コーナーに立ち寄って見るのだ。

花がたくさんあっても、花を買う用なんてまるでない私には花屋の敷居は高い。
小心者の私には、買うつもりもないのに入る度胸なんてとてもない。
でも、ホームセンターの園芸コーナーだったら誰に気兼ねすることなく気楽に眺めていられる。
どの季節であっても、色とりどりの花が並べてあり、何も考えずにそれを鑑賞するとちょっとした気分転換になる。

その昔は、
「花なんて、腹の足しにもならない!」
「無駄な産物!」
等と豪語していた私なのに、今はこの変わりよう。
花の生涯はどことなく人のそれと似て、その生い立ちを想いながら眺めているだけで余計な力みが抜けて気分が軽くなる。
この歳になって、やっと花のよさがわかってきた私は、心にもまた一つ小さな花を持てたような気がして嬉しく思っている。
歳って、とってみるもんだね。



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孤軍奮闘(vs人生編) (公開コメント版)

2007-09-17 18:34:57 | Weblog
「おばあちゃんの嫁入り道具だったのかな?」
故人が亡くなっていた部屋には、骨董品になりそうな桐箪笥があった。
そして、そのタンスの上には小さな仏壇があり、遺影の老年男性がモノクロの微笑みを浮かべていた。
それは故人の夫、依頼者の父親であろうことはほぼ確実だった。
そして、生前の故人が供えたものだろう、そこには少しホコリを被ったカップ酒とカチカチに乾燥した小盛の御飯があった。
そこから、一組の夫婦がこの世を去ってからも、時間は真理に従って流れ続けていることを思わされる私だった。

「さてと、まずは引き出しから見てみるかな」
貴重品がある可能性が高いのは引出しの類なので、私は、収納ケース・棚・タンス等の引出しを一つ一つ開けてチェックした。

簡単に〝引き出し〟と言っても、その数は膨大。
普段は何気なく使っているけど、自分の身の回りにある引き出しを数えてみれば、それが分かるはず。
小物を収める小引き出しからタンスの引き出し。
流し台・洗面台や食器棚・クローゼットにも引き出しはついている。
押入の収納ケースだって、引き出しと言えば引き出し。

中のモノを散らかさず、それらを一つ一つチェックしていくことは、結構根気のいる作業。
他のモノの中に大事なモノが紛れていることや、意図的に隠されているようなケースもあるため、私は、できる限り念入りに調べた。



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孤軍奮闘(vs自分編) (公開コメント版)

2007-09-14 07:21:12 | Weblog
その日の空も、どこまでも青くどこまでも遠かった。
私は、そんな空をただ見上げては、軽い溜め息を繰り返した。

「このストレス・・・結局は、自分との戦いなのかなぁ・・・」
人間駆除作業の疲労感のせいか、広い空を風の向くままに流れていく雲を眺めていると、地ベタを這い摺り回って生きることが煩わしく思えて気分がブルーになってくる私だった。

そうして待つことしばし、遺族がやってきた。
やって来たのは中年の男女二人。
男性の方は疲れた感じの暗い表情、女性の方は憔悴した感じの虚ろな表情を表情。
遺族が気丈そうなタイプの人だったら、近隣住民との出来事を報告するつもりだったけど、どう見てもそうではなさそうな二人を見て、私は余計な報告をするのはやめた。

お互いに簡単な挨拶を交わし、私は、キョロキョロと近所のハエを警戒しながら、二人を車庫の陰に誘導。
そこで、細かい事情を聞いた。




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孤軍奮闘(vs人間編) (公開コメント版)

2007-09-11 07:00:24 | Weblog
敵と味方。
世の中の人をどちらかに分けるとしたら、どちらが多いだろう。
敵だと思っていた人が味方だったり、その逆があったり。
また、同じ人でも、状況や局面によって敵になったり味方になったりすることもあり、結局は、〝敵でもなく味方でもない人が最も多い〟と、希薄なところに落ち着くのだろうか。

人生を生き抜くことは、孤独な戦いでもある。
だんだんと生きにくくなっているこの世の中では、まずは、自分が自分の敵にならないように奮闘するのみか。

基本的に、特殊清掃は孤独な仕事。
一人で黙々とやる仕事。
考え方によっては、〝故人+自分≠孤独〟とも言えるかもしれないけど、目に見える人間は一人。

決して好きでやっている仕事ではないのだが、魂に刺激を覚える仕事。
汚物との戦いは自分との戦いでもあり、故人の死に様を自分の生き様に写し換える作業でもある。

ま、私の場合は、〝一人で黙々〟とはいかないことがほとんど。
愚痴ったり、ボヤいたり、時には悲鳴をあげたり、泣いたり・・・普段は寡黙なわりに現場では結構騒々しい男なのである。




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ほっとコーヒー(後編) (公開コメント版)

2007-09-08 06:50:53 | Weblog
コーヒーは、酒・タバコに並んで嗜好品の代表格。
私の場合は、酒○・タバコ×・コーヒー△・・・限りなく×に近い△。
残念ながら、私はその味を理解することができないから。
何度飲んでも、「美味しい!」とは思えないのだ。

だから、自分からすすんで買い求めることはない。
喫茶店などで他に適当なものがないときに注文したり、人からだされたときに飲むくらい。
どちらかと言うと、仕方なく飲んでいる感じ。

私にとってはそんなコーヒーだけど、愛好者はかなりいそう。
身の回りにも、コーヒーを嗜好する人は多い。
缶コーヒーだけでも相当の種類があるし、街々にある飲食店も、コーヒーをメニューに入れた店がほとんど。
また、ここ数年でコーヒーショップが急増している。
それだけ飲む人がいる証拠。
〝日本茶を超えて国民の飲み物になった〟と言っても過言ではないかもしれないね。




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ほっとコーヒー(前編)   (公開コメント版)

2007-09-05 17:24:57 | Weblog
暑い夏も終盤になり、いつの間にか9月に入った。
「暑い!暑い!」
と騒いでいた夏も、もう終わり。
夜明けは次第に遅くなり、陽が沈むのも早くなりつつある。
過ぎてみると、季節の移り変わりは早いものだ。

東京界隈では8月末から急に涼しくなり、比較的過ごしやすい日が続いている。
夏の猛暑が嘘のよう。
朝晩、外の空気がヒンヤリしていると、ホッとして夏の疲労が癒される。
心地よい秋風が吹いてくるのも、もうじきだ。

過ぎ行く春夏秋冬は、人の一生にも重なるところがある。
20年区切りで考えると、私の年齢では晩夏。
もうじき秋を迎える頃合だから、ちょうど今頃の季節だろうか。
「せっかくの人生、何か熱中できること・情熱が注げることが欲しいなぁ」
等と思いつつも、結局のところ、食べてくことに精一杯で仕事に追われるばかり。
人生晩夏の今、もっと熱く燃えるべきか、歳相応に冷めていく方が楽か・・・悩むところだ。



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PERSONS(公開コメント版)

2007-09-02 07:56:02 | Weblog
ある日の夕刻、オレンジに燃える陽を見ながら思った。

「俺の人生なんてちっぽけなものだよなぁ」
「俺一人が死んだって、世の中には何の影響もないだろうし」
「太平洋に砂粒が落ちた程の波も立たないはず」
「いつか死に、誰からも忘れられ、生きていた事実さえも夢のように消え去るだけか・・・」

遠くに沈みゆく夕陽は、私に人生の終焉と、自分という人間の存在が、どこまでも軽く・どこまでも小さいことを想わせるのだった。

私は、たまに夜の繁華街に出掛けることがある。
自らすすんでのことではなく、人の付き合いで。
若い頃は、意味もなく夜の繁華街にワクワクしていたものだが、歳を追うごとにその嗜好は変化し、今では苦手になっている。
あの人ゴミの騒々しさとネオンの乱舞には、何とも言えない疲れと熱を覚えるのだ。

普段は少人数の小さなコミュニティーに身を置き、単独行動・単独プレーも少なくない私は、自然と人ゴミに馴染めない人間になっているのだろうか。
それとも、それ以前に、もともとが人間集団にマッチしない性質なのだろうか。
どちらにしろ、軽くて小さい私は、人に流されないように、ちょっと距離をあけておいた方がいいのかもしれない。



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