ここ数日、ドイツ陸軍に関連した話を書いてきたので、ドイツ空軍と海軍についても書いてみようと思います。まずは空軍から。
ドイツは第一次世界大戦に敗れてヴェルサイユ条約で空軍の所有を禁止されてしまいました。ですからドイツ国内で軍用機を作ることができなくなってしまいました。そこで中立国だった国などに会社を作って、密かに技術開発を行っていたわけです。それから戦時には爆撃機にすることを前提に民間機を作ったり、パイロットをたくさん養成するわけにもいかないので、グライダー競技に力を入れてパイロツトの卵を育てたりしてきたのです。
そして、ヒトラーが政権を握り、ヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言した時に、すぐに新しいドイツ空軍が誕生できたというわけです。そして、新しい空軍の腕試しの機会として、スペインの内乱でフランコ軍にコンドル軍団として空軍を送り込みました。
そこで、重要だと私が思うのは、ちょうど戦闘機が複葉機から金属製の引き込み脚の単葉機に移行する時期で、新型の戦闘機であるBf109を試して経験を積むことができたということが一つ。もうひとつは、それまで戦闘機三機で一つの小隊を組んでいたのを、二機一組にしてそれを二組、つまり四機で編隊を組むという戦術をつくりあげたことです。これはその後各国の空軍に広まりました。
そして第二次世界大戦では、ポーランドはまともな空軍がありませんからドイツ空軍が圧倒しましたが、フランスでの空の戦いではBf109の活躍で制空権を握り、陸軍の電撃戦にあわせてスツーカで爆撃してフランスを粉砕してしまいました。ついで、イギリス空軍とバトルオブブリテンを戦うこととなったわけですが、制空権を握ることはできずイギリスへの上陸作戦はあきらめ、ソ連へと攻め込んでソ連空軍と戦いました。また、ドイツ本国ではアメリカ軍、イギリス軍の爆撃機に対して防空戦を繰り広げたわけですが、最後は連合国に敗れ去りました。
そこで、ドイツ空軍の問題点として私が思うには、大きく三点あると思います。ひとつは空軍の最高責任者がナチスのナンバー2であるヘルマン・ゲーリングが最後まで支配したということです。確かにヘルマン・ゲーリングは第一次世界大戦でリヒトフォーヘンの部隊を率いて戦ったエースパイロットではあったのですが、近代的な空軍のあり方について理解できず、また理解しようともしなかったという点です。
二つ目は主力の戦闘機であったBf109の航続距離が短かったということです。大陸で戦っているうちは地続きですから陸軍の進撃に従って、飛行場もついていけば良いけですが、イギリス空軍と戦うとなると海をへだてているわけで、飛行場をすすめることができません。ですからイギリス上空で長時間にわたって空戦することができなかったということが、制空権をとることができなかった要因のひとつであると思います。日本海軍の零戦なんぞは七時間ぐらい平気で飛んでいるわけで、逆に狭い操縦席に何時間も座ってさぞかし疲れたことだろうと思うわけです。
三点目が、戦争の序盤はどの国も双発の爆撃機しかもっていませんでしたが、アメリカ軍はB-17,B-24、イギリス軍はランカスターなどの四発の戦略爆撃機を作ってドイツを爆撃しました。ドイツ空軍もつくろうとしなかったわけではありませんが、四発の爆撃機に急降下爆撃をさせるとか訳の分からない要求をしたので、戦力化できなかったというわけです。
とはいえ、ドイツ空軍も第二次世界大戦の全期間にわたってBf109をエンジンを含めて改良しつづけて第一線の性能を発揮したことや、最初はあまり期待されてはいなかったようですが、クルト・タンクの開発したFw190が空冷のエンジンを搭載して高性能を発揮して空戦や戦闘攻撃機として活躍しましたし、その発展型である液冷エンジンを搭載したFw190D,Ta152Hはレシプロエンジンとしては極限の性能を発揮したことです。
それから、ジェットエンジンを搭載したMe262を戦力化したことや、後退翼の研究はその後の米ソの戦闘機に大きな影響を与えましたし、ホルテン兄弟の全翼機など時代を先取りした研究をしていたことは評価に値すると思います。
最後に、ドイツ空軍のエースパイロットの撃墜数の多さです。300以上撃墜したパイロットが二人もいるというのも大変なことです。本当にそんなに撃墜したのかという疑問も呈されていますが、ソ連空軍との戦いでは技量の差が大きかったことや、一日に何回も出撃したこと、撃墜の確認も厳しく定められていたという話もありますので、本当がどうかはわかりませんが、とにかく大量に撃墜したエースがたくさんいたことだけは確かだと思います。
ということで、今日はドイツ空軍のそらについてのことを書いてみました。
ドイツは第一次世界大戦に敗れてヴェルサイユ条約で空軍の所有を禁止されてしまいました。ですからドイツ国内で軍用機を作ることができなくなってしまいました。そこで中立国だった国などに会社を作って、密かに技術開発を行っていたわけです。それから戦時には爆撃機にすることを前提に民間機を作ったり、パイロットをたくさん養成するわけにもいかないので、グライダー競技に力を入れてパイロツトの卵を育てたりしてきたのです。
そして、ヒトラーが政権を握り、ヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言した時に、すぐに新しいドイツ空軍が誕生できたというわけです。そして、新しい空軍の腕試しの機会として、スペインの内乱でフランコ軍にコンドル軍団として空軍を送り込みました。
そこで、重要だと私が思うのは、ちょうど戦闘機が複葉機から金属製の引き込み脚の単葉機に移行する時期で、新型の戦闘機であるBf109を試して経験を積むことができたということが一つ。もうひとつは、それまで戦闘機三機で一つの小隊を組んでいたのを、二機一組にしてそれを二組、つまり四機で編隊を組むという戦術をつくりあげたことです。これはその後各国の空軍に広まりました。
そして第二次世界大戦では、ポーランドはまともな空軍がありませんからドイツ空軍が圧倒しましたが、フランスでの空の戦いではBf109の活躍で制空権を握り、陸軍の電撃戦にあわせてスツーカで爆撃してフランスを粉砕してしまいました。ついで、イギリス空軍とバトルオブブリテンを戦うこととなったわけですが、制空権を握ることはできずイギリスへの上陸作戦はあきらめ、ソ連へと攻め込んでソ連空軍と戦いました。また、ドイツ本国ではアメリカ軍、イギリス軍の爆撃機に対して防空戦を繰り広げたわけですが、最後は連合国に敗れ去りました。
そこで、ドイツ空軍の問題点として私が思うには、大きく三点あると思います。ひとつは空軍の最高責任者がナチスのナンバー2であるヘルマン・ゲーリングが最後まで支配したということです。確かにヘルマン・ゲーリングは第一次世界大戦でリヒトフォーヘンの部隊を率いて戦ったエースパイロットではあったのですが、近代的な空軍のあり方について理解できず、また理解しようともしなかったという点です。
二つ目は主力の戦闘機であったBf109の航続距離が短かったということです。大陸で戦っているうちは地続きですから陸軍の進撃に従って、飛行場もついていけば良いけですが、イギリス空軍と戦うとなると海をへだてているわけで、飛行場をすすめることができません。ですからイギリス上空で長時間にわたって空戦することができなかったということが、制空権をとることができなかった要因のひとつであると思います。日本海軍の零戦なんぞは七時間ぐらい平気で飛んでいるわけで、逆に狭い操縦席に何時間も座ってさぞかし疲れたことだろうと思うわけです。
三点目が、戦争の序盤はどの国も双発の爆撃機しかもっていませんでしたが、アメリカ軍はB-17,B-24、イギリス軍はランカスターなどの四発の戦略爆撃機を作ってドイツを爆撃しました。ドイツ空軍もつくろうとしなかったわけではありませんが、四発の爆撃機に急降下爆撃をさせるとか訳の分からない要求をしたので、戦力化できなかったというわけです。
とはいえ、ドイツ空軍も第二次世界大戦の全期間にわたってBf109をエンジンを含めて改良しつづけて第一線の性能を発揮したことや、最初はあまり期待されてはいなかったようですが、クルト・タンクの開発したFw190が空冷のエンジンを搭載して高性能を発揮して空戦や戦闘攻撃機として活躍しましたし、その発展型である液冷エンジンを搭載したFw190D,Ta152Hはレシプロエンジンとしては極限の性能を発揮したことです。
それから、ジェットエンジンを搭載したMe262を戦力化したことや、後退翼の研究はその後の米ソの戦闘機に大きな影響を与えましたし、ホルテン兄弟の全翼機など時代を先取りした研究をしていたことは評価に値すると思います。
最後に、ドイツ空軍のエースパイロットの撃墜数の多さです。300以上撃墜したパイロットが二人もいるというのも大変なことです。本当にそんなに撃墜したのかという疑問も呈されていますが、ソ連空軍との戦いでは技量の差が大きかったことや、一日に何回も出撃したこと、撃墜の確認も厳しく定められていたという話もありますので、本当がどうかはわかりませんが、とにかく大量に撃墜したエースがたくさんいたことだけは確かだと思います。
ということで、今日はドイツ空軍のそらについてのことを書いてみました。
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