夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

映画の中の女性~「ビューティフル・マインド」

2005-08-18 | art

 この映画のストーリー紹介では、次のように書かれています。「1947年秋、数学者ナッシュがプリンストン大学の大学院に到着するところから始まる。すべてを支配する真理、真に独創的な着想をみつけたいと、数学の研究に没頭する彼は、ときに変人にも見えた。友だちはルームメートのチャールズだけ。方程式で占められた頭に、遊びや恋の入る余地はなく、いつも研究への焦燥感でいっぱいだった。だが、数年後、あるひらめきから、彼は、古典経済学の創始者アダム・スミスが打ち立てた150年来の経済理論を覆す新理論にまで到達した。それが、後日、ノーベル賞受賞の根拠となる“非協力ゲーム理論”だ。こうしてナッシュは、アメリカ数学界の若きスターになった。遅ればせながら恋もして結婚もした。しかし、そんな彼の才能に、国防省の諜報員パーチャーが目をつけた。それからは、あるトップ・シークレットをめぐり、ナッシュの周囲にあやしげな人影が出没し始める。やがてその人影は、ナッシュの心の影にもなっていく」

 ところが、これはネタバレしないようにしているのでこうなっていますが、実はルームメイトのチャールズもその姪のマーシーも、諜報員パーチャーもすべてナッシュを生涯苦しめる統合失調症(かつては精神分裂病と呼ばれましたが)が見させる幻影なのです。前半は、天才の変人振りと彼の生徒だったアリシアとの恋愛が描かれているのですが、ナッシュが無理やり入院させられてからは一転してけなげな妻が病に苦しむ夫を助ける物語に変わります。かつての名作「レイン・マン」はトム・クルーズ演じる弟の視点から兄の障害を描き、それをそのまま受け入れる物語だったわけですが、この作品の場合、ほぼ主人公のナッシュの視点から描かれています。つまり、「レイン・マン」では観客はダスティン・ホフマンの自閉症の見事な演技を見ながら、安心して、障害者をおもしろがったり、同情したりすることができる第三者的な立場にいるのですが、この作品では我々は自分の視覚とか理性とか正気を疑う羽目に陥るのです。

 私はおよそミステリィとかの犯人や謎が途中でわかったためしがなく(「シックス・センス」ではわかってしまったので、それだけで凡作だと思っていますw)、この作品も何か変だなと思いながら、ナッシュが入院させられても最初は精神科医のローゼンが本物なのか疑わしく思っていたくらいです。負け惜しみみたいに思われるかも知れませんが、簡単に騙されるのは悪いことではなく、映画や小説を楽しめる範囲が広いと思っていますし、騙すだけの理由がちゃんとあればそれでいいと思います。この映画では、他人とコミュニケーションがうまく取れない代償にルームメイトの幻影を見たのだろうかとか、数字のつながりに特別の関心と感覚があることを評価してほしいといった欲望がパーチャーを始めとする諜報部員たちの幻影を見せたのだろうかといった想像をかき立てます。すなわち、自我への不安に襲われるからこそ主人公とその病気を内側から理解することができるように感じました。

 また、彼が数学的天分に恵まれていると思っているときには奇矯な振る舞いも楽しく見ることができますが、発病後は同じ振る舞いも周りの嘲笑の的となりますし、見る側もそれをマイナスに評価してしまうのに驚きを感じます。大げさに言えば数ある天才神話へのアイロニーになっているとも言えるでしょう。

 女性との付き合いもぎこちないどころか、初対面の女性に頬っぺたを叩かれるようなことをナッシュは言うので、とっても美しいアリシアとスムースに交際が進むので、これも電車男w的な幻影ではないかさえ思いますが、その後の子育てしながらの苦労にはよく続くなあと思いますし、最後のノーベル賞授賞式でのスピーチにはほろりとさせられます。

 さて、この映画は数学者を採り上げているので、数学の話もかなり出てきます。それについて直接評価できるような能力は私にはないのですが、ナッシュの中心的な業績が非協力ゲーム理論における均衡分析だとすると、ゲーム理論の創始者のフォン・ノイマンの名前が出てこないのはちょっと奇異に感じましたし、多変量解析やらリーマン予想やら違った分野の話が文脈なしにいろいろ出てくるので、アクセサリ的なものかなという印象を受けました。


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