前編の「DEATH NOTE デスノート」を見てるときにブログを書くネタは思いついたんですが、最後の方で弥海砂(戸田恵梨香)が出てくるところから明らかに後編を意識したものになっているので、「the Last name」を見てからにしました。
いろんな要素が混じった映画で、それが大ヒットにつながった原因でしょう。いちばん大きいのはデスノートという「魔法の道具」の魅力です。神話や昔話には、どんな願いもかなえてくれる魔人が出てくるランプとか、身にまとうと姿を隠すマント、持っているだけで世界を支配できる指輪といった魔法の道具がしばしば登場します。デスノートもその一種で、顔を知っている人の名前を書くとその人を死に至らしめることができ、さらに便利なことに死ぬ直前の状況も思いどおりに操れます。
それを手に入れた藤原竜也演じる夜神月(ライト)が法律や裁判では裁ききれない悪人の名前をせっせと書いて殺していくわけです。死刑に値する犯罪を犯しながら精神鑑定の結果、心神喪失や心神耗弱とされて死刑を免れた犯罪者やなかなか死刑が執行されない囚人といった法律で裁けない悪人を処刑し、正義が実現する理想社会を創ろうとします。
このモチーフにも類似のものは多くて、例えば小説では「罪と罰」がありますし、テレビドラマでは「必殺シリーズ」が想い起こされます。正義を実現するために個人が法律を超越することが許されるかとか、そのために無実の者を犠牲にするのもやむをえないと考えるかといったところは「罪と罰」に類似していますが、「必殺シリーズ」と同様オ、あまりそうした深刻な問題に深入りすることなく、L/竜崎(松山ケンイチ)との知的ゲームが中心となったエンターティメントになっています。
エンターティメントとしてのおもしろさを増しているのは、プロファイルによる捜査手法が多く使われていることでしょう。それ自体今どきめずらしくもありませんが、死神のレム(池端慎一郎)がライト自身と似て非なる特徴の高田清美(片瀬那奈)を選ぶのを予見するというプロファイルを逆手にとったアイディア(説明もややこしいですが、そこがいいんですね)は感心しました。しかし、それならデスノートについての記憶を失っている間のライトが犯人のキラは自分自身でしかありえないとなぜ思わなかったのかという疑問が生じざるをえないでしょう。
こうした突っ込みはいろいろできるんですが、もう一つだけ気になったのを挙げると海砂が大学で竜崎に会ったときに偽名を使っているのを不審に思った(という表情をしています)にもかかわらず、後になって一日に何百人もの本名と寿命を見るから覚えていないというのは(彼女が決して低い知能レベルではないだけに)不自然です。つまり論理性を重視したゲームっぽい前編と海砂を中心とする恋愛もからんだエンタメ寄りの後編といったところで、論理が若干破綻するのもストーリーの展開上仕方ないでしょう。竜崎が極端な甘い物好きとか、死神のリュークがリンゴが大好物といった設定はお話にリアリティを与え、意味深さもあって、とてもいいなと思いました。そうした細部はフィクションの命です。
さっきのモチーフの話に戻ると、「罪と罰」では殺すべき対象=悪の代表は金貸しの老婆で、「必殺シリーズ」では悪徳役人ですが、この作品では法律では裁けない犯罪者です。こういう違いは時代の世相を反映したもので、それぞれ金融資本家、政治家・官僚、犯罪者が正義に反しながらそれを免れているという感覚が広く共有されていたということでしょう。
別の言い方をすれば、法律が悪いとか正義が実現していないとこれらの作品が主張するのは、どこに倫理・道徳の重点を置くべきかを示すためでしょう。資本主義に倫理を、政治に倫理をというのはわかりやすいんですが、じゃあ「デスノート」については何かと言えばおそらく憲法と刑事訴訟法、つまり人権を保護する法体系とそれを実施する刑事司法行政ということになるでしょう。これらは犯罪者、悪人を一切の例外なしに権力の濫用から守るシステムですが、それ自体に現代では多くの人が苛立ちを感じ、正義の実現を妨げるものだという非難を向けているように思います。こう言うとたぶん「いや、そうではなく、そういうシステムに便乗して、人権を振りかざし、それを悪用しようとする連中を批判しているだけだ」といった反論があるでしょう。……この辺のことは私はこれまでもいろいろな形で書き、これからも書くでしょうし、この映画では警察官の父親も法学生のライトも刑法と刑事訴訟法の区別もなしに一緒くたに法律と呼んでいるとしか思えないので、これ以上の議論はやめておきます。
それよりも私としてはデスノートのルールがやたら多いのがおもしろいと思いました。もちろんどんな魔法の道具でもルールがありますが、こんなに煩瑣ではありません。死神自身も様々なルールに縛られていて、まるで現実の世界や法律みたいです。ややこしい法律なんかじゃ正義は実現できないとみんな思っていて、その鬱屈を晴らしてくれるものはどこか似ているんですね。それは結局のところ観客を含めてみんながそうした世界にどっぷり漬かっているからなんでしょう。……やっぱり魔法の道具は人びとの心を映し出すようです。
いろんな要素が混じった映画で、それが大ヒットにつながった原因でしょう。いちばん大きいのはデスノートという「魔法の道具」の魅力です。神話や昔話には、どんな願いもかなえてくれる魔人が出てくるランプとか、身にまとうと姿を隠すマント、持っているだけで世界を支配できる指輪といった魔法の道具がしばしば登場します。デスノートもその一種で、顔を知っている人の名前を書くとその人を死に至らしめることができ、さらに便利なことに死ぬ直前の状況も思いどおりに操れます。
それを手に入れた藤原竜也演じる夜神月(ライト)が法律や裁判では裁ききれない悪人の名前をせっせと書いて殺していくわけです。死刑に値する犯罪を犯しながら精神鑑定の結果、心神喪失や心神耗弱とされて死刑を免れた犯罪者やなかなか死刑が執行されない囚人といった法律で裁けない悪人を処刑し、正義が実現する理想社会を創ろうとします。
このモチーフにも類似のものは多くて、例えば小説では「罪と罰」がありますし、テレビドラマでは「必殺シリーズ」が想い起こされます。正義を実現するために個人が法律を超越することが許されるかとか、そのために無実の者を犠牲にするのもやむをえないと考えるかといったところは「罪と罰」に類似していますが、「必殺シリーズ」と同様オ、あまりそうした深刻な問題に深入りすることなく、L/竜崎(松山ケンイチ)との知的ゲームが中心となったエンターティメントになっています。
エンターティメントとしてのおもしろさを増しているのは、プロファイルによる捜査手法が多く使われていることでしょう。それ自体今どきめずらしくもありませんが、死神のレム(池端慎一郎)がライト自身と似て非なる特徴の高田清美(片瀬那奈)を選ぶのを予見するというプロファイルを逆手にとったアイディア(説明もややこしいですが、そこがいいんですね)は感心しました。しかし、それならデスノートについての記憶を失っている間のライトが犯人のキラは自分自身でしかありえないとなぜ思わなかったのかという疑問が生じざるをえないでしょう。
こうした突っ込みはいろいろできるんですが、もう一つだけ気になったのを挙げると海砂が大学で竜崎に会ったときに偽名を使っているのを不審に思った(という表情をしています)にもかかわらず、後になって一日に何百人もの本名と寿命を見るから覚えていないというのは(彼女が決して低い知能レベルではないだけに)不自然です。つまり論理性を重視したゲームっぽい前編と海砂を中心とする恋愛もからんだエンタメ寄りの後編といったところで、論理が若干破綻するのもストーリーの展開上仕方ないでしょう。竜崎が極端な甘い物好きとか、死神のリュークがリンゴが大好物といった設定はお話にリアリティを与え、意味深さもあって、とてもいいなと思いました。そうした細部はフィクションの命です。
さっきのモチーフの話に戻ると、「罪と罰」では殺すべき対象=悪の代表は金貸しの老婆で、「必殺シリーズ」では悪徳役人ですが、この作品では法律では裁けない犯罪者です。こういう違いは時代の世相を反映したもので、それぞれ金融資本家、政治家・官僚、犯罪者が正義に反しながらそれを免れているという感覚が広く共有されていたということでしょう。
別の言い方をすれば、法律が悪いとか正義が実現していないとこれらの作品が主張するのは、どこに倫理・道徳の重点を置くべきかを示すためでしょう。資本主義に倫理を、政治に倫理をというのはわかりやすいんですが、じゃあ「デスノート」については何かと言えばおそらく憲法と刑事訴訟法、つまり人権を保護する法体系とそれを実施する刑事司法行政ということになるでしょう。これらは犯罪者、悪人を一切の例外なしに権力の濫用から守るシステムですが、それ自体に現代では多くの人が苛立ちを感じ、正義の実現を妨げるものだという非難を向けているように思います。こう言うとたぶん「いや、そうではなく、そういうシステムに便乗して、人権を振りかざし、それを悪用しようとする連中を批判しているだけだ」といった反論があるでしょう。……この辺のことは私はこれまでもいろいろな形で書き、これからも書くでしょうし、この映画では警察官の父親も法学生のライトも刑法と刑事訴訟法の区別もなしに一緒くたに法律と呼んでいるとしか思えないので、これ以上の議論はやめておきます。
それよりも私としてはデスノートのルールがやたら多いのがおもしろいと思いました。もちろんどんな魔法の道具でもルールがありますが、こんなに煩瑣ではありません。死神自身も様々なルールに縛られていて、まるで現実の世界や法律みたいです。ややこしい法律なんかじゃ正義は実現できないとみんな思っていて、その鬱屈を晴らしてくれるものはどこか似ているんですね。それは結局のところ観客を含めてみんながそうした世界にどっぷり漬かっているからなんでしょう。……やっぱり魔法の道具は人びとの心を映し出すようです。
ルールがやたらあるのはおもしろいですよね。
子供が遊びをするときに、不都合なことが出てくるたびに決まりをどんどんつけ加えるのに似ていて、やっぱり死に関することは慎重にしないと、という良心?のようにも見えてなんだかほっとする部分のようにも思えました。
ふつうの人には死も法律も絶対的なものだから親和性があるような気がしますね。