今日はphilosophyと分類されている文章をサイトに載せました。追加したのはたった5編だけで、しかも書かれたのが11月の終わりから1月にかけての時期に集中しています。その理由は個人的なものなんで具体的に書くつもりはありませんが、まあ音楽のときに書いたのと同じ事情、つまり強いストレスを感じていたからでしょう。ぼくはどうも追い込まれると哲学的になる、というとカッコよさそうですけど、常識はずれの極端なこと、究極の問題を考えてしまうタチなんですね。
哲学って確か西周が作った訳語ですが、あまり好きじゃないですね。もったいぶってて、硬そうな感じ、鉄学(って鉄道マニアが極めようとしてることみたいw)って響きです。それよりは直訳で「知を愛する、愛知学」の方がいいんじゃないか。それじゃあ、尾張と三河の違いの考察とか、なぜ名古屋人はなんでも味噌味にするのかとかになりそうですけどw
内容的には広い意味での独我論をめぐる問題を扱ったものが多いようです。それが今の日本において重要な意味を持っていることは、社会的な事件や質のよいマンガや映画を見ていても、三島由紀夫その他の優れた知性がこれまで投げかけてきた問いからも明らかでしょう。ただ、それだけでなくぼくの子どもの頃の経験も大きな影響を与えていると思います。おそらく小学校に入るか入らないかくらいの頃ですが、家でお留守番している時のことです。自分はいつかは必ず死ぬんだ、死んだらどうなるんだろうという、いつもの不安に捕らわれていました。世界は自分の死後も何事もなかったかのように続いていく、でも、ずっとずっと先の未来にはこの世界もなくなってしまう、これまたいつものように考えていました。宇宙の果てはぼくにとっては時間の終わりの問題だったんです。
ここまでは幼少期の想い出としてよく聞く話です。ただそのときにぼくはふと今、外出している両親や姉は存在するんだろうかという不安を覚えました。ぼくにはそれを知るすべはありません。知覚出来ないものは存在しないのも同じではないか? デカルトを読んでなくてもそれくらいのことは考えます。知覚主体としての「ぼく」と知覚の対象・客体としての両親やいろんな人たちや周りのすべて、つまり「世界」は実はぼくが知覚する限りにおいて存在する、これはその時にいわば発見したことです。
その感覚をもっと経験に即して言うと、両親たちは今はどこかで灰色っぽい泥になっているというイメージでした。窓から見える近所の家もその向こうの二上山やその上の澄んだ青空も窓枠の少し先は泥になって崩れている。ぼくが窓に近づいていくと空や山や家はさあっと形をなし、色づく。もうすぐ姉が小学校から帰って来るけど、それはウソで泥が人間になって戻ってくるだけ。同じように夕方になるとやっぱり泥から人間に戻った両親が泥だった豚まんをおみやげだよと言って、渡しながら家に入って来る。…ぼくが見渡せる世界以外は泥の中で適当に辻褄が合わせてあるだけ。彼らは彼らでいろいろと考えているかもしれないけど、ぼくに言わないこと、ぼくが感じないことは見えない世界が存在しないのと同じで、つまるところぼくにとって他人の内心は存在しない。この感覚はとても怖いものでしたし、ぼくが(決して人間嫌いではないのに)人見知りで、人付き合いが下手なのもその辺に原因があるのかもしれません。
ぼくが死ねば世界はただの泥、何の変化も区別もない混沌に変わる。時間もぬかるみに足を取られてしまいだんだん止まっていく。そういうイメージはずっとぼくの心の片隅にありました。…つまりぼくにとって独我論は幼なじみなんです。「ぼくのリヴィングの3枚の絵」という個人的な内容の文章が独我論との関係が深いのも当然です。
数学と神学って似てると書いたら批判のコメントが来ました。引用するほどのものではないんですけど、その人が気分を害していることはよくわかります。だって、ソクラテスがそうであるように哲学って、人を怒らせるものだから。特にソフィストと呼ばれた知識人、自分が頭がいいって思っている人を激怒させることにこそ哲学の本領があるといってもいいくらいです。読んで納得、いいお話ですね、なーんてのは水増しした薄味のものでしかありません。でも、薄められた哲学らしきものほど本当の意味でものを考えることの妨げになるものはないでしょう。
ついでに言うと、その人は自称クリスチャンだそうですが、特定の宗教の信仰は神学を理解する上では躓きの石でしかないでしょう。だって、クリスチャンがイスラーム神学を客観的に理解できますか? 通勤電車の中でリチャード・ベルの500ページ弱の「コーラン入門」を今読んでて、200ページほど読んだところですが、イスラーム神学ってすごく深遠で、おもしろいなって思っています。ぼくは「数学と神学の親和性」で、キリスト教神学だけしか扱えなかったことをちょっと恥ずかしく思っています。
さらについでに言うとぼくは特定の宗教への信仰心を持っていませんが、それを恥じてもいませんし、自慢にも思っていません。で、おそらく死ぬまでこのままでしょう。信仰心って親の信仰(家の宗教・宗派でもいいですが)を受け継ぐ伝統的な形か、肉親の病気や死とか個人的な悩みで入信するのがほとんどだと思いますが、それって要は前例踏襲か弱みにつけ込まれたってことなんで、そういう人たちといっしょになるのがイヤなんですね。何より信者はもとよりなまじいの僧侶や牧師・神父なんかより宗教のことはわかってるつもりですから。いや、そう言っちゃうと傲慢ですから、誰が本物の宗教家か否かはすぐにわかると言いましょう。それはもちろん知識だけの問題ではなく、信仰というものの中核的部分である魂の問題として。だって、それがわからなくてはバッハやジォットを理解するなんて到底不可能ですから。…やっぱりその辺につながっているわけですw
哲学って確か西周が作った訳語ですが、あまり好きじゃないですね。もったいぶってて、硬そうな感じ、鉄学(って鉄道マニアが極めようとしてることみたいw)って響きです。それよりは直訳で「知を愛する、愛知学」の方がいいんじゃないか。それじゃあ、尾張と三河の違いの考察とか、なぜ名古屋人はなんでも味噌味にするのかとかになりそうですけどw
内容的には広い意味での独我論をめぐる問題を扱ったものが多いようです。それが今の日本において重要な意味を持っていることは、社会的な事件や質のよいマンガや映画を見ていても、三島由紀夫その他の優れた知性がこれまで投げかけてきた問いからも明らかでしょう。ただ、それだけでなくぼくの子どもの頃の経験も大きな影響を与えていると思います。おそらく小学校に入るか入らないかくらいの頃ですが、家でお留守番している時のことです。自分はいつかは必ず死ぬんだ、死んだらどうなるんだろうという、いつもの不安に捕らわれていました。世界は自分の死後も何事もなかったかのように続いていく、でも、ずっとずっと先の未来にはこの世界もなくなってしまう、これまたいつものように考えていました。宇宙の果てはぼくにとっては時間の終わりの問題だったんです。
ここまでは幼少期の想い出としてよく聞く話です。ただそのときにぼくはふと今、外出している両親や姉は存在するんだろうかという不安を覚えました。ぼくにはそれを知るすべはありません。知覚出来ないものは存在しないのも同じではないか? デカルトを読んでなくてもそれくらいのことは考えます。知覚主体としての「ぼく」と知覚の対象・客体としての両親やいろんな人たちや周りのすべて、つまり「世界」は実はぼくが知覚する限りにおいて存在する、これはその時にいわば発見したことです。
その感覚をもっと経験に即して言うと、両親たちは今はどこかで灰色っぽい泥になっているというイメージでした。窓から見える近所の家もその向こうの二上山やその上の澄んだ青空も窓枠の少し先は泥になって崩れている。ぼくが窓に近づいていくと空や山や家はさあっと形をなし、色づく。もうすぐ姉が小学校から帰って来るけど、それはウソで泥が人間になって戻ってくるだけ。同じように夕方になるとやっぱり泥から人間に戻った両親が泥だった豚まんをおみやげだよと言って、渡しながら家に入って来る。…ぼくが見渡せる世界以外は泥の中で適当に辻褄が合わせてあるだけ。彼らは彼らでいろいろと考えているかもしれないけど、ぼくに言わないこと、ぼくが感じないことは見えない世界が存在しないのと同じで、つまるところぼくにとって他人の内心は存在しない。この感覚はとても怖いものでしたし、ぼくが(決して人間嫌いではないのに)人見知りで、人付き合いが下手なのもその辺に原因があるのかもしれません。
ぼくが死ねば世界はただの泥、何の変化も区別もない混沌に変わる。時間もぬかるみに足を取られてしまいだんだん止まっていく。そういうイメージはずっとぼくの心の片隅にありました。…つまりぼくにとって独我論は幼なじみなんです。「ぼくのリヴィングの3枚の絵」という個人的な内容の文章が独我論との関係が深いのも当然です。
数学と神学って似てると書いたら批判のコメントが来ました。引用するほどのものではないんですけど、その人が気分を害していることはよくわかります。だって、ソクラテスがそうであるように哲学って、人を怒らせるものだから。特にソフィストと呼ばれた知識人、自分が頭がいいって思っている人を激怒させることにこそ哲学の本領があるといってもいいくらいです。読んで納得、いいお話ですね、なーんてのは水増しした薄味のものでしかありません。でも、薄められた哲学らしきものほど本当の意味でものを考えることの妨げになるものはないでしょう。
ついでに言うと、その人は自称クリスチャンだそうですが、特定の宗教の信仰は神学を理解する上では躓きの石でしかないでしょう。だって、クリスチャンがイスラーム神学を客観的に理解できますか? 通勤電車の中でリチャード・ベルの500ページ弱の「コーラン入門」を今読んでて、200ページほど読んだところですが、イスラーム神学ってすごく深遠で、おもしろいなって思っています。ぼくは「数学と神学の親和性」で、キリスト教神学だけしか扱えなかったことをちょっと恥ずかしく思っています。
さらについでに言うとぼくは特定の宗教への信仰心を持っていませんが、それを恥じてもいませんし、自慢にも思っていません。で、おそらく死ぬまでこのままでしょう。信仰心って親の信仰(家の宗教・宗派でもいいですが)を受け継ぐ伝統的な形か、肉親の病気や死とか個人的な悩みで入信するのがほとんどだと思いますが、それって要は前例踏襲か弱みにつけ込まれたってことなんで、そういう人たちといっしょになるのがイヤなんですね。何より信者はもとよりなまじいの僧侶や牧師・神父なんかより宗教のことはわかってるつもりですから。いや、そう言っちゃうと傲慢ですから、誰が本物の宗教家か否かはすぐにわかると言いましょう。それはもちろん知識だけの問題ではなく、信仰というものの中核的部分である魂の問題として。だって、それがわからなくてはバッハやジォットを理解するなんて到底不可能ですから。…やっぱりその辺につながっているわけですw
夢さんのような明確なイメージではないけれど、折にふれ似たような感覚にとらわれていた自分を思い出しました。
でも、現実って、実はそういうものかなと遠回りばかりしてるぼくは思っちゃいますね。