先日、衛星放送でやっていた“グレン・グールド、ロシアへの旅行”というカナダ制作の番組を見ました。「ゴルドベルク変奏曲」でレコード・デビューした24歳のグールドが1957年にソ連へ演奏旅行した時のエピソードをアシュケナージやロストロポーヴィッチを始めとした音楽家へのインタヴューと当時の映像・録音を交えて構成したものです。56年のフルシチョフによるスターリン批判と62年のキューバ危機の間のわずかな「雪どけ」の時期とグールドが人前で演奏していた時期がほぼ重なるのは不思議なくらいですが、それまでロマン派的な演奏しか耳にしていなかったソ連の人たちにとって彼の演奏は衝撃的なものだったようです。
この番組でいちばん印象的なのは最初のコンサートが行われたモスクワ音楽院の大ホールでのエピソードでしょう。ソ連では全く知られていなかったため、1階席の半分くらいと2階席にパラパラとしかいなかった聴衆がその「フーガの技法」を聴くや友人・知人に電話を掛けまくり、休憩後には人であふれかえったのです。「何をしていようが全部放り出して、ともかく来い!」……そんな電話で集まって感動を分かち合うなんて、とてもうらやましい気がします。
当時のソ連にはギレリスやリヒテルのような巨匠がいたのですが、いやいたからこそ、全く新しい音楽の本質を理解できたような気がします。すごく低いイスでかがみ込むようにして、しかもぶつぶつ言いながらピアノを弾くといった我が国ではよく言われるような話はほとんど出てきませんでした。どんなに風変わりに思えようとそのレヴェルの高さを山の標高を測るように見ることができるのは、見る側のレヴェルでしょう。「目の前で彫刻を作るような演奏でした」というコメントがあって、まさにそのとおりだっただろうと思いました。演奏は知的な創造活動ですが、そうであるのは極めて稀です。
グールドはモスクワとレニングラード(今のサンクト・ペテルスブルク)で新ウィーン楽派を中心としたレクチャアも行ったそうです。社会主義リアリズムから排斥されていたベルクやヴェーベルンの音楽の話を始めると、教授連中の何人かは席を立ちましたが、学生たちには大きな知的刺激を与えたということです。ただちょっとおもしろかったのは、レニングラードでグールドがベルクの曲を演奏しながら話をしていると学生は「バッハを弾いてください」と言ったそうです。彼はそれに応じたけれど少しがっかりしたように見えたとのことです。……若者だから新しいものが好きだというのは短絡的で、一から十まで新しい音楽よりもバッハをちょっと新しく(どころではないのは明らかですが)演奏してくれる方がいいっていうのはよくわかります。
フルシチョフはスターリン批判を行いましたが、別に芸術がわかる人間でも、自由を愛する人間でもなかったようで、抽象画を見ての感想が「牛が尻尾でキャンバスを叩いても、もっとましなものになる」といったものでした。それがカナダや日本の首相の発言なら大した問題にはなりませんが、ソ連の最高指導者が言えば画家は抽象画を描くことが実質的にできなくなり、音楽にも影響を与えます。そうした中で、当局からの指示でグールド批判が行われます。グールドもソ連政府への批判を行います。その場面で挿入されるショスタコーヴィッチのピアノ五重奏曲やプロコフィエフのピアノ・ソナタ第7番「戦争ソナタ」はとても印象的でした。
この番組では、グールドの演奏が他のピアニストと全く異なるものだという発言がたくさん紹介されるんですが、「彼は宇宙人だと私は今でも本当に信じているんです。……人間があんな音楽を演奏できるなんてありえません」というコメントがいちばん実感がこもっていると感じました。奇跡というものは、見た人に奇妙な発言をさせるものだと思います。
エキセントリックとかそういうことを感じてる余裕もないままに。
一音一音が半端じゃなく磨かれていて、それが各声部において
音量ではなく、厳格なタッチの差で弾き分けられる。
そうやって作られた彫刻が、あまりにも立体的に浮かび上がってくる。
あー、ナマで聴きたかったですねえ。
私に何か言えとばかりのブログのようだったのでがんばってコメントしてみました。
バッハの演奏についての発言の公約数は、ぽけっとさんのコメントのとおりでちょっと驚きました。助けていただいてありがとうございます。
どういたしましてですw
それで、アシュケナージやロストロポーヴィッチなどの音楽家は何て言ってましたか?
興味深いです~
アシュケナージは「グールドは自分にとって永遠のアイドルだ。バッハをあれほど見事に演奏してくれるのはすばらしい」といったものとか、当時のソ連の政治状況にからめたグールドの位置づけのような発言が多かったですね。
ロストロポーヴィッチは「リヒテルが『自分もグールドのようにうまく弾けるが、そうしないのはグールドほど練習しないからだ』と言った。それがグールドの音楽の本質だ」といったことや(自分は行っていない)最初のコンサートが巻き起こした熱狂を証言していましたね。