例によってBSでクラシックをまとめて視聴していたら、ショパンの時代のピアノを使ったコンサートがありました。中でもショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調を弦楽器5人で伴奏したのがおもしろい試みでした。メンバーはフォルテピアノ:小倉貴久子、ヴァイオリン:桐山建志、白井圭、ヴィオラ:長岡聡季、チェロ:花崎薫、コントラバス:小室昌広で、第一生命ホールでの演奏です。当時は家庭内で演奏できるよう管楽器や打楽器を省略したアレンジの楽譜が出版されていたようで、それに基づく演奏です。小ぶりで軽いハンマーフリューゲルとピアノの間のような音がなかなか趣があって、5弦のフレットのあるコントラバス(バッハのブランデンブルク協奏曲で通奏低音を務めるヴィオローネなのかもしれません)などと相まってintimateな雰囲気を醸し出していました。フルオーケストラで聴くといつも不満の残るこの曲も室内楽的なイメージになると楽しむことができました。ただ楽器の能力に限界があるせいなのか、少なくとも私の耳には音色の変化やニュアンスに乏しいような気がしました。それ以上にヴァイオリンがしばしば音をはずすのがイタかったです。……初期の古楽演奏じゃあるまいし、ユニークな試みだからといって、技術的な破綻があってはどうしようもありません。
続けて聴いたのが軽井沢音楽祭での漆原啓子のヴァイオリンを中心としたもので、シュポアの七重奏曲イ短調とベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」でしたが、その差は歴然としていました。特に彼女とピアノ:野平一郎、チェロ:銅銀久弥による「大公」ではスタインウェイのピアノは細かく表情を変え、ヴァイオリンやチェロもテクニック、情感ともに十分なレヴェルでした。……それでちょっと思ったのがピアノの楽しみ方ということです。これは私だけじゃないと思うんですが、独奏曲だけじゃなく、室内楽や協奏曲でもピアノって楽譜にはほとんど書かれていないデュナミークや音色の変化をいかに演奏家が表現するかが勝負の分かれ目wになっているんじゃないでしょうか。それは言葉にするとびみょーと言うか曖昧な感じですけど、耳で聴くとかなりはっきりとわかりますよね。ただそういうところで、ベートーヴェンやショパンの演奏が評価されていたのかというとたぶん違うんじゃないかなって思います。誰の耳にもわかりやすい(当時の水準としては)超絶技巧というか、見世物的要素が評価の基準だったんじゃないかと。もし彼らが今演奏したら、「平板でニュアンスに乏しく、作曲家の意図を十分伝えていない」なーんて批評されたかもしれませんw。
ピアノという楽器は、先祖のハープシコードやチェンバロやハンマーフリューゲルなどなどから飛躍的に進歩し、ピアノフォルテという名前になってからも、重工業化時代にまるで歩調を合わせるように金属のかたまりのようなフレームによって強力な張力を支え、巨大なボディによって広大なホールの隅々まで音を響かせるように進歩してきました。つまりマッチョな体を持つことによって、大きな迫力のある音で大編成のオケとも対等に渡りあえるようになったし、繊細な音色の変化で高度に発達した社会で暮らす人間の複雑でとりとめのないような感情もあますところなく表現できるようになった……まあ、ラフマニノフあたりを念頭に若干皮肉な意味も込めて言ってるんですが。
ポストモダンだかIT社会だか知りませんが、重厚長大産業の終焉が言われるようになって、重厚長大なピアノやオケの時代も終わったかと言うとそうでもないでしょう。いくらピリオド楽器の演奏が増えても、やはり重厚長大な音楽の表現力は圧倒的なものがあると思います。演奏家自体がそういう楽器で教育を受け、訓練してきていますから、作曲された時代の演奏はそういうものではないなんてお固いことを言ってもその魅力には抗しがたいでしょう。他方、シンセサイザーなどのデジタルな(意味不明で使ってるんですがw)楽器はいまだにニュアンスとは無縁でお話にもなりません。……今の時代が今の感情を十全に表わす楽器を生み出せないでいるのは、どうしてなのかなって思いました。情報の質を問わず量で圧倒する方向に文明が向かっているからなのか、それとも我々の感情が安直でやせ衰えた平板なものになったせいなのか、そんな大げさなことを考えてしまいました。
続けて聴いたのが軽井沢音楽祭での漆原啓子のヴァイオリンを中心としたもので、シュポアの七重奏曲イ短調とベートーヴェンのピアノ三重奏曲「大公」でしたが、その差は歴然としていました。特に彼女とピアノ:野平一郎、チェロ:銅銀久弥による「大公」ではスタインウェイのピアノは細かく表情を変え、ヴァイオリンやチェロもテクニック、情感ともに十分なレヴェルでした。……それでちょっと思ったのがピアノの楽しみ方ということです。これは私だけじゃないと思うんですが、独奏曲だけじゃなく、室内楽や協奏曲でもピアノって楽譜にはほとんど書かれていないデュナミークや音色の変化をいかに演奏家が表現するかが勝負の分かれ目wになっているんじゃないでしょうか。それは言葉にするとびみょーと言うか曖昧な感じですけど、耳で聴くとかなりはっきりとわかりますよね。ただそういうところで、ベートーヴェンやショパンの演奏が評価されていたのかというとたぶん違うんじゃないかなって思います。誰の耳にもわかりやすい(当時の水準としては)超絶技巧というか、見世物的要素が評価の基準だったんじゃないかと。もし彼らが今演奏したら、「平板でニュアンスに乏しく、作曲家の意図を十分伝えていない」なーんて批評されたかもしれませんw。
ピアノという楽器は、先祖のハープシコードやチェンバロやハンマーフリューゲルなどなどから飛躍的に進歩し、ピアノフォルテという名前になってからも、重工業化時代にまるで歩調を合わせるように金属のかたまりのようなフレームによって強力な張力を支え、巨大なボディによって広大なホールの隅々まで音を響かせるように進歩してきました。つまりマッチョな体を持つことによって、大きな迫力のある音で大編成のオケとも対等に渡りあえるようになったし、繊細な音色の変化で高度に発達した社会で暮らす人間の複雑でとりとめのないような感情もあますところなく表現できるようになった……まあ、ラフマニノフあたりを念頭に若干皮肉な意味も込めて言ってるんですが。
ポストモダンだかIT社会だか知りませんが、重厚長大産業の終焉が言われるようになって、重厚長大なピアノやオケの時代も終わったかと言うとそうでもないでしょう。いくらピリオド楽器の演奏が増えても、やはり重厚長大な音楽の表現力は圧倒的なものがあると思います。演奏家自体がそういう楽器で教育を受け、訓練してきていますから、作曲された時代の演奏はそういうものではないなんてお固いことを言ってもその魅力には抗しがたいでしょう。他方、シンセサイザーなどのデジタルな(意味不明で使ってるんですがw)楽器はいまだにニュアンスとは無縁でお話にもなりません。……今の時代が今の感情を十全に表わす楽器を生み出せないでいるのは、どうしてなのかなって思いました。情報の質を問わず量で圧倒する方向に文明が向かっているからなのか、それとも我々の感情が安直でやせ衰えた平板なものになったせいなのか、そんな大げさなことを考えてしまいました。
ベートーベンはわからないけど、ショパンは全体にちいさ~い音量の中で多彩なニュアンスの演奏をした人らしく、弟子にもその点非常に厳しかったらしいですよ。だからやっぱり現在の演奏聴いたら怒り狂うでしょうね、彼の場合。
ショパンのコンチェルトはルイサダのCDでちょっとブームになりました。でもそれ以外の曲では一般には聴いたことがないので楽譜が手に入りにくいのかな、気軽に楽しめるいい方法だと思うのですが逆に編曲などの面でエネルギーが必要です。NHK教育TVのクインテットという番組の中でいろいろやっているのがかなりおもしろく、あの楽譜欲しいなあ、と思っていますw
野平さんはライブで聴いたことがありますが素晴らしいです、はい。
デジタルな音は使いようだと思うのですが、脇役だといいけど今は主役になってますね。やはりスピードと手軽さの問題だと思います。でもほんとにデジタルなもので音楽を作り上げようとしたら、人の演奏よりよっぽど時間と手間がかかりますよ。(演奏家の修行の時間考えなければねw)それでいてきっとできあがりはアイボ君どまりだと思います。
自分のブログでそのうち書こうと思ってたことも乗せられてコンパクトに書いてしまいました、やられたわ…
o(^-^)ohttp://www.misuzu-shop.com/mobile/
最近読んだ本でよかったのは、「イングリットフジ子ヘミング*天使への扉」「東山紘久*The Art of Listening~プロカウンセラーの聞く技術」ですo(^-^)o私はブログまだもっていないので、アドレスないです。いつかどこかで‥。サムディサムプレイス‥☆。
ピアノの進化は聴衆(とその意を受けた興行主)が望んだからじゃないかなって思います。。って音楽社会学じゃないんですけど
デジタルな音楽が「人間的」なものになる前に人間が「デジタル的」になる方が先のような気がしてしまいます。。ってまた意味ありげに言ってしまうのでした
とりとめなくいろんなことを書いていますが、またおいで下されば幸いです