さて、お次はブルックナー(1824-96)です。今やこの次に紹介するマーラーと並んで、オケのレパートリーとして欠くことのできないものです。なぜか? どっちも極めて大規模のオーケストラがめいっぱい鳴って、しかも長くて聴き応えがあるからでしょう。まあ、元を取った気になるからじゃないかなって邪推しています。この二人は接点はあったし、ヴァーグナーの影響を大きく受けていたという共通点はあるんですが、内容的にはずいぶん違うと思います。例えばハイドンとモーツァルトが気質が違うのに音楽的には似てるところが多いのとは対照的です。マーラーの音楽がヴァーグナーやリヒャルト・シュトラウスと似てるところがあるのに、ブルックナーの音楽に似たものはちょっと思い浮かびません。作曲家と言えども時代と環境の子。それらから逃れることはできないんですが、ブルックナーの音楽はかなり離れてますね。
彼自身はそういうつもりはあまりなかったと思います。ヴァーグナーに捧げるような第3シンフォニーを書いたし、ベートーヴェンをなぞってシンフォニーを書いていたんだろうと思います。え?!って思う人もいるかもしれませんが、二人のシンフォニーの調性を見てください。ブルックナーのシンフォニーは習作を除くとすべてベートーヴェンがシンフォニーで使ったものです。特に短調のものは6曲あるんですが、ハ短調とニ短調ばっかり。ベートーヴェンの第5と第9の調性です。それで、ブルックナーの第9ですが、もちろんニ短調。このシンフォニーは彼の死によって第3楽章までで未完に終わってて、それを予感したブルックナーは自作のテ・デウムっていう宗教曲を第4楽章の代わりに演奏してもいいって言ったそうですけど、こんなの全然合いません。だって調性としてはニ短調から遠いハ長調の曲ですから。じゃあ、なんでそんな言葉を残したのか? 簡単ですよ。最終楽章にベートーヴェンと同じく大規模な独唱と合唱の音楽がほしかったんです。もうちょっと言えば、テ・デウムって国家的な祝賀行事にしばしば使われるもので、そういうおおげさな感じを好んだのか、神の勝利を讃え、救いを求める歌詞のうち、例えば次のような一節が死を前にした彼の心境に合ってたんでしょうね。
Tu ad liberandum suscepturus hominem,
non horruisti Virginis uterum.
Tu devicto mortis aculeo,
aperuisti credentibus regna caelorum.
あなたは世を救うためにあえて人となり、
処女の胎内に入ることもおじけづくことはなかった。
あなたは死のとげにうち勝ち、
信ずる者のために天国を開かれた。
前にもちょっと書きましたが、実際にはブルックナーはニ短調で第4楽章のスケッチをかなり進めていて、それを元にNicola SamaleとGiuseppe Mazzucaって人が補筆・完成したものがあってインバルがCDにしています。でも、私には「こんな音楽があの深遠なアダージォの後に来るわけがない」としか思えませんでした。そう、このシンフォニーは3楽章まででも実にすばらしい音楽です。ブルックナーの音楽はさっきも書いたように他とは相当違ってるし、あまり取っ付きがよくないと思いますが、何回か聴いていると良さが必ずわかってきます。聴いたことのない人には最初には第4「ロマンティック」って呼ばれてるのが聞きやすくてお勧めですが、いきなり第9と並ぶ充実した内容の巨大な第8もかえっていいかもしれません。お風呂でも入ったつもりでどっぷり聴いてみれば……。
で、何がいいんだって言われるとむずかしいですし、いろんな人がいろんなことを言ってると思いますが、田舎生れの人が田園風景を描いたものだっていうふうに言っておきます。まあモーツァルトの音楽と正反対のものって思ってればいいかもしれません。優雅じゃなく素朴、華麗じゃなく愚直。でも、どちらも音楽ってこんなことまで表現できるんだっていう深い体験をさせてくれます。
さて、ブルックナーのシンフォニーって9曲じゃないんです。さっき触れたヘ短調の習作とその次にニ短調の0番っていうのがあります。だから11曲。それもこれもベートーヴェンの9曲が作曲家の前に立ち塞がって、気軽にシンフォニーを書けなくしちゃったんですね。