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美術館にお連れしたものの絵画には、およそ興味がないっていう感じのお客さんはけっこういるものです。こちらも無理に誘ったりはしないですが、「行きませんか?」と言われて、「行きません」ってきっぱり言うのは日本人には苦手なようですし、そんなことでいちいち気分を害しても仕方ありません。泰西名画なんて古めかしい言葉ですが、そういうものに興味がないなんて紳士、淑女の名誉に懸けても言えるものではないのでしょう。それも印象派やその前の写実派の絵なら、きれいで、何が描いてあるか一目瞭然ですから(一応は)問題ないのですが、美術史美術館の絵はほとんどそういったものがなく、多かれ少なかれ背景知識がないとつまらなく感じるものが多いですから、クラシック音楽のようなところがあります。
私はこんなブログを書いていますから、芸術作品はだいたい好きですが、自分の中の教養主義みたいなところは何だかケチくさいし、鼻につくなあと自覚しています。別に芸術がなくても生きていくのに困りませんし、当たり前の話ですが、知識があるから偉いわけでもありません。反対に人と付き合ったり、おしゃべりしたりする方が好きだって言う方が健全かも知れませんが、どうもそういうのは苦手です。仕事とかには出かけていますが、本質的には引きこもり系かなって思ってて、せっかくここまでITが進歩してるんだから老後には生身の人間付き合いはやめようかなって思っているくらいです。
話が脱線しました。そういう絵画に興味のない人でもこのアルチンボルド(1527-1593)の絵は、おもしろがってもらえました。造詣の深い人の方がこんなのは邪道だっていう顔をしていたかも知れません。しかし、夏の果物で顔を作るという奇想と頬っぺたは何だろう、口は……と見ていくだけでもおもしろいですし、全体としてのユーモアとグロテスクさが同居したような感じは、“芸術”などというものが誕生する前の古層というか、子どもの遊びめいた妖しい楽しさがあります。
記憶が曖昧ですが、この絵のほかには、四季のうちのもう1枚くらいと四大元素Elementsという、大地、空気、火、水のシリーズのうちの「火」と「水」が脇の通路のような部屋に展示されていました。そうやって何枚も並んでいると、さすがに同工異曲の観がしたりしますし、「水」なんかは魚介類の寄せ集めですから気色悪い、悪趣味なものに見えますが。
さて、アルチンボルドはなぜこんな絵を描いたのか、想像してみたくなりました。と言うのも、ふつうの絵なら題材をどのように描いているかというHowが問題になりますし、なぜ描いたのかWhyなんて訊いてもこの時代であればそういう注文があったからでおしまいの場合がほとんどですが、彼の場合には全く反対のように思えるからです。この辺の事情は、彼よりもう少し前のかのボッシュ(1450-1516)と同じかもしれません。
とりあえずWhyの答えとしてはバカみたいですが、2つの方向が考えられます。果物とかがマーケットで積み上がっているのを見て、偶然に人の顔に見えたということか、あるいは人の顔を見ていてこの人の頬っぺたは桃みたいだなぁ、なんてことです。前者は柳が幽霊に見えたりするのと同じで、素朴な感じで、後者は人のことを“どてかぼちゃ”なんていうのと同じで、ある種の風刺って感じがしますね。どちらか一方と言うことではないようにも思いますが、例えば食い意地の張った貴族や聖職者を批判したっていう方がお話としてはおもしろいかも知れません。
今回、この記事を書くに当たってネットを探していたら、テレビ東京の番組で彼の作品が採り上げられたことがあったそうで、美術史美術館の館長がインタビューに答えて次のようなことを言っています。「アルチンボルドは、“四季”と“四大元素”を何度か描いていますが、我が美術館の作品は、最初に描かれたもので、皇帝が自分のコレクションとして大切に所有していたものです。なぜ、このような絵を描いたのか、アルチンボルドの同僚だったフォンテオの詩に基づいて、解明がなされてきました。夏は、火のように熱く乾燥しており、冬は水のように寒く湿っているというように、“四季”と“四大元素”には、同じ性質を持つもの同士の対話があるのです。また森羅万象を描くことで、宇宙を含めたハプスブルク家の権威、世界観を暗示しているのです」
……はあ。こういう説明で、視聴者の多くは納得するんでしょうね。裏づけもちゃんとあるし、館長様のご高説ですから、私なんかの思いつきとはわけが違います。でも、この説明(HPには他の発言も載っていますが、それらを含めても)には、なぜ彼はいろいろな物で人間の顔を構成してみようと思ったのかが全く説明されていません。自国の版図の豊饒さや権力を誇示したような絵ならヨーロッパの宮殿に行けばいくらでありますし、季節を女神なんかで表現したものも多くあります。アルチンボルドの絵もそういう寓意画とされたのかもしれませんが、それは真っ向からヌードを描けないからヴィーナスにしておくのと同様のアリバイ工作でしょう。しかし、彼の絵が我々の興味を惹く理由はそんなところにはありません。館長の学識の問題ではなく、たぶん番組をもっともらしくまとめようとするインタビュアー=制作サイドの問題でしょう。つまり自分がなぜこの絵をおもしろく思うのかを自分の目と頭でしっかり捉えていなければ、どんなに知識のある人に訊いても平板な回答しか得られないのです。
偉そうなことを言ったので、私の考えを述べましょう。人間なんてこんなものなんだよっていう彼のシニカルな視線があるように感じます。ただそれ以上に、しつこく描き続けたのは技巧と機知を見せて、さすがはアルチンボルドっていう世間的な評価を得る、言わば受け狙いみたいなのが大きな動機だったように思います。そうしたことは、何ら非難されるべきことではなく、かえって社会的な広がりを感じさせることでしょう。
江戸末期の歌川国芳(1797-1861)が人の体による寄せ絵「見かけはこはいがとんだいい人だ」などを描いていますが、市場の人気に敏感な浮世絵師としては話題にならないようなものを描くはずがなく、国芳の様々な奇想をおもしろがるだけの成熟した享受者がそれなりの数がいたのでしょう。アルチンボルドについても同様のようで、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世にいたく気に入られたそうです。どうもこのハプスブルク家のルドルフ2世っていう人は、あのルートヴィッヒ2世と同様、政治的には無能で奇矯な芸術愛好家だったようです。美術史美術館は歴代の皇帝たちの権力の大きさばかりでなく、人間的な弱さや愚かさも見せてくれています。
アンチンボルドは受け狙い…
生身の人間とのおつき合いはぜひ止めずにお続け下さい。それと、「知識は力」、「知らないことは恐ろしい」と思います。
マネが”草上の食事”を描いたとたんにスキャンダルになったのは、日本人の我々からするとピンとこないですが、それはヴィーナスがヌードであることの説明になっていたことを逆に示しているんだと思います。
アルチンボルドのような絵が成立するためには、サロンのような比較的小さなコミュニケーションの場が必要だったのではないかという想像です。
そういうコミュニケーションが取れればいいんですが、あまり人付き合いが上手ではないので。