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「魔笛」を観るといつもある種のとまどいを感じます。一体このオペラは、無邪気なおとぎ話なのか、フリーメーソンの秘儀を示した舞台神聖劇なのか、夜の女王が第1幕と第2幕でなぜ全く反対の役割になってしまうのか、ザラストロの主宰するイシスとオシリスを崇める宗教は本当にタミーノとパミーナを幸せに導くのかなど、挙げていけばいろいろ疑問が湧いてきて、「フィガロの結婚」のような完成度がないように感じてしまいます。その理由の一つには筋の運びがぎくしゃくしていて、話が妙に早く進むところと停滞するところが混然としていることがあるのかも知れません。
脚本の問題であればシカネーダーの責めに帰すべきもののように思いますが、ずっと以前の「後宮からの誘拐」に関する有名な手紙に見られるようにモーツァルトは最も効果を挙げられるよう、脚本の手直しを要求したりしていたわけなので、彼も少なくとも承諾した脚本なのでしょう。
イタリア語のオペラ・ブッファである「フィガロの結婚」は、ウィーン市内でも立派な公共建築物が立ち並ぶ一角のブルク・テアターで上演されたのに対し、ドイツ語のジング・シュピールの「魔笛」は庶民の台所、ナッシュマルクト(「つまみ食い市場」とでも訳せますか)にほど近いテアター・アウフ・デア・ヴィーデンで上演されています。私がウィーンで暮らし始めた頃、アパルトメントを探すまでこの辺りのペンション(小さなキッチン付の長期滞在向けホテル)にいたので、その下町っぽい感じは親しいもので、ミュージカル「エリーザベト」などを演っていたテアター・アン・デア・ヴィーンはほぼその跡にできたもののようです。東京で言えば、三宅坂の国立劇場での狂言とアメ横の芝居小屋(があったとして)のミュージカルのようなものでしょうか。であれば後者については、劇としての破綻のなさよりも、おもしろい場面が次々と現われる飽きのこないものの方がよかったのかもしれません。
私などは、澄ましかえって建前ばかり言っているようなザラストロや弁者よりも、パパゲーノや果ては愛嬌のある悪役のモノスタトスの方に魅力を感じてしまいますし、音楽としても彼らに付けられた音楽の方が楽しいように思います。ましてや夜の女王に対するザラストロらの態度は女性蔑視なんじゃないのかなって思ってしまいます。つまりおとぎ話の方に加担してしまいがちですが、それではたぶんウィーンの当時の庶民にもバカにされるでしょうね。彼らにとってもフリーメーソンは(賛否はともかく)身近な新興宗教か流行思想だったからこそ採り上げたのでしょうし、ヴィヴィッドな時事ネタのように感じるものだったこともこのオペラが好評を博した理由のように思います。
おそらく「魔笛」は最初に挙げたような矛盾が解決されないまま並存しているところにこそ魅力があるのであって、魔笛自体が夜の女王からもらったものであることがその最たるもののような気がします。したがって、現在において、おとぎ話か秘教の修業物語のどちらか一方に偏したような演出は好ましいと思えないのです。事態はもっと混沌としていて、善(=ザラストロ)と悪(=夜の女王)がそれぞれ3人の童子と侍女を連れていることからいっても案外近い存在なのかもしれないですし、古代エジプト由来のあんまり人間的とも思えない退屈な宗教にシカネーダー=モーツァルトが全面的に帰依していたと考える必要もないのかも知れません。とは言え、パパゲーノ的な人間臭い生き方だけでいいとも思っていなかったでしょう。
確かに女性蔑視、コシ・ファン・トウッテも女性からすると、それってちょっとやりすぎなんじゃないの?と思えて仕方ありません。。ただ、ドン・ジョバンニではラストに多少挽回してくれた気がしますが(笑)。
パパゲーノ、カラフルで歌も楽しく人間味があって大好きです
ドン・ジョヴァンニみたいな男に女性は(みんなじゃないでしょうけど)魅力を感じるように想像してますが。
しかし、光源氏はなぜか許せる。ちゃんと藤壷という誰にも言えない禁断の唯一無二の女性が心の中にいて、紫の上がしっかりと横にいる。だから蝶々のように男は花から花へ恋に遊んでいてもいいんです。
女性からことごとく恨みを買う別れ方はよくない。最後に殺されちゃってもしょうがないのです(笑)。
光源氏はいいんですか?……まあ、末摘花まで面倒見てますからね。
でも、なんで銀河鉄道の夜にジョバンニが出てくるんでしょうね?