ちょっと今回は分量が多いんですが、いろいろ都合があるのでご容赦下さいw。ともかくテクストを見ていきましょう。
8)Rex tremendae majestatis,
Qui salvandos salvas gratis,
Salva me,fons pietatis.
9)Recordare Jesu pie,
Quod sum causa tuae viae:
Ne me perdas illa die.
10)Quaerens me, sedisti lassus,
Redemisti, crucem passus;
Tantus labor non sit cassus.
11)Juste judex ultionis,
Donum fac remissionis
Ante diem rationis.
12)Ingemisco tamquam reus:
Culpa rubet vultus meus:
Supplicanti parce, Deus.
13)Qui Mariam absolvisti
Et latronem exaudisti,
Mihi quoque spem dedisti.
⑧畏れ多い偉大なる王よ、
救われるべき者を恵み深く救われる方よ、
わたしを救いたまえ、憐れみの泉よ。
⑨慈悲深きイエスよ、思い出してください、
地上にあなたが降りられたのは、何のためなのか、
その日、わたしを滅ぼされんように。
⑩わたしを尋ね疲れ、
わたしをあがなおうと十字架の刑を受けられた方よ、
その辛苦を空しくしないでください。
⑪正義により罰をくだす裁き主よ、
わたしに赦しの恩寵をくだされますように、
応報の日より先に。
⑫罪を負うわたしは嘆き、
罪を恥じて顔を赤らめています。
神よ、乞い願うわたしをゆるしてください。
⑬マグダラのマリアを赦し、
盗人の願いをも聴き届けられた方よ、
わたしにも希望を与えてください。
第8節の冒頭の“Rex tremendae”(畏れ多い王)も時折見出しになりますね。Rex はT-Rexとかでご存知でしょうし、tremendae<tremendusはトレモロなどと同じ語源で、「震える(ほど恐ろしい)」というのが原義です。次の第9節までは、前回までに紹介した最後の審判のような終末論的なイメージですが、第10節からはイエスの受難のイメージが現われてきます。
その中で注目されるのが「我」という一人称単数が使われていることです。神とイエスに対して、自分の救済を乞い願うというのが「怒りの日」の基本的な構造です。これはずいぶん利己的だなと考える向きもあるでしょうが、一人一人が自らの生前の行いを神の前で申し立て、その裁きを待つという聖書の基本的な考え方から当然ですし、ひいては自らの行いの責任は自分で取るという道徳が生まれるもとになったとすれば、何でもかんでも連帯責任を問うような社会よりよほど健全だと思います。
しかし、原文で「我」という言葉を探してもそれらしい“me”という単語(とりあえず英語の“me”と同じ意味で理解していいでしょう)は、和訳ほどはでてきません。これはラテン語は動詞の変化で主語がわかるので、表示されないからです。つまり例えば“sum”とあればこれは一人称単数が主語だと決まるのです(意味は英語のbe動詞と同じです)。デカルトの“cogito,ergo sum.”(我思う、ゆえに我あり)は、二つの動詞を“ergo”(ゆえに)という接続詞でつないでいるだけです。ですから、逆に欧米のちゃんとした哲学者が“cogito”と言うときには一般的な考えること、思考“pensee”よりも狭く、必ず「我」という主体が考えるという意味で使われています。
話が脱線してしまいました。今回の詩句は直接の典拠を聖書に見出すことがほとんどできませんが(心当たりのある方は教えてください)、広く聖書からインスピレーションを得たのだと思います。例えば最後の第13節はルカ福音書の第7章に見られる、「罪深い女」であったマグダラのマリアがイエスの足を涙でぬらし、髪の毛で拭い、足に口づけして香油を塗ったのに対し、イエスが罪を赦したことと、第23章第39節からのイエスとともに十字架に架けられた犯罪人の一人が悪し様に言ったのに対し、もう一人がたしなめて「我々は自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言い、イエスから天国に行くのを約束されたことによります。この2つの記事は他の3つの福音書では、前者は「罪深い女」と結びつけられていませんし(したがって女の行いの説明、動機は浅くなります)、後者は2人とも悪口を言ったことになっています。4福音書の全体的な評価などはできるわけもありませんが、こうしたエピソードの扱いにおいて、ルカ福音書の編者のやさしさのようなものを私は感じています。これが物語の登場人物の名前に借用した理由の一つです。以前(4/21)にシュッツの「イエス・キリストの十字架上の7つの言葉」を採り上げましたが、そのテクストも犯罪人の一人は悔悟していますから、この部分についてはルカ福音書によっています。
なお、マグダラのマリアは、宗教画では聖母マリアに次いで絵画にもよく取り上げられる女性ですが、ヨハネ福音書の第8章の石を投げられようとしていた、姦淫の場で捕らえられた女とは別人であるようです。しかし、どちらのエピソードも、律法の字句解釈にうるさい知識人であるパリサイ人との対決の場面において、罪を犯した者の側に立ったという点では共通であり、これこそがキリスト教が独自性をもちうる所以であろうと思われます。
先のルーカス神父のお説教が何だったのかとっても気になってきました。
もう一度読むと、ある程度聖書をのぞいたことがあるような想定をしてしまい、端折ってしまったところがあったのかもしれません。
わからないところは何なりと訊いてください。
手軽な本……聖書自体がいちばんいいと思います。日本人の解説本は偏っているものが多いと感じていますので。
ルーカス神父の説教の聞こえなかったところですか? 書いてないんだから、何もないんじゃないですかw。
キリスト教とはあまり縁がなく、知り合いのお母さまのチャペルでの葬儀に参加した時、『○○姉妹は…』と神父様が生前の頃のお話をされていて、てっきりご姉妹で亡くなられたのかとずっと思っていた、そのくらいの程度です。
バチカン、ダビンチ、ミケランジェロ、バッハ…、絵や音楽を理解する上でも宗教感がまったくないといつもつまずきを覚えます。こをれを期に、聖書を買って読んでみようと思います。よいきっかけをくださってありがとうございます。
それにどのように読むかは読む人の勝手ですから、お尋ねがあれば答えますが、自分からもっともらしく解説しないようにしています。
私もバッハを聴くためにぽつぽつと宗教曲のことやキリスト教のことを調べてきました。レクイエムに深入りしたのもそういうことなんです。
ブログを通して素敵な方に出会えてよかった!
いい加減な思いつきしか書けませんが、今後ともよろしくお願いします。