ジャン-リュック・ナンシーの「私に触れるな」という本を図書館で見つけました。今年の4月に出た本なので「これはラッキー」と思って読んでみましたが、デリダの友人だというのがさもありなんという感じの難解かつ思わせぶりな文章です。私は脱構築という言葉を見るだけで脱力してしまう方なんで、テーマがノリタンでなければ放り出してしまうところですが、幸い130ページほどで実質的な内容が70ページくらいなんでなんとか読むことができました。
本も薄いですが、(興味を惹かれたという意味での)内容も薄いので紹介するのは楽です。レンブラントの「マグダラのマリアの前に姿を現すイエス」がいちばんの収穫でしょう。この絵はノリタン(イエスがマグダラのマリアを拒む)直前の場面で、朝日の中で振り返ってイエスを見出したマリアをレンブラントお得意の光と影の強烈なコントラストの下に描いています。ナンシー(と言っても男ですw)が指摘するとおり、帽子をかぶって鋤を持ったイエスが逆光になっているところなどデューラーの版画がヒントになっているでしょう。それ以上に卓見だと思ったのが天使の足がマリアの方へ投げ出されているのは、ルカ福音書第7章第37-38節の「罪深い女」がイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐい、口づけして、香油を塗ったというエピソードに関連付けたものだという指摘です。この「罪深い女」がマリアと聖書の受容史の中で同一視されるようになったことは既に述べましたが、このやや無遠慮に投げ出された足はそれだけに強い想起力を持っています。
しかし、ナンシーがレンブラントだけがこの関連を意識していたと言うのはちょっと疑問です。そう思ってみるとアルバーニ、ブロンジーノ、何より松井か新庄のキャッチのようだと私が言ったヴェロネーゼのようなマリアが低い姿勢でイエスの足を触れようとしている作品はその可能性があるでしょう。……いずれにしてもノリタンの新しい見方を提示したことは評価できます。
感心したわけではないのですが、驚いたのがティッチアーノの作品についての次のような記述です。「女の右手は布の前を通り過ぎているようにも、あるいは布をかすめているようにも、どちらにも考えられる。そしてこのことはイエスが自分の体を守ろうとするかのように(さらに言えば、磔刑者の古典的な腰帯によって強調されながらもすでに覆われている自分の性器を守ろうとして。一連の<ノリ……>のなかにあって非常に例外的である)布を引き寄せている最中なのでなおさらだ」いえ、なるほどこの絵にはそういう意味があったのか!と言ってもいいんですけどw。
さらに当惑するのが”Noli me tangere”の解釈です。このラテン語は直訳すると「私に触れようと欲するな」で、元のギリシア語の「Me mou haptau 私に触れるな」と微妙にずれています。ここまではいいんですが、「欲するな」がナンシーの頭の中では暴走していくんですね。マグダラのマリアは触れるなと言っても、もう触れている、触れてもそれをすぐに忘れろとなって、果ては逃れる者を愛しなさい、立ち去るのを愛しなさいとなっていきます。「愛と真理が私たちに寄せるもの、それは愛と真理の遠ざかりである」とわかんないことを口走る一方で、気恥ずかしくなるような陳腐な結論になってしまうところがこの手の「哲学者」にはありがちですなんですが。
しかし、そう思って見ると笑えてしまうのは事実ですね。
思ったことは言わないと気がすまない私も見習いたいような、やっぱり無理なような
好きな言葉になりました
というか、いっぺんそうやってみたいようなw。