夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

08年の読売日響の定期公演について

2009-01-25 | music
詩に続いて、クラシック音楽についての記事をサイトにアップしました。ほとんどすべてが読売日響の定期公演の批評なんで、これまでの音楽ジャンルごとの構成から暦年ごとの構成に変えました。去年もクラシックのCDはいろいろ買っていますが、個別に批評するほどの余裕も力もないようです。読売日響以外のコンサート、特にピアノや室内楽のリサイタルにも行きたいんですが、チャンスがなかったですね。

で、内容ですが、11月のオールベートーヴェンから大きく異なっています。文体からして変なふうになっていますし。これは先日書いたように、ずっと片想いだった音楽が微笑んでくれるようになったというぼく自身の感覚の変化によるものです。遠慮なく書いてしまえば一般の聴衆が聞こえないものが聞こえる、通常の演奏家が見えない楽曲の構造が見えるということです。原因は長年にわたりいろんな音楽を毎日何時間も聞いてきたからという直接的なもの以外に、体を鍛えてきたからとか、この時期に精神的なストレスが重なったということが挙げられるでしょう(後者についてはグールドについての奇妙な文章が暗示していますが、その意味合いはわりと射程の長いもので、ピーター・セラーズについて書く時にもうちょっとはっきりできるはずです)。……古代ギリシアのアテナイでは音楽と運動が市民(すなわち戦士)にとって必須の教養であったそうですが、人間理解の深さを感じさせるエピソードです。

でも、そういう兆候は前からあって、例えば1月のバルトークやショスタコーヴィッチについては、凡百の解説を超えて、曲の構造の分析とその結果浮かび上がる作曲家そのものの評価を行っています。……何をえらそうなという声がしそうですけど、ではあなたはそれなしに音楽を聴いて何の足しになるんですか?まあ、せいぜい気晴らし・暇つぶし・ディヴェルティスマンとして聞くんでしょうね。ふつうの人はそうなんでしょうし、演奏家だって多くはそうかもしれない。しかしながら、あいにくそんなのではモーツァルトのディヴェルティメントだってわかりゃしませんよと悪態で返しておきましょう。

また、聴感がよくなってきて、音楽の細部や中身がよく聞こえるようになったのはいいけれど、一般人の無教養・無神経に苛立ってしまい、感情を露骨に示しすぎることも既に3月の池袋のコンサートに現れています。この記事によってとあるSNSのコミュから(演奏家に対する敬意がないとかなんとかを一応の理由にして)追い出されたんですが、まあ、日本の音楽批評の現状について、ホントのことを言うとそうなるのはやむをえないかなって思っています。

そういう意味ではヒンデミットをホイットマンの詩のテクスト分析から批判したものは、ぼくの従来のスタイルの典型・最終型かもしれません。いくら書いてもわかんない人には有害無益だし、わかっている人には音楽を聴く場合の当然の前提が多く、大きなお世話なのかもしれないので。

毎月のコンサートについて書くのは自分に課した義務のようなものですが、それだけにその時々のぼくの「天気概況」を示しているように思います。こういうとまたマジメとか律儀だとかお友だちに言われそうですけど、他人や国家から押し付けられた義務はイヤだし、適当にごまかそうと思いますが、自分で決めたことくらい守れなくてどうすると思っています。これまたふつうの人とは違うのかもしれませんね。



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2 コメント

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え~っと (ぽけっと)
2009-02-03 00:39:32
ある種の修業の結果得た神秘体験、というようなことがさらりと書かれているように思いますが…そういうこと?
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神秘体験ねぇ (夢のもつれ)
2009-02-03 14:37:00
そんなものがあったかどうかは、privatumに分類したphilosophyのまとめの方がもっと体験に即しているかもしれません。

でも、どのジャンルにしても、それぞれの記事の方がもちろん重要で、こういうまとめのような文章はただのメモかなって思います。だって、「途中で文体とか違ってますけど、それは個人的な事情によるものですので、読む人は気にしないでください」ってことを長々と(全然さらりじゃなくw)書いているだけですし。

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