宇八は渋谷に向かった。演奏が行われるホールの中の会議室で、打ち合わせが行われるからである。電話で道順を聞いていたにもかかわらず、駅で降りてから道に迷ってしまった。元々方向音痴っぽいところがあるにもかかわらず、こっちからも行けるはずだと、人通りの少ない方をわざと選んだりしているうちにわからなくなり、さらに道を変えるとまた傷口が広がっていく。この時期にはめずらしいかんかん照りである。……早めに到着するはずが、大汗をかいて着いた時には、20分以上遅刻してしまった。へどもどしながら、碌にあいさつもせずに席に着いた。どうも雰囲気がなじめない。プロモーター、スポンサー、支援者……作曲者なんて上演に向けた数々の作業の中では、主体的に動くような役割はない余計者である。植村美沙子の顔も見える。安田や椎名の顔は見えない。それはそうだろう、平日の昼間に霞ヶ関の役人がいたら問題だ。
聴衆の見込み、経費の見積もり、数字が並べ立てられる。植村は色々なアイディアを出している。教団関係、学校関係、多様なルートを活用しよう、パンフレットは内容をわかりやすく、意義をていねいに説明すべきだ、家族向けの割引券はどうだ等々。みんなメモを取っている。宇八は筆記用具すら持っていない。的確な質問(たぶんそうなのだろう)があちこちから飛ぶ。ゼミの部屋を間違えた出来の悪い学生になった気分だ。……
この作曲家は、遅刻した挙句、居眠りを始めてしまった。いびきまでかいて。やっぱり呼ばない方が良かったのだ。また目配せが始まる。大物なのか? 大物気取りか? ただの新人、アマチュア作曲家じゃないか。なんとか先生も意欲的だが素人臭いって言ってたじゃないか。うん、かんとか先生は、君たち勇気があるねえって言ってた。それを担がされるおれたちもいい面の皮だ。だって教団が肩入れしてるんだろう? いや、突き詰めて言えば反対はしないってところだ。やれやれ、人が真剣にやってるのになあ。しっ、植村さんが気の毒だ。……
そんなひそひそ話混じりの会議が終わり、植村のテレビ用の声と笑顔で宇八は起こされた。
「お疲れのところ申し訳ありません。先生、ぐっすりお休みで」
忍び笑いで状況を飲み込んだが、ぼやけたままの顔で、
「ああ、よく寝た。すみません、会議中に」と目をこすりながら応えた。
「いえ、もう終わりましたので。……よろしければ、もう少しお付き合いいただきたいのですが」
そう言って、新宿に連れて行った。支援してくれる財団にあいさつに行くということだった。役所のOBらしい役員が何人も出て来て、そのたびに勧められたソファから立ち上がって、名刺の交換をする。なんだか、屈伸運動をするために東京に来たような気がする。相手は、聞いたことのない、あやしげな中小企業のおやじがなぜ作曲なんかするのか不思議そうである。しかし、植村が誰がどうしてる、かれがこうしてるといった会話を楽しそうにしているので、しゃべる必要のない宇八は楽である。植村の名刺を見ると『古賀美沙子』となっている。あれっと思っていると、外に出た後に古賀が本名で、植村は旧姓、テレビではそれで通しているのだと教えてくれた。ふーん、ややこしいものだなと思った。
夕方には安田や椎名も交えて、旧知の仲(と言っても一回顔を合わせただけだが)で、食事をしましょうと植村が言って、時計を見たときだった。新宿駅東口近くの交差点で、それは聞こえてきた。なんだこれは? あ、『十字架上のイエス・キリストの言葉』じゃないか。なぜこんなところで、シュッツの音楽が聞こえるんだ? そんなはずはない。カメラ屋の騒がしいテーマ・ソングも、車の騒音も、内容のない話し声も、そういうのが全部一緒になった、新宿の新宿たる音が遠ざかり、少しかすれた弦の響きがはっきりと聞こえる。空耳か? 幻聴か?……そんなことはどうでもいい。音楽はどんどん進んで行く。植村が何か言っているが、切れぎれで意味がわからない。空が見える。なんて広い空だ。本当に新宿なのか、ここは? とても澄んだ空気だ。音楽は止まらない。イエスがヘブライ語で言葉を吐く。どういう意味だ?……意味なんかどうでもいい。すばらしい音楽だ。本当にすばらしい。そうさ、音楽が好きだから、おれは。……あ、あれは。
その時、宇八は新宿の雑踏の中に紘一、消息不明になっていた双子の片割れの横顔をはっきりと見たのだった。「おい、紘一」と呼んで、吸い寄せられるようにあとを追いかけて行ってしまった。……
暗くなってから(どこをどう歩いたかは自分でも憶えていないのだが)、新宿西口の高層ビルの前の広場で、ぽつんと座っている自分を発見したというのがその時の彼の心理状態に最も近い言い方だろう。
もちろん植村も誰も周りにはいない。これはまずいことだとは思い、植村の名刺の電話番号に電話したが、誰も出なかった。「仕方ないな」と呟いてホテルに引き上げた。と言うとすんなり行けたようになるが、今日体験したこと、何より自分の頭がおかしくなったのではないか、またあのようになるのではないかという疑念、恐怖感が這い上がってくるのを抑えきれなかった。そのため、何回も電車を乗り間違えたり、乗り過ごしたり、プラットホームに立つのが恐ろしく、階段でしゃがみ込んだりして、夜も10時を回って、後楽園のビジネス・ホテルにどうにかたどり着いたのだった。……
ベッドに入ってからも、朝、目が覚めてベッドの中にいる時も、どうあのことを理解しようかとずっと考えていた。こんなことは長い間、そう、四十歳の誕生日以来なかったことだった。なぜ、ああなったかを考えても仕方ないだろう。一種の異常体験だからかえって良くない。……いや? 宇八は思わず起き上がった。そうだ、理由を考えてみよう。あれは『アニュス・デイ』を、レクイエムを完成しろという啓示と考えればいいじゃないか。それがいい、それが早い。そう思ったとたん、宇八は朝のベッドの中で、再び眠り込んでいった。